君たちが僕にとって何だったのか分かったから、また違う場所に向かっていく。

3D格闘ゲームってのに、こだわってきた。
てか、3D格闘しか出来なかった。

個人的には2D格闘の画面の色に惹かれる。
明るく暖かくふんわりとした感覚。

でも、2D格闘って上手くならなかった。
ついで言うと今でも戦い方が分からない。

3DポリゴンやらCGやらの厚みに、人間らしさの見せかけを感じていたから。
ゲーセンって場所がコミュニケーションを必要としていたから。

キャラクターとプレイヤーは同等で、やはり厚みを持った存在であった。

同じ様にコミュニケーションを取る対象になり得た。

そこに寝ているなら蹴り飛ばせる。
キャラクターもプレイヤーであっても当たり前だった。

そんな当たり前が僕を癒やして再生させてくれた。
1人の人物として確立させてくれた。

3D格闘のキャラクターたちも、僕にとってはまさしくその場に居て関わった人たちに含まれていたんだ。

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実はnotoを始めてから3D格闘のキャラクターがキツくなっていた。

イメージはある。
動きも理解出来る。
しかし、違和感しか感じなくなっていた。

これは送り手としての感性の部分が影響している。
ジャンルというものを意識するからだ。

ゲームというジャンルは、楽しさだ。
ガンダムの様なリアリティの暗さを押し出しても仕方がない分野なんだろう。

現実で戦うなら、薄暗い場所。
分かる。分かるんだが。

格闘ゲームというジャンルなら違ってもいいし
違う方が似合うのかもしれない。

色という表現媒体は、とても大切なんだと感じる。
派手なら良いと言う気は無い。
無いんだが、それがジャンルの特色であるのも否定は出来ない。

現実のリアルの色に近づけば近づく程に
実は空虚さを強めるのかもしれない。

そんな風に考える様になった。

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「月に濡れる。」も「まほろば流麗譚」も頭の中に流れる映像は、実はアニメ的な絵である。

実写で見えるのは時代劇なら「残陽」だけ。

アクションに格闘ゲームの要素を入れたのは分かっている。

ただ最初は3D格闘のリアリティを持ち込んだ気でいた。

でも実際には、2D格闘の雰囲気に帰っていた。
だから「まほろば隠れ人」のタイトルの時、2D格闘っぽさをやろうと言っていたんだ。

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ここにタイトル変更の理由が少しある。

3D格闘はリアルに痛くはない格闘技だと思ってきた。
自分がやっていた格闘の感覚が持ち込めたからだ。
この感覚だけをアクションに当てはめていた。

今は物語全体にコミュニケーションがあるものを目指している。

部分的な事よりも全体的な色彩が必要に感じる。

何も分からずに、ただやってみたい。
やってみたら楽しかった。

この源流は2D格闘のストリートファイターや餓狼伝説の中にある。

どこかコミカルで色彩艶やかな風景の中にある。

そういう風景の中で物語を統一する方が、日々の現実からの一瞬の息抜きとして機能するなら良いんじゃないかと思った。

「流麗譚」、僕は「るれいたん」と呼ぶんだけど、このタイトルには極彩色の絵巻をイメージした。

格闘ゲームという楽しさの始めにあった色たち。
そんなものが欲しかったんだ。

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だから、「まほろば流麗譚」からは一気に時代劇っぽくなくなってるんだと思う。

そこに魅力を感じていた人からは、そっぽを向かれるだろう。

それは分かっちゃいるんだけど、、、やはり先に行きたいんだよね。

「残陽」から急に妖怪退治に跳んだのは、そんな事を考えたからなんだ。

ちょっとだけ鮮やかな嘘の世界で、少しコミカルなコミュニケーションを取る人たち。

そんな絵が浮かんでほしいと願っているからなんだ。

ちなみに今対峙している河童は、こんな感じです。
ね、2D格闘ゲームでしょ(笑)

この感覚は「ブラッディカルマ」まで続く。
このタイトル自体、意識的にこの感覚にしてる。

時代劇はファンタジーだから、何でもありでいい。

それを体現する色で、コミュニケーションのすれ違いや見せかけのまやかしから生まれた世界の話を作る。

「まほろば」は再開後は一気に河童退治をやる。
主要キャラが後1人合流して、全体の流れは決まる。

これはしばらくの間、このお話の基本フォーマットになる部分。

実際、無茶苦茶やる、、というか、やってるなぁ。
あまり、そっぽを向かれない事だけは祈っていたい。


マブ


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