初めに

生身の人間が振り切ってしまえば、創作の枠を超えてしまう。クリエイターの思考がまだ見ぬ映像表現を脳内のスクリーンに映しても、そこに血と呼吸、揺れる肉が無いと。そんな気がして。

自分が共感する作られた者は、皆んな息をして筋肉の躍動を伝えていた。人間に出来る事、出来ない事、その狭間。

映画の嘘は美しい。ただ人間は疲れる。
ヒーローみたいに無限に動き回れやしないから。
心を重ね合わせた時に1番欲しいのは、そこ。
どこで食べ、風呂に入り、眠り、抱き合うのか。
それが無いと、自分はシンドクなる。

時代劇の浪人は雨風を凌ぎ食べる事、季節と共に眠る場所、それがダイレクトに命に繋がる。
浮き上がった存在に設定するのが作劇上のケレン味にはなっても、そこが欠ければ活動なんて出来ない。

この場所でまず時代物を書こうと思った時に、そんな部分がとても気になってしまう。堅苦しい時代考証をするつもりはハナから無くても、時代劇はファンタジーだと思ってはいても、呼吸と肉と熱あってこその躍動だと。

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