世界、あるいはユートピアへの旅―『難波平人―世界集落、その魂を描く』を見て
灰色の街並み。人の影は見えない。
広島県、東広島市在住の画家、難波平人の作品を私は見ている。
荒涼とした世界に、一瞬ある種のディストピア的世界観を感じる。
だが、不思議とそこに悲壮感や絶望感は感じない。そしていつの間にか、 絵画の中にあたかも吸い込まれるような感覚を覚える。その引力に、引きずられまいと必死にあらがいながら作品と対峙するのである。
本稿は、2022年10月12日から12月4日まで、東広島市立美術館で開催された特別展『難波平人―世界集落、その魂を描く』の鑑賞レポートである。
初期作品
難波は、1941年、山口県熊毛郡上関町白井田に生まれた。中学時代は野球に打ち込み、サードを守っていたという難波だったが、中学校3年生のとき、美術教諭岡村俊三氏の影響で、絵を描くようになる。
1960年に難波は広島大学教育学部美術科(現:教育学部造形芸術系コース)に入学する。途中制作から離れるも、制作への欲求から故郷に近い祝島などを取材、《島の家》は東光展(昭和7年から続く公募展)の第31回で奨励賞を受賞している。この作品には荷車を押す人の姿が描かれており、のちの人の姿が描かれない難波特有の画面構成との違いを感じる。
海岸をめぐって
大学を卒業後、難波は広島県立竹原高校に勤務しながら、故郷に似た風景を求め日本の海岸線を訪ねるようになる。難波にとって故郷の上関町はあまりに心理的に身近な存在であったため、かえって作品にするのが難しかったからだという。
難波は具象絵画の作家にとっての登竜門となる安井賞展に出品、1991年までに7回も入選している。1980年の《集落》(本稿冒頭に画像掲載)も第23回安井賞展の入選作である。
本展では「第2章 日本の海岸線を巡る―画家の出発」として、1970年代後半の作品から日本国内の海岸線を描いた作品を中心に構成された展示の章があった。
その中で目をひいたのが、《集落(西日)》(1983)である。本展の第2章にまとめられた作品は、多くが集落を高い位置から俯瞰する視点のもので、全体的に寒々とした印象を受ける作品が多い。一方この《集落(西日)》は視点が集落の中に入り込んだような視点であり、かつ暖かな光に包まれているような印象を受けた。
異国の集落に「故郷」を求めて
全国の漁村を訪ね、絵の題材を求めた難波だったが、故郷を超える場所を見つけられずにいた。そんなとき、偶然雑誌で見つけたモロッコの風景が故郷と重なり、その眼を世界に向けるようになる。
トルコのカッパドキアを題材に制作された《遙遙I(トルコ)》(1996)では、画面の上部から下部にかけてだんだんと暗くすることにより、歴史の奥の冥界に入っていくような雰囲気を狙っているという。
また画面下に小さく描かれている尖塔は、実際に存在するものではなく、集落に対峙する難波自身の姿を象徴するものだという。この尖塔は他の作品にもしばしば描かれている。
海外の風景を描いた難波の作品に特徴的な要素が2つある。一つは灰色を基調とした色遣いである。もう一つは画面の明暗の対比である。
一つ目の灰色を基調とした色遣いについて、難波は、自分が故郷を思い出すとき、作品のようなモノクロの風景でいつも想起するからであるという。難波が異国の地を描いている時、同時にその眼には故郷の姿が重なっているのだ。異国の地に難波は故郷の姿を投影しているのである。
二つ目の明暗の対比であるが、難波は実際の風景にはない影を描くこともあるという。光があたっているところは温かい印象を受けるが、影になっている場所は吸い込まれそうになるほど暗くなっている。それはあたかも、人類の誕生、繁栄、そしてこれから訪れる滅亡を暗示しているようである。
以上、2つの特徴的な表現を見てきたが、本展覧会に出展された2010年代からの作品については画面が色彩を取り戻していることも見逃せない。作家が海外の風景を描くのは、故郷を超える風景を求めてのことであり、故郷の姿を投影しているからこそ、その風景は灰色の風景として描かれるのだと述べた。しかし、《リオのファヴェーラ(ブラジル)》(2011)では、周辺から中心にかけて徐々に暗くなっていく明暗表現や、作家自身の分身である尖塔などの表現が残りつつも、屋上に設置された貯水タンクの青が鮮やかに映えている。《グァテマラシティ》(2015)では、白い建物にところどころ青や赤のアクセントが入っている。もちろん海外の風景を描く際、常に故郷の姿を投影しながら描いているわけではないだろうから、色彩がそこにあったからといって特段驚くことではないかもしれない。しかし見方によっては、異国の風景が、あるとき難波にとって故郷を超える風景としてそこに現れつつあるとも考えられる。作家はついに長い旅を経て、ついに自身のユートピアたる故郷にたどり着き、それを乗り越えつつあるのかもしれない。
おわりに
“ars longa, vita brevis” という言葉がある。「芸術は永遠だが、人生は短い」という意味でしばしば使われる。今回の展覧会を見て、難波の作品はまさにこの言葉を体現するものではないかと感じた。
難波は人間が生まれ、生活し、死ぬ場所である「集落」の姿をキャンバスの上に永遠に定着させる。人を描かないのは、描くことによって時や場面が特定のものになってしまうのを避けるためだという。難波の作品に描かれた集落は、もちろん難波自身が制作時に自信の眼でとらえたものであるが、あらゆる時間を超越した存在としての「集落」であるともいえるだろう。それは、たとえそこに住む人がいなくなろうと、《深遠(シリア)》で描かれたパルミラ神殿のように許しがたい蛮行によって破壊されようと、永遠に存在し続けるものなのだ。
同時にそれは、厳しい環境にあらがい、懸命に生きようともがき、そして死んでいく人間そのものでもあるとも考えられる。そうであるならば、そこに人の姿は必要ない。
とはいえ、そのような場所は概念的なものであり、我々の可視界ではとらえられないものだ。我々がいくら求めてもたどり着くことはできない。それは、難波にとってあまりに心理的に近すぎるがゆえに描けないという故郷の風景と重なる。難波の手は、世界中にある集落をえがくのみならず、時空を超えて存在する「ユートピア」としての集落をキャンバスに閉じ込めているのである。
参考文献
『難波平人―世界集落、その魂を描く』所ふたば、大山真季編、東広島市立美術館、2022年。
※なお、執筆にあたっては2022年11月26日に東広島市立美術館で行われた『難波平人―世界集落、その魂を描く』のギャラリートーク(東広島市立美術館所ふたば学芸員による)も参考にした。