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「甃のうへ」

 午前中に、体育で水泳の授業があったある日。
 午後5時間目の現代文の授業は、三好達治の「甃のうへ」という詩の授業だった。


 水泳の後の気だるい空気を教室が引きずる中、いつものように、順番の誰かが詩を音読した後、先生は三好達治その人について、いつものように、にこにこして説明された。授業が詩の鑑賞と解説に入ると、先生は若かりし日を思い出すような表情をして、いつものように幸せそうに、黒板に板書したり、言葉で説明したりしながら、授業を進めていった。

 短い詩だから、先生の話もそんなに長くはなかったはず。だけど、クラスメートの居眠りの感染拡大は、その日、すごい勢いだった。みんなの頭がどんどん下を向いて行ってしまい、そして、ついに、わたしを除いた、クラスメート全員が眠ってしまった。



 え~、こんなことになってしまった、どうしよう??💦
と、慌てるわたし。

 先生、きっとがっかりしてしまうにちがいない、どうしよう??💦
と、慌てるわたし。





 でも、先生は、まったく気にかけず、いつもとまったく同じように、授業を続けられた。
 それでわたしも、いつもとまったく同じように、そのまま授業を聞いていた…。


 「あはれ花びらながれ

  をみなごに花びらながれ

  をみなごしめやかに語らひあゆみ

  うららかの跫音空にながれ・・・」


 「甃のうへ」は、その古めかしいような石という字や、古い言葉遣いに、なかなか入って行きにくい、ちょっとかっこつけたような、仰々しい詩なのかと思いきや、花びらの舞い散る中を歩いている女子たちに、ふと目をとめる三好達治がそのまま、先生の若い頃のように思われて、うわぁ…、と、思わず息をのんでしまった。



 おー……、これは……、わたしひとりで先生の授業を独り占めだ……。








 さて、ひとしきり説明を終えた先生は、ひとりだけ頭を上げて、すっかり先生の「甃のうへ」の世界に引き込まれて目を輝かせているわたしのほうを見て、にこっと笑って、学ランを着た学生時代の先生から、落ち着いた大人の先生に戻った。わたしも、我に返って、にこっ。









 今思えば(今思わなくても)、すごいことだ。もし、授業中、たった一人の生徒しか起きていなかったら、どうする?
 ふつうなら、焦るか、人によっては怒るか、起こしたくなるか、進むのを諦めるか、少なくともものすごく気が散ってしまうのではないだろうか。

 教師としてのそのときの先生の行いを、批判する人もいるのだろうか。教師なら起こすべきだ、とか、もっと生徒を引き込むように発問や構成を工夫するべきだ、とか、やる気のない先生だ、とか??
 だけど、その時の先生は、路上ライブの野心溢れた演奏家ぐらい、やる気に溢れていたと思う、わたしだけのため?に。
(そもそも、水泳の後の5時間目の授業に、「発問」も「構成」も何も、あるのだろうか??)

 先生があの時、どんな気持ちで授業をしていたのか、もし、訊けたとしたら……う~ん…、聞きたくはない。そんなこと訊かれたって先生だって困ってしまうに違いない。
 単に話すことに集中していて、生徒の様子は目に入っていなかったのかもしれないが、いつもの5時間目なのだから、薄々分かっていないはずはない、とすると、ある程度確信犯に違いない。

 いつものご様子から察するに、先生は現代文の勉強は、苦行や、義務としてやるものではなく、純粋な文学の楽しみであるように、と思っていらっしゃったのかな。それをあの状況でも、やり通したということなのかな。











 今、生徒たちの眠そうな顔を目の前に見ながら、そんな遠い記憶が頭の隅を駆け巡って、
    わたしもあのくらい悟ってもいいのかな~、
なんて思いながらも、何が正しいか分からぬままに、結局わたしは、とりあえず生徒たちを起こしておくむなしい工夫を、あれこれ考えてしまったのであった。

 おしまい…。

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