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ひとがしぬということ

知人が急逝した。
まだ若かったのと、
その方のお人柄や仕事ぶりから考えて
とても信じられない知らせだった。

周囲もニュースに言葉なく
ウソでしょ?
なにいってるの?
と動きを止める人ばかり。わたしも受け入れるのに
何日も何日もかかってしまい
いまだその人を思い出しては
胸がギュッと掴まれたように悲しくなる。

でも、やっと
こうやってそれについて書こう
というところまで来た。
ヒトは回復する。
だいたいのところ、
大変な時を凌ぐことができれば
固いタネから芽が出るように
やがてはヒトは明るい方向に伸びていくことができる。

それでも、灯りがどうしても見えない時
ミライを待つだけのエネルギーがない時
本当に本当に辛い時
ヒトは死を選ぶのだろう。

わたし自身はとりあえず、
普通の人より身近に死が多い人生だだたかもしれない。

父は物心つく前に急死したという。
一緒に暮らしてた叔母は中学時代に病死した。
高校に入ると幼なじみが
電話をかけてきたあとから
意識不明になりそのまま死んだ。
出席番号が隣の女の子は
高校卒業直前に亡くなった。
大学時代の親友は
何通も死にたいと手紙をよこしてくれたけど
別々の道を歩み始めた矢先に自死した。
しばらくして優しかった義兄が
ある朝突然目覚めなかった。
社会人になって一緒に遊んでた友人が
うつくしい日記を残して自死した。
母が死んだ。
病気だったけどあっという間だった。

もちろんおじいちゃんとかおばあちゃんとか
それ以外の親戚も
亡くなったけれども
わたしに衝撃を与えたのは
今記した死だったと思う。
この頃はそういったこともなくなり
わたしの人生もようやく人並みに
落ち着いてきたな
と思っていた矢先の今回の出来事だった。

人が亡くなるたびに
わたしはまず悲しさより怒りにとらわれる。
その人が苦しんだとか立派に生きたとか
そんなことより先に
この荒々しい世の中に
ひとりぼっちで置き去りにされた気がして
一方的に見捨てられた気がして
激しい裏切りにあったような気がして
わたしは怒るのだ。
勘違いも甚だしいが、
それがほんとのところだ。
どうして、どうして、どうして
わたしじゃなくてあなたが死ぬの?と。
神様、なんで
わたしの番じゃなかったんですか?って
わたしは人が亡くなるたびに思っている。

そのあと、時間差で
悲しさとか寂しさとか悔しさとか後悔とか
いろんな感情が
ヒタヒタと押し寄せてくるけれど
そういう感情に溺れそうになりながらも
わたしは確かに生かされていると感じる。
とにかく悲しくても無理だって思っても
わたしは生きなければいけないのだ、
当面は。
ありがたく今生きていることを受け入れる
しかないのだ、この気持ちとともに。

どうかもう悲しいことが続きませんように。
亡くなった人たちはどうぞ安らかに。
生きてゆくわたしたちは
なるべくなら、アカルイミライのために
たくましくまいりましょう。






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