なぜ人は「自分より劣った存在」を必要とするのか-皆、誰かを見下して生きている-
コンビニの店員に説教する客。恐らく人生で最も輝かしい瞬間なんだろうね、あの表情からすると。つい昨日まで自分の会社で上司に頭下げてた人生、今はイキイキしてる。レジ袋の渡し方一つで、誰かを見下せる立場になれる。得した気分なのか、損した気分なのか。
で、その横で私も見てる。「あーいう大人にはなりたくないな」って。気づいた?今、私もあの客を見下してる。誰かを見下してる人を見下して、優越感に浸ってる。入れ子構造みたいな、この傲慢さ。
世の中から「マウンティング」って言葉が消えた日には、きっと私たちは新しい言葉を発明するんだろう。「あの人、マウンティングする人をマウンティングしがち」なんて言って。で、その発言をする自分が一番高い山に立ってる。
この前、同僚が「上から目線の人って嫌いー」って言ってた。うんうん、って相槌打ってる自分の目線が、やけに上から下に向いてた。そう、みんな誰かを見下すことで、自分の立ち位置を確認してる。それを見下してる私も含めて。
面白いよね。誰もが誰かの上に立とうとして、結局みんな自分の首を絞めてる。まるでエッシャーの階段みたいに、永遠に上り続けて、気づいたら最初の場所に戻ってる。
あ、さっきの客が帰っていった。店員が深々と頭を下げている。明日はあの店員が、また別の誰かを見下すんだろう。この見下し合いのリレー。バトンの代わりに優越感を手渡して。
...って書きながら、私も随分偉そうだな。この文章自体が、誰かを見下すための道具になってる。ほら、また新しい階段が出来上がった。
今日もどこかで、誰かが誰かを見下して、その誰かが誰かを見下して。
でも不思議と、みんなどこか寂しそう。
比較対象を探す日常
「見て見て、あいつの投稿。」
SNSで元カレの近況をチェックする友人。「太った?ハゲた?収入減った?」って、まるで人生の下方修正を祈るみたいに。いや、私だって人のことは言えない。昨日も深夜2時まで、昔の同級生の写真を遡ってた。「あ、この子、昔より劣化した」って思った瞬間の、この説明しづらい安心感。
週明けの会議室。誰かの失敗を聞くと、なぜか元気が出る。「やっちまったなー、君」って優しく声をかけながら、心の中では「よっしゃ」って。この感覚、絶対に誰かに見られたくない。見られる前に、さっき書いた「よっしゃ」って文字も消しとこうかな。
電車の中でスマホを覗き見る習慣。別に画面の中身に興味があるわけじゃない。ただ、「この人、まだあんなダサいゲームやってんだ」とか「この歳で少女漫画?」とか思える機会が欲しいだけ。で、その横で自分は積読した教養書をわざとらしく開く。読んでる風な。
「頑張ってる私」を演出するには、「頑張ってない誰か」が必要不可欠。だから必死に探す。友達の投稿から、隣の席の人の仕事ぶりまで。見つけた時の「やれやれ」感。この、上から目線の「やれやれ」を言えることの幸福感。
でも、ふと気づく。この文章だって、誰かを見下すネタ探しの日記でしかないんじゃないか?「ほら、人間ってこうだよね」って、優越感まみれの観察日記。
あ、また隣の人がスマホ見てる。なんか、すごくダサい着信音。
...って、私のスマホだった。
優越感という麻薬
誰かの欠点を見つけると、なぜかホッとする。「あ、この人も意外と出来ないんだ」って。これ、麻薬みたいなもんだよね。一度味を覚えると、やめられない。他人の欠点コレクター。
この前、かなり意識高い系の同僚がタピオカ屋で並んでるところ見かけた。「あんなに仕事仕事言ってたのに、こんなところで」って密かに喜んでる自分がいた。その帰り道、タピオカ買って飲んでる私って、なんなんだろう。
面白いのが、他人を見下してる最中に、誰かに見下されてる可能性を考えて焦る瞬間。電車で「あの人の服ダッサ」って思った直後に、後ろの席の誰かが私の服のこと思ってそうで落ち着かなくなる。被害妄想っていうか、因果応報っていうか。
学歴でマウント取ってる奴を見下して、その直後に自分も学歴の話を始める。収入で人を判断する奴を軽蔑して、家賃の高さで人を値踏みする。この二重性に気づいた時の気持ち悪さ。でも、次の瞬間には忘れてる。
優越感って、賞味期限が短いんだよね。今日の勝利も、明日には薄れてる。だから常に新しい「見下し対象」を探してしまう。まるでガチャ廃人みたいに。レアな見下し案件に出会うと、思わずスクショ撮っちゃう。
「あの人、マウント取るの好きだよね〜」
この言葉を言いながら、実は最高峰に立ってる感覚。見下してる人を見下して、二段構えの優越感。これって、もはやアクロバティック自己満足。
そういや、この文章も誰かに見下されるんだろうな。
...って考えたら、急に書けなくなってきた。
でも、この不安も、誰かを見下せば消えるんだろう。
ほら、また始まる。この優越感補給の時間。
見下す対象がないと不安な理由
先日、同窓会で気づいた。みんなやけに良い報告ばかりする。昇進した、結婚した、家建てた。で、私の隣にいた同級生が小声で「誰か転落してる奴、いないかな」って。その正直さに乾杯。
「頑張ってる人ほど、他人の不幸が必要」なんて言ったら、めちゃくちゃ叩かれそう。でも、考えてみて。なんで私たち、ユーチューバーの炎上動画を見ちゃうんだろう。なんで芸能人の不倫ニュースで、やけに饒舌になるんだろう。他人の転落と、自分の位置確認。この相関関係。
誰も見下せなくなった時の虚無感。電車で普通に読書してる人、オフィスで黙々と仕事してる人、まともに生きてる人ばかりに囲まれた時の孤独。「あ、私って本当はしょうもない人間なのかも」って気づく瞬間。だから必死に探す、新しい見下し対象を。
でも、これってさ、相当しんどい生き方だよね。365日、誰かの欠点を探してるなんて。不良品検査員かよ。しかも、その検査基準が自分に甘い。ダブスタ界の神様かよ。
先週なんて、後輩が「センスないっすよね、私」って言うの待ってた。そう言ってくれれば、「いやいや、そんなことないよ」って優しい先輩演じられるから。でも、あいつ最近成長してきやがって、そういうこと言わなくなった。この、見下せない感じの不快感。
なんか、生きづらい世の中になったよね。SNSの投稿も、みんな幸せそう。いや、演出なんだろうけど。私だって自撮りする時、徹底的に画像加工してるし。
そうか、結局私たちって、誰かを見下すことで、自分を保ってるのかも。
...って書いた自分も、この気づきで優越感感じてるし。
あ、また始まった。この永遠に続く、優越感の輪廻転生。
真夜中のスマホで
深夜2時。また誰かのSNSを漁ってる。「へー、あいつまだこんなことやってんだ」って。スクロールする指が止まらない。他人の人生という名の暇つぶし。
でも、ちょっと待って。
今、私の投稿を見て、誰かが同じこと考えてるかもしれない。
「あいつ、深夜2時なのに起きてんじゃん。人生終わってんな」って。
面白いよね。誰もが誰かを見下そうとして、結局輪になってる。まるでムカデ人間みたいに。先頭が一番偉いと思ってるけど、実は自分も誰かの後ろに繋がってる。
この前、子供が公園で遊んでるの見てた。「あいつの砂の城、下手くそ」って言う子に、「おまえのなんて、城ですらない」って言い返す子。純粋な喧嘩だなぁって思って見てたら、私も「あの親、スマホばっか見てるし」って、どっかで優越感感じてた。
誰かを見下さないと生きていけない生き物。
でも、見下してる自分を見下して、その見下してる自分を...って、もう頭おかしくなりそう。
スマホの画面に、私の顔が映る。
「お前も十分、見下されるような顔してんじゃん」
あ、また始まった。自分を見下し始めた。
でも、それすらも「私って自己否定的で素直でしょ?」みたいな優越感に変換する天才。
結局ね、誰もが必死に探してるんだと思う。自分より下の人を。
でも、その必死さに気づいた時、なんか急に笑えてきた。
スマホの電源を消す。
画面が暗くなる前、最後に映った私の顔が、妙に清々しそうに見えた。
...って、この最後の一文も、誰かに見下されるんだろうな。
まあ、それもまた、人生なのかも。
「おやすみ、見下し野郎」
独り言を言いながら、今日も誰かの人生を検索する指が止まらない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?