青森県美術館にて「奈良美智: The Beginning Place ここから」

青森県立美術館は、十和田、弘前の美術館とあわせて巡るつもりだった。なかなか実現しなかったのは、どういうルートを組んでも電車とバスではまわりにくいから。そして結局、今回、弘前の訪問を断念することで実現した。

青森県立美術館を訪問したのは昨年の秋。
奈良美智の大規模な個展が催されていた。
奈良美智は、横浜美術館での大規模な個展(2016)を観ているが、その頃も人気作家で、関連グッズの売れ行きが尋常ではなかったと聞いた。
今回は氏の出身地、「ホーム」ともいえる青森県美での大規模な個展。
地方への巡回もない。もともと奈良の作品を多く収蔵し、常設展示の「あおもり犬」は人気のランドマークとなっている美術館だ。建築もいい。
気持ちの浮き立つ旅である。

展覧会は作品数も多く見応えがあった(出展したい作品がいくつか借りられなかった、というが、よほどのファンや専門家でなければ十分だろう)。
それに加えて、奈良自身の創作の背景にせまるような要素も強く、回顧展風の趣もある。詳細はTokyo Art Beatのロングインタビューに詳しいので、興味のある人は参照されたい。

奈良美智ロングインタビュー(前編)。自分を育んだホーム、感性のルーツ、東日本大震災という転換点を振り返って|Tokyo Art Beat

奈良美智ロングインタビュー(後編)。願い続けてきたPEACE、旅と場所づくり、アートよりももっと自由な人生を求めて|Tokyo Art Beat

印象に残ったのは、このインタビューでも語っているとおり、美術教育を受ける以前の創作の原点ともいうべき事柄にフォーカスしている、展示室の組み立てだろうか。
奈良がドイツに留学していた初期の頃に対峙した、自分とはどういう者かという疑問。それに対する答えのようなものが、展示室をめぐることであぶり出されてくる仕掛けだ。
この世代の作家を含め、海外に出て見識を深める作家は多い(欧米の充実した奨学金のせいもある)が、日本を離れた見知らぬ世界で「自分とはどういう者か。他者と違う点は何か」について突き詰める経験が、作品の個性を極め、強さを生む、と聞く。必ずしも海外に出る必要はないが、強制的に日常から切り離されて初めて気がつく自分の根源的な部分が、作品に必須なものだということは変らないだろう。

奈良自身も、その経験から自分の独自性は、子供の頃の原風景とも言うべき東北の空気、思春期に出会った音楽(ロック)や同好の士とともに造った手作りのロック喫茶での体験(DJをはじめイベントの企画や実施含め)などによって成り立っている、という。その後に学んだ美術教育での、美術史・技法・理論はその上にのっかるものであって、個性の源ではない、という。
確かに、奈良の子供時代や思春期の頃、弘前という場所、そのかけあわせにより経験が成立する。ロック喫茶にしても、これが東京ならすでにそういう場所があったかもしれず、同じように同じ音楽を聴き、行動したとしても、弘前での経験のように自分たちで拠点を造る体験があったかどうかはわからない。会場には再現されたロック喫茶もあり、その時代を感じさせる。

その他、自身の祖父の滞在したサハリンを訪ねた際の写真や映像作品などの一角もある。美術以外の、旅や、東北の風景や空気、その中で感じ取ったもの、反戦への思い、などが作品のモチーフとなっていることがわかる。

今回の展示を見て、改めて対照的だ、と思ったのは、日本画の技法や歴史をもとに戦略的に「美術史の中に新たな文脈を作る」ことを選び、スーパーフラットという概念とともに自分の作品を打ち出した村上隆だろうか。当然、この人にも創作する原点になるものがあるだろう。が、それよりも、当時の美術界、美術史上に新しい概念を作り出す、そうすることで自分の地位を確立することを意識的に選んだ、といえる。
村上は『芸術起業論』という本も出しており、若手作家を発掘し売り出すこともしてきた。日本画の世界にあった工房方式を取り入れて大量の作品を作るなど、当時の作家にない、新しい実験を次々とした作家である。批判されかねない商業的なジャンルへの進出(エルメスとのコラボ)などでも話題を呼んだ。タブーともいえる領域にも平然と越境し、自身の位置を確立してきたといえるだろう。

ただ、知名度が上がり作品が高額になった割には、自身が満足する展覧会がまだ開催されていないようにも思える。
横浜と六本木で同時期に開催された展覧会も観覧したが、その圧倒的な物量の割には、私自身の中では、なんだかもやっとしていたのを覚えている。
このときは、森美術館では自己の作品の回顧展を、横浜美術館では自分が収集した作品の展覧会をほぼ同時期に開催した。これもまた戦略的な展覧会だったと思うのだが、村上隆の頭の中を覗きこみ、そこにくっきりと何かを見いだす、というほどすっきりとはしていなかったように思う。
(現在、京都で開催されている展覧会は、氏がその地に移り住み日本画の伝統とがっぷり組み合っている、という現在からして、また新たな展開があると思うのだが、まだ未見である)

それにしても。
青森県立美術館での展覧会は、作家にとって、とても幸せなものだったのではないか、と思う。

奈良自身、自分の作品の表面的なポップさ、などを取り上げられることが多く、それ以上深い部分はなかなか伝わらないと思っていた、という。
それが『奈良美智 終わらないものがたり』という本と著者との対話により、こういう形で自分を語っていけば見えてくるものがあるのかも、と思い、結果的にそれが地元出身の学芸員と、ホームとも言うべき場所(青森県美)で実現した、と語っている。
私自身も、奈良の代表作である「鋭い視線の女の子の作品」を観る際に感じる、世間知を身につける前の自分に何かをつきつけられるような、ドキッとする感覚の根源を語ってもらったようで腹落ちした。

今回の展覧会を観て、戻ってからゆっくりと消化をしている。
現代美術も歴史を重ねれば、多くの作品が生み出され、中には回顧展として取り上げられる作家もでてくる。それはまあ、当たり前でもあるのだ。
そう考えると本当の評価というもの、その作品・作家がどういうことを作品に込め、その独自性がなんだったのか、ということは、これから時間をかけてゆっくりと検証されることなのだろう。
今回の新作のようにあらたな技法を取り入れ、新しい表現を獲得した奈良美智も、まだまだ作品を作り続ける。

そんなに急がずに。
存命の作家の、時代とともに変る作品を見続ける幸せ、というものが、
ある。

そうして。
まだまだいろいろ考えてみてもいいのかしら、と。







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