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大人の遠足〜仮面と呪術編〜


芸術は呪術である

by 岡本太郎

芸術は呪術である。と岡本太郎は言った。すなわち芸術家はシャーマンなのだ。その呪術によって神と対話し、あの世・宇宙の霊泉から湧き出る閃きや導きの水と光を伝える存在なのだ。

みんぱく(国立民族学博物館)で開催中の《日本の仮面 - 芸能と祭りの世界》へ行って来た。近くには太陽の塔があり、岡本太郎のエナジーを感じる旅でもあった。

先日の《ズッコケおっさん5人組》の記事でもお馴染みの、河内音頭と江州音頭を中心とした5人組アヴァンギャルド即興音楽バンド《あすか一座》のメンバーとして活動している中で、少なくとも祭りに関わる身としてこれは行かねば、ということでメンバーを誘って行って来たのだ。

激ヤバ展示。これは行かねば。

残念ながらギターのタコちゃんとパーカッションの庸ちゃんは仕事のため参加できなかったが、ボーカル&MCの2人・座長であり河内音頭の唄い手《たるたる》、そして江州音頭の唄い手《健ちゃん》そしてわたくし、それから急遽ゲストとして精麻編み職人/アーティストの《春くん》が参加し、計4名で行くことになった。祭り、神事に関わるメンバーでみなそれぞれに必ずフィードバックするものが待ち構えているであろう期待のもと楽しみに指折り数えてこの日を迎えた。

快晴の土曜日、春くんの運転で朝の9時に奈良を出発した。先日の和歌山ツアーの出発時にサウナに行く予定だったにも関わらず、全員がサウナの用意を忘れてきた、ということをネタにして書いたが、今回は逆に何も聞かされてないのに僕以外の全員が自然にサウナの用意をしていたのだ!どーいうこと⁈まぁ実際サウナに行く時間があるかどうか分からないが、その時はタオルは買うとするか。それにしても楽しむのに貪欲な人たちである。

会場のある大阪万博記念公園には太陽の塔もあり、折角だから太陽の塔の中も観ようということで、数日前にチケットを取っておいた。急遽前日に参加が決まった春くんの分も追加で取れた。調べているとアウトドアパークというフェスもやっているらしく、個人的には時間があればそれも行きたかった。とにかく盛りだくさんでワクワクしながら向かった。ただ心配なのは車が停めれるかどうかだ。アウトドアイベントもあるということは激混みの可能性があり、駐車場を探すのに時間がかかってしまうかもしれない。太陽の塔は余裕を見て15:00に予約していたから、もし時間が押してもなんとかなるだろう。

現地に着いたのが10:00すぎ。思ったより早く着いたが、はたして駐車場は空いてるのだろうか?すると1番会場に近い駐車場にするりと入れた。ついてる!しかし入れたのはいいが、広い駐車場は全部埋まっていて全く停める場所がない。ぐるぐると駐車場を回り、絶望的な空気が車内に流れはじめたその時、バスの駐車スペースを開放しようとしてるのか、警備員たちがなにやら連絡を取りあっている。暗闇の中にかすかな光が差しはじめた。すかさずそこで待機していると、今まで閉ざされていたゾーンが開放され、なんとある意味1番VIPな場所に停めれることになったのだ。

駐車場難民


ついてる!なんなら入場ゲートから1番近い場所、これこそ宇宙タイミングという最高の場所に停めれることになったではないか!そしてチケットを買いゲートをくぐり、快晴の空を見上げると太陽のまわりに虹が出ていた。福岡の宗像大社に行った時もそうだったが、これは完全にウェルカムのサインだ。仮面に歓迎・祝福されている!

美しすぎる空
超VIPな場所に駐車
いざみんぱくへ


わくわく感が隠しきれず溢れ出しっぱなしの一行はみんぱくへと歩く。すると早速トーテムポールに感動してなかなか進まない。好奇心がもはや5歳児レベルである。とにかくみんぱくに入るまでにきゃっきゃしてまだ入場すらしていない。ロマンティック男子の健ちゃんにいたっては向こうのお花畑にも心奪われている。

トーテムポール

余談だが縄文時代には《柱》と言うのがとても重要だったらしく、神と人と大地を繋ぐシンボルと考えられているらしい。そう考えるとトーテムポールも時代・国は違えど同じ意味合いなのではないか?またトーテムポールは門の意味もあることから、神社の鳥居やしめ縄のように、結界的な意味もあるのではないか?世界の、人類のルーツをここに見た気がした。すべては繋がっている。みんぱくに入る前にすでにこんなところに気づきがあるとは、恐るべしみんぱく。

もはや空も気になってしまっている面々。まだ中に入れてもいない。

そしてやっとのことで会場内に入ることができた。いざ《特別展 日本の仮面》へ。

あいにく写真は撮れなかったのだが、想像を絶する仮面の数々に圧倒されてしまった。その数も去ることながら、仮面の持つ一種恐ろしいまでのバイブレーションにも対峙しなければいけなかったので、観るにはかなりのエネルギーがいった。中には楽しいものもあるが、全体的にはなにか言いようのない怪しさが漂っている。じっと見ていると異界に連れて行かれそうな気すらする。

そもそも仮面とは、と、あまり考えたことはなかったが、仮面とは《わたし》と《見えない世界・見えない存在》と繋がるための道具なのではないか?それはあちら側の世界(霊界)とこちら側の世界(現世)を繋ぐ架け橋であり、扉なのかもしれない。そして仮面をかぶった者は、その小さな穴から何者かの視点で現世を覗き見るのだ。そこには《わたし》でありながら別の何者かの視点がある。そしてそれを見る側としても、そこには仮面を被った未知の存在がこの世にすっと立ち上がる。

いにしえの時代では、仮面はまさに精霊や神々と繋がるツールだったのだろう。そして時代は流れ、仮面は狂言や神楽のように《演じる》という意味合いを持ってくるのだ。《わたし》であり《わたし》ではない存在。いずれにせよ仮面をかぶることによってその人の後ろの未知なる存在が立ち上がってくるのだ。


岡本太郎も仮面の魔力に取り憑かれた人のひとりだ。幼少期に近所の年上の子どもたちが天狗の面を被って追いかけてくるという体験を毎日のようにしていたという。後になって岡本太郎はそれをイニシエーション(大人になるための通過儀礼)だったのではないか?と言っている。そしてそれと対比して母、岡本かの子が筆を取り机に向かい続ける蒼白い顔がまるで青い仮面のようだったとも言っている。

このように仮面は様々な意味合いを持ってくる謎多きシンボルだ。その答えは未だに自分の中で整理できていないが、この現代でも人を惹きつける物であることには違いない。飛躍するが仮面ライダーやプロレスのマスクなどもその延長線上にあるのだろう(実際に展示されていた)。憧れであり畏れ多い存在。それが仮面だ。

今回の展示は日本の仮面だから、お馴染みの天狗・狐・龍・おかめ・ひょっとこ・翁長・などといったものがやはり多かった。しかし今回の展示のメインとも言うべきメンドンなどはそのデザイン性が日本というより、東南アジア的で原始的・プリミティブなものだった。

メンドンは鹿児島と屋久島の間にある薩摩硫黄島(小笠原諸島の硫黄島とは違う)に伝わる祭りだ。メンドンは面のドン(仮面の王)とも言い換えれるのかもしれないが、日本における最古の仮面のひとつなのではないだろうか?遡れば縄文時代後期にも仮面は存在したが、その流れを汲む現存する最もプリミティブな祭りのひとつであろう。ルーツはどこからなのかわからないが、おそらく海洋民族ルートで伝わったものではないだろうか。そう考えると仮面を通して人類の軌跡を見ることができるだろう。目立つのは奄美〜九州〜出雲〜鳥取の仮面で、やはり出雲族系先住民の流れがあるように思う。

メンドン。その姿は精霊そのもの。

プリミティブな仮面はどこか精霊の姿を感じる。実際にシャーマンたちはその姿をそのまま形にあわらしたのかもしれない。それは崇める対象そのものであり、《祭り》とはそれを祀(まつ)り、奉(まつ)るということであろう。そもそも仮面とは信仰そのものだったのだと思う。

とにかく圧倒的な仮面の数にくらくらしながらようやく観終えた。そういえば先に仮面の呪術にかかってしまっていたのか、来る前から頭がずっと痛かった。次の常設展へ行くには体力が消耗しすぎた。時間は11時半。一行はとりあえずレストランで一息入れることになった。

朝からなにも食べていなかったせいか、お腹が減っていた。ぼくはカルボナーラの温泉卵のせを注文した。たるたるにアホしか頼まないメニューとやじられながらも美味しく頂いた。少し物足りなかったが、少しのビールとで疲れがとれた気がした。そして常設展へと向かった。


健ちゃんが一日中いられる、と言っていたみんぱく常設展。大袈裟な、と思いながら足を踏み入れると、これまた想像を絶する展示量に度肝を抜かれた。印象に残ったのはやはり東南アジア、特にパプアニューギニアの精霊を模したような仮面だ。まるでカオナシのようなのもあった。宮﨑駿さんはここからインスピレーションを得たのではないだろうか?ぼくは《千と千尋の神隠し》の公開当時、一度観て何故か分からないが衝撃を受け、その答えを探しに3回観に行ったことがあるのだが、至る所に気づかされる場面があり、いまだに観る度新しい発見がある。その中で最も印象的なのはカオナシだろう。顔のない仮面だけのカオナシ。希薄で弱々しい存在なのに、あらゆる人を飲み込んで行くうちに、どんどん欲望のままに膨らんで行く様は、まるで現代人を象徴しているかのようである意味衝撃だった。考えてみれば自分という存在を忘れて、仮面を被って生きている人のなんと多いことだろう。かく言うわたくしも他人のことは言えないが、自分であって自分でないような生き方をしている人が本当に多い。特にこの日本では。

仮面をかぶるには《わたし》が消失してしまってはならない。あくまでも仮面は無機的な道具・ツールなのであって、あちら側の世界と繋がるための物でしかないのだ。自分が仮面そのものだと勘違いした時、そこに自分というものはもはや存在しない。ただ自分ではない何者かを演じるだけの存在になってしまうのだ。そして《人》だけではこの世に存在できないように、《神》だけではこの宇宙は完全ではない。《神》と《人》がはじめて繋がり、エネルギーを交換することではじめて宇宙が成り立つのだ。それが仮面の役割り、アイコンであり、人がこの世で生きる意味なのかもしれない。

パプアニューギニアの仮面

とにかく脳にインプットできるはずもない情報量にくらくらしながらも次々と展示を観た。これを書いている今、もはやそのほとんどは思い出せないが、これでもかと言うほどの常軌を逸した展示力、情熱に感動し、なかば呆れた。健ちゃんが一日中居れるというのも納得だ。

今思えばあれは情報というよりも何かDNAや魂に直接ダウンロード、もしくはそのスイッチをONされるような感覚があった。そこからどんなアップデートが自分に起こるか分からないが、それぐらいのエナジーを得た気がする。とは言え脳のキャパシティをはるかに超えた展示量にはとても疲れた。春くんは中盤から疲れがあらわになって死んだような目で度々休憩していたし、たるたるに至っては後半どんどんと歩くスピードが早くなり明らかに飽きているのが丸わかりだった。
それほどに館内は広く、まるで美術館を2つ3つ同時に梯子しているぐらいの展示量だったのだ。もちろん内容は素晴らしく、凄いを通り越してもはやアホとも言える天才的なみんぱく職員の熱量にただただ圧倒されるばかりだった。あわよくばアウトドアフェスも行くつもりだったが、そんな余力はどこにも残っていなかった。

みろくを探せ!11匹いるよ

途中から健ちゃんがはぐれ、ぼくを含む3人が先に観終わった。健ちゃんはみんぱくの呪術にかかってしまったのだろうか。ついに犠牲者が出たのかもしれない。僕たちはミュージアムショップで少し物色し、それから少し待ってみたが一向に健ちゃんが現れないので先に外に出る事にした。時間は13:30になっていた。

それぞれが電話をするも全く出ない。しょうがないからとりあえずお茶でもして休憩しようと言う事になり太陽の塔のほうへと向かった。しかし良さげな店はなく、15:00からの予約だったが先に3人で太陽の塔に入ってみるかという事になり受付に行ってみたものの、やはり時間変更はできなかった。その間も健ちゃんに連絡を取るも一行に返事がない。もう置いて帰るしかないのかもしれない。こうやって人生は突然の別れがやってくるものだ。人生は一期一会。SAYONARA健ちゃん。

20分前に受付に来てくださいと言われたが、まだ時間があったので太陽の塔の裏手にあったキッチンカーでみんなビールを買い木陰で飲んだ。僕は先程のカルボナーラが物足りなくてチキンバーガーも食べた。たるたるは『もう明日香に帰ろう』と弱々しい声で訴えてきた。最近低調気味な座長は疲れもあり、いつになく小さく感じた。

受付の時間になっても連絡が取れないものだから、ひとり分追加で取っておいた電子チケットを念のためLINEで送っておいた。気づけば後からひとりで入れるだろう。そして初めての太陽の塔の内部へと3人は入って行った。

岡本太郎的色彩の内部

中央には生命の樹が鎮座し、てっぺんまでうねりながら伸びている。それを囲うように螺旋状に登っていく構造になっている。下から原生類時代から現代まで登るにつれ地球の進化過程を表現しているようだ。2008年に万博以来48年ぶりに公開されたそうだが、当時の様子とはおそらくかなり違っていそうな印象を受けた。太陽の塔には顔が4つあるという。ひとつは現在を象徴する正面にある太陽の顔、そして過去を現す裏の黒い太陽、そして行方が分からなくなって現在なくなっているが、地下には元々地底の太陽(なにをあらわしているかは謎)、そして上部には未来を象徴する金色をした黄金の顔がある。特に印象的だったのは左右の腕だ。まるでSF映画に出てきそうな見た目で、腕の先端まで階段が伸び、その扉の向こうは未来や過去に繋がっていそうな感じがした。万博当時は階段を登って外に出れたらしいが、今はそれは叶わなかった。

芸術は呪術である

階段を下っている時に健ちゃんからLINEに返事があった。ただ『ありがとう』というスタンプだけだったが、どうやら入れたようだった。たるたるのLINEへは『携帯の充電が切れる。あと1%』とだけあって砂漠で水が尽きた旅人のような最期のつぶやきがあった。もはやもう会えないかもしれないが、車のところで待っていてくれればなんとかなるだろう。僕たちは太陽の塔の裏手のお祭り広場と言われる芝生で寝転がりひと休みした。

ひとり行方不明なのに超リラックスする人たち

生死を賭けた旅ではおそらく力尽きた仲間をすぐに置いていくであろう面々は、この状況でも超リラックスして今を楽しんでいた。自分中心主義。自分軸がトーテムポールのように天に真っ直ぐに伸びている。そしてなんとそこにあの死んだはずの仲間が現れたではないか!携帯のバッテリーが1%の状態で奇跡的な再会だった。しかしこちら側3人は疲れきっていてドラマ的な感動の再会になるはずもなく、『ほな帰ろ』といった超あっさりした再会となった。

帰りは早かった。あっという間に奈良に着いた。と言うのも帰りの車の中でうちの次男から電話があり、『母が具合が悪いから早く帰って来てと言ってる!』という事で温泉など寄らずに帰ってきた。そういえば昨日から寝込んでいたのだった。別のグループLINEには『しんどいのに遊びに行きやがって死ね!』と入っていた。

恐怖のLINE

奈良に着いたのが16時すぎだっただろうか。帰ったらご飯を作ればいい。気にしつつも、とりあえず一杯やろうと言う事になり橿原神宮前駅の近くで今の時間に開いてるお目当ての店に行くも閉まっていたので、もう一軒の店に結局落ち着いた。お料理はまあまあな感じだったので少し飲み食いし、歩いて行ける近くのお店に移動した。するとお店は開いていたが何故かいっぱいと言われ(客はいなかったが?)路頭に迷う事になった。しょうがないから先ほどのお店の2店舗目が比較的ちょっと美味しいと言う事で歩いて向かうが、お店に入る直前であすか一座のメンバーが営む《ポルカドット》に行こうと言う事になった。遠足の報告もできるしちょうどいい。

結局ここに落ち着いた

言葉数少な目の面々は料理とお酒に舌鼓を打った。ここのカツカレーが美味しい。この辺にはあまりカレー屋はないが、変に他のカレー屋に行くなら是非ここで食べてみてほしい。そしてぼくたちのホームとも言えるポルカドットはなんと言っても落ち着ける。タコちゃんにお土産を買えば良かったかな、などと思いつつ今日一日の珍道中の土産話をした。時間は19時になっていたので帰る事にした。外に出ると美しい夕焼け空が僕たちを待っていた。まるで僕たちを祝福してくれているようだった。

一日を締めくくる美しい夕焼け空

帰ってからご飯を作った。ようやく長い一日が終わろうとしていた。ここからはじまる何かが、あるのかもしれない。

おわり。

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