見出し画像

(エッセイ)ヘリコプターで夜逃げ!?

昔ヘリコプターで夜逃げした記憶がある。
弟妹にも確認したので間違いない。
グループサウンズのタイガースに夢中になっていたころなので中学に入ったころのことだ。
商売をしていた父が手形に引っかかったとかで夜逃げをする羽目になった。夜に家族全員車に乗せられ、最初は我孫子にあるABCというモーテルに部屋を取った。
両親と私たち弟妹は別の部屋で、父はどこかに電話をしていた。
私たちは寝るように言われたが、子供なりに異様な雰囲気に寝付けない。
部屋にジュークボックスがあってタイガースの曲を聴きたいので親に小銭を何度もねだった。
しまいにはジュークボックスが壊れて、小銭を入れなくても機械は動いてずっと聴いていた。
夜中に起こされてまた車に乗って出発した。
野村という名前だったろうか専務と呼んでいた男性が奥さんを連れて別の車で来ていた。
二台の車で向かった先は伊豆だった。
そこからヘリコプターで伊豆大島に向かった。
エレベーターの上下の動きの激しい感じで気持ち悪くなったことを覚えている。
何かものすごく短い時間で着いた。
 そこからタクシーに乗ったのだが、運転手のおじさんが「ここらへんは昔かっぱが出ると言われたいる」とか一応観光案内のように説明してくれた。
詳しくは覚えていないが一泊してすぐに今度は船で東京に戻った。
私は寝ていて知らないが、恐らく父は誰かと会っていたのだろうか?
そうでなければわざわざ伊豆大島くんだりまで急遽ヘリコプターで行くはずはない。
 ふと疑問が湧いた。いままでにも父は何度も商売を失敗している。
でも、ほどなくするとまた商売を再開する。
 ヘリコプターで夜逃げした時は、さすがに店と小さな工場は手放すことになり、住いも店も借り家暮らしとなったが商売は屋号を変えて再開している。
普通は夜逃げまでして事業に失敗したなら、そこから這い上がることなど並大抵のことではないはずだ
 この歳になって世間のことをある程度理解してから考えると、あれは何だったんだろう?どういうことなんだろう?と腑に落ちないことが色々ある。
 父が亡くなって随分経つが、ふと私の知らない父の人生を推理してみたくなった。
 父は話し上手で家には人が集まり酒を飲みながら昔の話を面白おかしく聞かせていたのを覚えている。
 五人兄弟の末っ子で、請われて墨田区のお屋敷に養子に出されたが、ご飯のお替りも十分にさせてもらえず辛くて実家に帰った事。
でも、実家にはいられずにまた東京に出てきて、墨田区の鉄工所で働き、体を鍛え喧嘩には強かった事。
 太平洋戦争では、海軍で軍艦秋津洲という船に乗っていた時の話もよくしていた。
 軍艦の生活では水が大変貴重で、毎日風呂に入れるのは偉い一部の人だけで、南方に行っていたときはスコールがシャワー代わりだそうで、すぐ上の上官よりスコールが来たら知らせろと言われて甲板に出ていたら真っ黒い雲が近づいてきたのでさっそく上官に知らせに降りた。
上官はすぐさま裸になり石鹸を頭から体まで塗って甲板に出てみると、あろうことかスコールを降らせる雲は船の進む方向には無い。
 軍艦は敵のレーダーを恐れ蛇行運転していたので雲が逸れてしまったのだ。
 もちろん父は上官に殴られ、夜中に浴槽のある偉い上官の部屋に水を盗みに行かされたとか。
 ある博学の軍曹には大層かわいがられて、夜には星座の話などをしてくれたそうだ。何しろ、船に乗ったばかりのころでは赤道は海に赤い線があると先輩にからかわれてそれを信じていたような父であるから星座の話をされても理解はできなかったらしい。
 ある時、軍人の学校に入る試験が甲板で行われた。父もその軍曹に言われて試験を受けた。
軍曹には何も解らなくても自分の名前だけは書いておけと言われていたので、まるで理解が出来なかったが名前だけは書いて提出したところ合格となって船を降りた。
 父が船を降りてまもなく軍艦秋津洲は撃沈され海の藻屑となり、学校でそれを聞かされ、両手に水の入ったバケツを持って廊下に立たされたとの事。涙が出たが両手が塞がっていたので拭けなかったと言っていた。
 戦争は父にとっては正に青春時代の思い出で、大抵はおもしろおかしい話が多かったが、ラバウルの話だったか、海の遺体を引き上げる作業の話などはつらそうな顔だった。
 こんな話もあった。
新兵は、夜中に甲板に立っている名前は忘れたが、火の見櫓のような見張り台があってそこで敵の艦を一晩中見張る役目がある。
天候の悪い時などはひどく揺れて船酔いに悩まされ、ある時などは状況を上官に知らせる漏斗状のもの管につながっててその漏斗状の物に口を当てて話すのだが、話している最中に思わずこらえきれずに汚物を吐き出してしまったとか。
その後どうなったかが想像がついて酒の席を大いに沸かせた。
戦後か戦前か分からないが、父は私の母と結婚する以前に一度結婚をしていたが、それを知ったのは父が亡くなってからまもなく家庭裁判所からいきなり通知が来て、遺産の相続をさせて欲しいとの訴えがあってからだった。
自分と顔が似ている姉にその時初めて会った。
 離婚してから、どこでそんなつてをみつけたのか、米軍の家のガードマンをしていたこともある。
英語などこれっぽっちも喋れなかったが、「グモーニン」「グリブニング」とグッドモーニングとグッドイブニングの発音だけは上手かった。
そんな程度の英語力で米軍の物資の横流しの話をつけられる訳が無いので協力者がいたに違いないが、なんでも、白髭橋の麓で伏せて待っていると米軍のトラックが通ってその時に荷物を落として行ってくれるとか。それを闇市で売ったりして暮らしていたようだ。
 事の前後は分からないが、父は甲州屋というテキヤの元締めの金庫番をしていたことがあったと話していた。
親分は抗争で息子を何人か亡くし、残った息子をまた抗争で失いたくないと、当時まだ東京では数件しか無かったビニールを扱う仕事を父と一緒に始めさせた。
その一緒にビニール屋を始めたという息子が広野という苗字である。
ウィキペディアによると、甲州屋の初代は広野要次郎という人なのでその息子か孫なのだろう。
甲州屋は、今では暴力団のような扱いで話されるが父の話では戦後の復興を手助けする役割だったと言っていた。
程無く父は独立して自分でビニール屋を初めて、何度も失敗はしたがそれが生涯の仕事となった。
一番良い時は店と店の裏に工場があり住み込みの行員が数名いた。
自分の田舎の手に負えない若者を親から預かりうちの工場で働かせて更生させたりした。
酒に酔って大暴れした工員を酔いが覚めるまで柱に縛り付けて説教したこともあった。多くの若者が更生し結婚して両親はその度に仲人になり十二組目を越したと話していたのを覚えている。
これらの事はもしかすると「向島の親父さん」の影響だったのか面倒見の良い父であったが、それもヘリコプターで夜逃げした後に店と工場を失ってからは無くなった。
 
 父の晩年ではあるが、小佐野賢治と交流があった。
総理大臣を務めた田中角栄と繋がりがあり、ロッキード事件のあの「記憶にございません」のその人である。
国際興業などの創始者で、「日本電建」という建築の会社の経営もしていたようで、父が晩年購入した住まいもそこで手掛けていて、自治会館建設のための用地をもらい受けるために交渉に行ったのが始まりと話していたが。国際興業本社に早朝訪ねては朝食を一緒に食べながら昔話をしてくる。
これも今思えば腑に落ちない。
小佐野賢次は早朝出勤をする話は有名だが、社員が出勤する前の時間に会うというのが、不自然な気がする。
だいたい、自治会館の土地をもらい受ける交渉に行った父に普通大企業のトップが直接会ってくれたりするだろうか?
土地をもらい受けてからも度々訪れて、父は戦争の話をしてきたと言っていたが、調べてみると小佐野賢次は陸軍であった。父は海軍である。これも何か腑に落ちない。
 小佐野賢次は暴力団ともつながりがあり、「裏世界の首領」とも言われていた人である、まさか甲州屋の「向島の親父」と言われた人との繋がりでもあったのだろうか?
私の知っている父は、若い時はいざ知らず、商売をしてからは暴力団に関係していたとは考えにくい。
だが、何度も商売を失敗していながら、再起できたのは誰かの手助けがなければ到底あり得ない。
 「向島の親父」と父が呼んでたまに訪ねていた人が広野の親分さんらしいが、私も一緒に何度か会っているが、お金持ちの地主のおじいさんかなんかぐらいに思っていた。
小佐野賢次ともその繋がりだったのだろうか?
同じく戦後の「政財界の首領」と呼ばれる人で児玉誉志夫という人物がいる。やはりロッキード事件にも関わっている。
 調べてみるとこの人は謎の多い人物ではあるが、若い時に墨田区向島の鉄工所に住み込んだことがあるという。
父より十歳以上も年上ではあるが、ここの経歴が父との経歴と重なる。
 父も向島の鉄工所に住み込んだ経歴がある。
もしかするとここら辺から甲州屋へのつながりになるのだろうか?
父から児玉誉志夫の名前が出た記憶はない。
が、小佐野賢次も児玉誉志夫もロッキード事件の関係者である。
児玉誉志夫と父ではもう一つ共通点がある。それは釣りだ。
 児玉誉志夫も釣りが好きだったようだが父も釣りが趣味であった。
今はどうか知らないが昔は椿山荘にプールがあって冬場はそこが釣り堀となり、そこの支配人と懇意にしていた。
有名人や芸能人がお忍びで来るようで、父はそういう方々に竿を送っていた。
支配人と懇意だったおかげで、私たち子供は夏場のプールにもタダで入ることができた。
 この支配人とはいったいどんなつてで知り合ったのか謎である。
 私が幼い時の父は、仕事は自分の家であったし、休みは家族を連れて釣りに行くという生活なのでほとんどいつも一緒にいた。不明の外出がほとんど無い人なのでそのような出会いがいったいどこにあったのだろうと思う。
父は小佐野賢次や児玉誉志夫のような首領と呼ばれるような大物では到底ない。
 だが、何か手伝いをしたようなことはあったのだろうか。
それでなければ晩年の住まいにおいて年功序列で自治会の会長になっただけで、自民党の大物の選挙活動で応援演説などするわけがない。
正月にはその大物議員が我が家まで挨拶に来たのには驚いた。
 これにより父の実家もようやく父を認めたのか、本宅の叔父さんも満足そうであった。
 父は兄弟でただ一人親の財産である農地を受け継いでいない。父が言うには。自分は東京で暮らしているから農地の世話は出来ないから辞退したと言っていたが、放蕩息子であった父には農地を分け与えられなかったのかもと思っている。
叔父さんからしてみれば、自治会の会長で自民党議員の応援演説までしたことはやっと名誉を回復したと嬉しかったのだろう。
 小佐野賢次と度々会っていたのはロッキード事件の随分後の事であるが、彼は実業家で名高く、政財界に影響があったことは言うまでもない。
 小佐野賢次も学歴が無いが一代で上り詰めた人だ。父は田中角栄も好きで、やはり学歴もないのに総理大臣まで上り詰めている。
戦後のこの時代にはこういった人が多くいた。こういった人たちが父の自分の境遇と重なって憧れであったのだろう。
 しかし、商売は何度も失敗しそのたびに何度も人に助けられていたようだが、父の晩年には助けてくれた人もすでに亡くなってそれも無くなり、また父のような縁故や人の伝手で商売が成り立つ時代も終わり、残された家族の行く末を案じながら病に倒れた。
 幼い時のヘリコプターで夜逃げした記憶。
あの時伊豆大島で父が会っていたのはいったい誰だったのだろうか?
 わざわざ伊豆大島にヘリコプターで向かったのにはそれなりの人物に会う必要があったからだろう。
だからこそ、店や工場を失っただけでまたビニール屋の商売を再開することができたのだ。
これは推測でしかないが、私はそう思う。
 小佐野賢次が亡くなった時は、葬儀の知らせが来たが父は欠席した。
 父は自分の後ろ盾がみんな亡くなってしまい、時代が変わり昔のような商売が通用しない世の中になり、新しい世の中に生き抜くような力も持てなかった。
小佐野賢次が亡くなって数年後、昭和天皇崩御で年号が変わり、間もなく父もこの世を去った。
 今思うと父は大物の身近にいながら、その大物の真の大きさは理解できていなかったと思う。
 日本国を動かす大物たちだと理解できていたなら、もう少し父も大きな存在になれたのかもしれない。
 決して父は大物には成れなかったが、愛情深い良い父であった。
寒い夜などは寝ていると見回ってきて、寒くないかと聞きながら毛布を足にくるんでくれた。
兄弟三人の寝ている間に寝転んで自作の昔話を聞かせて子供たちを大笑いさせてくれた。今でも、いつも見守ってくれている気がする。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?