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【映画評】『メッセージ』は永劫回帰映画?※ネタバレあり

この映画、みんなほんとに大好きだよね。で、僕はどうなのかというと、そりゃまあ何回も観てますよ。オープニングで毎回号泣するんだから。
ただ傑作かと言われたら、けしてそうでもない。テッドチャンの原作『あなたの人生の物語』のファンとしては、色々と許せない改悪が多すぎる。改変する事自体は良いけれど、物語の本質に矛盾している改変はいただけない。監督のドゥニヴィルヌーヴは他の小説原作作品にも言えるけれど、原作の本質を理解せずに撮っているんじゃない?と思うのは僕だけじゃないはず。ブレードランナーの続編なんかは特に酷いと思いました。はい。(でもデューンは大好き!)
ただこのメッセージに関しては、駄作と言い切るのも難しい。何故なら、ある一点においては完全に原作を超えてしまっているからだ。だからブーブー文句を言いながら何度も観ているんです。
どう評価すれば良いのか分からないこの気持ち、わかりますか?なので今回は、この作品の良い点悪い点をちょっと整理してみようと思う。モヤモヤするからね。

まずは悪い点から。

この作品の宇宙人ヘプタポッドは“方向や順番という概念がない”。ヘプタポッドの姿は前後ろがなく、宇宙船もどこが前なのか分からない。使う文字も円形になっていて、始まりと終わりがない。更に面白いのが、この宇宙人は時間に対しても順番が理解できず、過去と未来の区別がついていないのだ。
このような特徴により、彼らは物事を文脈から理解する事ができない。雨が降ったら桶屋が儲かる、みたいな原因があって結果が起こるというストーリー理解がさっぱりなのだ。過去と未来の区別すらできないんだから、そりゃそうですよね。
原作ではこれを上手く表現していて、彼らは何のために地球にやって来たのかは最後まで明かされない。というか、目的なんてそもそも無かった。何故なら目的のために何かをやる、という考え自体が彼らにないからだ。目的があって地球に来た、というストーリーに基づく発想自体がそもそも人間的。なので原作では何の理由もなく地球に現れて、また何の理由もなく突然地球から去ってしまう。困惑する地球サイドの反応が面白い。
じゃあ映画はというと、はい、しっかり目的ありますねー。数千年後に人類が我々を救うから、その未来の為に人類にあるメッセージを伝えにきたらしいです。つまり映画版ヘプタポッドは、人間的なストーリー理解で物事を考える宇宙人。しかもそのメッセージが「戦争なんかせずに、みんなで仲良くしましょう」みたいな、小学生が考えたような幼稚なメッセージでした。そんなのエイリアンから言われなくても分かっとるわ。映画ではそのメッセージをノンゼロサブゲーム(要するにウィンウィンしようぜの意味)とかいう、わざわざ小難しい言葉を使っていたのも癪にさわる。新作のアバターでも思ったけれど、行動が人間にしか見えないエイリアンを出すのって、わざわざSFでやる必要ある?

そしてノンゼロサブゲームに続く、なんかそれっぽい小難しいワードその2。サピアウォーフ仮説だ。映画では主人公は異星人の言葉を学んでいくうちに、宇宙人の言葉で思考するようになる。その結果、主人公も次第に順番の概念が分からなくなっていき、過去と未来が交錯しはじめるのだ。主人公はこの現象をサピアウォーフ仮説ではないか考察した。
このサピアウォーフ仮説とはなにか?
人間は心の中でも言葉を使って思考する。ちょっと試してほしいけど、今日の晩御飯のメニューを言葉を使わずに心の中で決めてみてほしい。…できないでしょう?
人間が言葉を使って思考する。これを逆に言えば、人間の思考は言葉によって規定されている。これがサピアウォーフ仮説である。
だから順番の概念がない宇宙人の言葉で思考していると、主人公も順番や物語性を持った思考ができなくなってしまったというのだ。
この説を発見した言語学者のサピアさんとウォーフさんで、彼らは『言語相対性理論』という本でこの説を発表した。この本には興味深い事実が書かれてある。ある地域に「明日」や「来年」などといった、未来に該当する単語を持たない部族が存在したらしい。サピアとウォーフがその部族を調査すると、驚くべきことに彼等は未来の単語がないどころか、未来の概念すら理解できなかったのだ。これは面白い。
しかーし!このサピアウォーフ仮説、実は完全な嘘でした。
後に別の言語学者がその部族を調査すると、未来の単語がなくても彼等は未来を理解していた事がわかった。つまり人間の思考は言語によって規定されているわけではない。サピアとウォーフは事実を捏造し、この言語相対性理論を書いたのだ。
この研究は多くの言語学者がチャレンジしたが、結果は全くの逆。現代の言語学では言語によって思考が制限される事はないというのが通説だ。よく飲み屋でウケるネタレベルの話で「ドイツ語の表現は厳格だからドイツには哲学者が多い」とか「フランス語は表現が豊かだから芸術家が多い」みたいな類いの話。あれ全部ウソです。
サピアウォーフ仮説と言えば、今ではノストラダムスの大予言レベルの悪評高いオカルトトンデモ理論である。ただしこの説が魅力的なのも確かで、その結果多くの人に影響を与えてしまった。有名どころで言えばジョージ・オーウェルの『1984年』。政府が国民の思考をコントロールしようとして、新言語ニュースピークを導入する。政府に対して不満を持っても、該当する言葉がなければそれ以上思考を追い求める事ができないという魔法のような新言語。もちろんそんな事はありません(発想は面白いけどね)。

映画版では言語学者が堂々とサピアウォーフがウンタラと力説する…。ジョージオーウェルは時代が時代だから百歩譲って仕方がないとしても、今時の映画でこれはちょっと。
さらに傑作なのが、中国チームが宇宙人と接触を試みた際、麻雀牌を使ってコミュニケーションを図ったら戦争に突入したという原作にはないくだり。麻雀は勝ち負けを決めるゲームなので、麻雀牌を使ってコミュニケーションをとるとどうやっても最後には戦争になるという、サピアウォーフ仮説の発展形が展開されるのだ!(爆)。
原作はどうだろう?これがちょっとズルいのだが、作者のテッドチャンはうまい具合にサピアウォーフ仮説を回避している。映画と同様に過去と未来が交錯するが、それが言語のせいだとは明言していない。まあ言語学好きのテッドチャンの事だから、完全にわかった上で上手い事逃げているのだろう。先生、ちょっと卑怯じゃないですかね?その結果、まんまとドゥニヴィルヌーヴは騙されたわけです。

こんな感じでディスる部分はまだまだいっぱいあるけれど、ファンの多い作品なのでこれ以上は控えよう。あ、でもあとひとつだけ。中国とロシアが宇宙人と戦争しだして、アメリカは他の国をまとめて平和に導くってさあ。いやはや、ご立派なUSA映画ですなー!…すみません。これでほんとにやめます。

このように映画版は色々と問題が多いのは確かだが、ある一点においては超特大ホームランを叩きこんだ。これだけディスった僕が言うのもなんだけど、
「この一点だけでも、この映画は何度でも観るのに値する!」←この台詞、どこかで聞き覚えありますか?

「たった一度だけでも真の幸福があれば、人生は何度でも繰り返すに値する」
ニーチェの永劫回帰です。そう、なんとこの映画はニーチェの永劫回帰を描く事に、図らずとも成功してしまった超ミラクル映画なのだ!

ここでちょっと余談。この映画以前に、永劫回帰に果敢にチャレンジした映画がある。ビル・マーレイ主演、ハロルド・ライミス監督の『恋はデジャヴ』だ。(ゴーストバスターズのコンビだね)
永劫回帰を至極単純に説明すると、もし人が生まれてから死ぬまでの人生を、寸分違わず何度も永遠に繰り返しているとしとたら?という思考実験だ。あくまで思考実験なので、実際にそれが起こるわけではない。
『恋はデジャヴ』は永劫回帰をそっくりそのまま映画にしてみたような作品だ。いけすかない主人公のビル・マーレイは(ビル・マーレイは大抵いけすかない)、ある時ひょんな事からクソみたいな1日を何度も繰り返すタイムリープに陥ってしまう。クソみたいな1日を地獄のように永遠に繰り返すうち、主人公は徐々にその1日を愛するようになっていくという話だ。監督は永劫回帰をテーマに撮ったと明言しており、たしかに見方によっては永劫回帰に見えなくもない。うーん。でも違うんだよなー。

映画版がなぜ永劫回帰なのかという話は後でするとして、まずは小説版がどうなっているのかを説明しよう。
小説版のテーマのひとつが自由意志だ。テッドチャンはこの手の話が大好きらしく、しょっちゅう自由意志の話をしている。大抵はこんな具合だ。
あらかじめ知っている未来をなぞるとき、頭の中ではいったい何を考えているのか?
例えば横断歩道を渡る時に、車に跳ねられる未来をあらかじめ知ってしまったとしよう。もし未来がすでに決まっていて避けられないとしたら、何を考えて横断歩道を渡るのだろうか?
これはテッドチャンが何度もチャレンジしてきたテーマで、原作の『あなたの人生の物語』でも描かれている。宇宙人との交流で未来が分かってしまった主人公。彼女は近いうちに子供を産むが、宇宙人との交流を通じて過去と未来が交錯してしまい、子供が大人になる前に死んでしまうと分かってしまう。それでも主人公は子供を産む決断をするのだが、この時の主人公の思考をテッドチャンはどう描いたのか。端的に言えば、未来を知った自分と、行動を起こしている自分の思考が並行して描かれるという手法だ。
主人公は子供が欲しいから子供を産もうと行動するが、一方で未来を知っている自分は悲しい結末を知っているからそれを止めようとする。しかし行動を起こしているのは現在の自分なので、未来を知っていても止める事はできない。自分の中で現在進行形の視点と、未来を知っている視点が同位しているのだ。この不思議な感覚をテッドチャンらしい高度な技術で描いているのが小説版である。
一方映画版では主人公の思考をナレーションで語ったりしない。なので原作のように主人公が何を考えているのかは、観客には分からないような作りになっている。これが大当たりだった。
結果的に映画版では「主人公の完全な自由意志で子供を産んでいるようにしか見えない」のだ!

永劫回帰の思想は、未来がすでに決まっているという運命決定論の一種だ。だが他の運命決定論と大きく異なるのが、運命に対する姿勢である。
普通の運命決定論であれば、決められた未来をなぞる事を半ば仕方なく、決まってるなら仕方がないという諦めの姿勢だ。一方永劫回帰では前向きに、自らタイムリープを受け入れて力強く肯定する。
「なるほど、これが人生か。ではもう一度!」
ニーチェが目指したのは人生の全肯定だった。なのでどんな人生であろうと、一瞬でも真に幸福な瞬間があれば、自らの意思で何度でも繰り返す事ができるというのだ。
しかしいくらニーチェから鼻息荒くこう言われても、普通なら嫌だと思うだろう。僕もそう。だって不幸の方が多いなら、絶対に釣り合わないもんね。
しかしこの“釣り合わない”という感覚が厄介もので、永劫回帰にはこれを引き剥がす魔法がある。
釣り合わないと思うという事は、幸福と不幸それぞれに重さを設定している事だ。重さを設定しているからこそ、天秤にかけて測る事ができる。だが永劫回帰に置き換えると、このルールは無効になってしまうのだ。
クンデラの『存在の耐えられない軽さ』という恋愛小説では、冒頭に永劫回帰についての言及がある。内容はざっとこんな感じ。
「もしロペスピエールによる大虐殺がなかったら、フランス革命は失敗していたかもしれない。我々未来人から見れば、彼はフランス革命の立役者であり、彼が虐殺した命よりも彼が救った命の方がはるかに多いと肯定して見ることも可能だろう。しかしニーチェの永劫回帰を当てはめてみると、彼は永遠に殺人を繰り返す事になる。無限の重さをもった殺人は、はたして彼が無限に救った命の重さと天秤にかける事はできるのだろうか?」
クンデラの解釈によれば、永劫回帰は重さを無効にしてしまう。永遠に繰り返されるのなら全てが無限の重さを持ち、どちらの方が重いなどという考えができない。そう、重さなど本当は人間の思い込みでしかないのだ。そんなものは存在しない。不幸がこれくらいだから幸福とは釣り合わない、という考えにそもそも意味がないのだ。
歴史をみても分かるだろう。この瞬間にとっては良い事をしたが、そのせいで後にえらい事になった、という話は歴史あるあるだ。どっち良くて、どっちが悪いなどの判断など、たかが1人間程度にできるはずがないのである。
だったら全部肯定しようぜ!というのが永劫回帰だ。人生が永遠にループしていると仮定し、重みがなくなった世界の中で、ジャッジする事なく全てを傍受して喜ぶ。あなたが永劫回帰を語るむさ苦しいニーチェに「いやいやそんなの嫌なんですけど」と思った時点で、あなたはすでに無意味な重さを天秤にかけているのだ。(ニーチェの語りってほんとに熱くてむさ苦しいよね。あっちいけ)
今でもニーチェが多くの人を魅了しているのは、そういったスーパー楽観的な思想にあるのだろう。よくニーチェは遊びの哲学と言われているが、永劫回帰こそ究極の遊戯であるように思う。

はーい、映画に戻りますねー。
映画版の主人公は子供が死ぬと分かっているのに、自らの意思で子供を産もうとする。なぜか?
子供が死ぬ前、彼女と子供が楽しそうに池で遊ぶ未来の映像があった。この瞬間の子供との何にも変えがたい幸福な瞬間。ただ遊んでいるだけのなんでもない1シーンだが、これを後の悲劇と天秤にかける事はできるだろうか?そう、釣り合うとか釣り合わないとか、そんなジャッジは無意味だ。
「たった一度だけでも真の幸福があれば、人生は何度でも繰り返すに値する」
重みのなくなった無限の世界において、たった一瞬がすべてを肯定するに耐えうる。僕らから見れば彼女が子供と過ごした時間はあまりに短く、その後に子供を亡くしてメンタルがやられてしまった時間の方があまりに長い。だがそれが何だというのだろう?彼女は全てを分かった上で、その未来を選択した。どんな不幸が待ち受けていようとも、子供と楽しく過ごした一瞬が何よりも変えがたかったのだ。これを永劫回帰映画と言わず何と言うのか。
いやあ、だからこの映画は何回も観ちゃうんですよ。オープニングの子供と遊ぶシーンだけで号泣なんだからさ。もう一度言います。
「どんなクソ改悪があろうとも、主人公が子供と遊ぶシーンがあるのなら、この映画は何度でも観るに値する!」
たいへん素晴らしい映画です。おすすめ!

ここで映画評を終えれば綺麗だし、僕もファンもみんなハッピーなんだけど、あとひとつだけ言っておかなければならない事がある。原作にない展開で、主人公が宇宙人vs人類の全面戦争を阻止しようとスーパーパワーで未来を改変するという展開。一言だけ言わせて。

お前さあ、未来変えれるならまず子供救えよ!

あーこれでもう台無しだわ。

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