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noteを書く前からnoteを書いてた

哀しいことがあったとき
憤懣やるかたない思いをしたとき
嬉しすぎて狂喜乱舞しているとき

様々な理由で感情が揺れ動いたとき、わたしは携帯電話の「メモ」に思いの丈をざざーっと入力して、読み返して、編集して、また時間を空けて読んでみて、順序や表現を変えたりして整理することで、自分を落ち着かせていました。

嬉しいことがあったときより、悔しかったり納得がいかないことがあったりしたときに、より本気で書き綴り、何度も推敲を重ねた記憶があります。

携帯電話を所持していなかった頃は、紙のノートに鉛筆で書きなぐっていました。
若い頃の常としてちょっと自己陶酔して短歌とかにもしていた気がするので、このノートが流出したら爆死の可能性があると思い燃やしたか、可燃ゴミとして出したかで、もうこの世にはありません。
が、今になって読み返したら色んな意味で絶対面白いので、残しておけばよかった、と悔やまないでもありません。

たまに、偉い人の「昔の恋人に宛てて書いた恋文」とかが博物館に展示されていたりしますが、いくら素晴らしい功績を残した人だからって私的な文章まで完璧じゃないかもしれないのだし、自分だったら公開されたら嫌だな(偉くならないから要らぬ心配だけど)と、そういうものを見る度に思います。
才能があって人々の注目を集めるのって本当に、大変ですね。
凡庸、万歳。

話がそれましたが、わたしは文字というものを書いたり読んだり出来るようになってこの方、その方法は時代によって移り変われど「書く」ということで自分の思いを消化(あるいは昇華)してきたのだな、と思います。

たぶん、人によってその発散方法が「歌うこと」だったり「人と話すこと」だったり「走ること」だったりするのでしょう。

noteを書いてみて、しかし書くことが尽きないなと思っていましたが、わたしはnoteを書き始める前から、noteを書いていたのだなと思い至りました。

違いは、自分のメモとして書き溜めるか、人様に読んでいただいても差し障りないように編集するかという点だけ。

だから、何かの理由でいつかnoteを書かない日が来ても、きっとわたしはnote「のようなもの」を何かしらの形で書き綴り続けるのだろう、と思います。


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