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忘れられないあの日を忘れる必要はあるだろうか。

蒸し暑い夏。

発情した蝉の鳴き声に眠りを妨げられる。

「おはよう。」

今日も誰もいない部屋でポツリと咲いた花に声をかける。

ある意味で意味の無いルーティーン。

時代遅れのクールビズのない会社に入ってしまった僕は蒸し暑さを無視してスーツに身を包む

玄関に行き、ドアノブを持ち、開く時いつも思い出す。

"帰ってきたら私いないから。"

♢♢♢

『○○さんは相変わらず辛気臭い顔してますね。』

「なんだよ…山下。」

クーラーが効いているともいえない職場で中々ギスギスした空気感の中、いつも山下だけは能天気に話しかけてくる。

『えぇ?話しかけられて嬉しいくせに。』

「そかそか。じゃあ。」

僕は前を向いてすぐに仕事に取り掛かる。

『そんなだから。逃げられるんですよ?』



「ほんとデリカシーどこに置いてきたんだ。拾ってこいよ…」

『先天的にデリカシーないので…』

「それなら輪廻転生を望むよ。」

『うわ、相変わらず卑屈ですね。ところで今日空いてます?』

「まぁ、空いてない事はない。けど空いてるとも言ってない。」

『じゃあ18時にここで。』

謎に帰宅時刻だけはホワイトな会社。

ココさえしっかりしてれば文句を言われないだろうという魂胆なのだろうか。

『もうほんっと辞めちまいましょうかこんな会社。』

山下はその綺麗な容姿からは想像もできないほどの飲みっぷりでビールを一気に飲み干す。

「飲み過ぎには気をつけろよ。」

『はぁ、こんな時までそうやって真面目なふりしてやってくんですね。』

「うるさいな。いいから水も飲め。」

僕は店主からお冷を受け取り、意地でも飲ませようと山下のジョッキを回収する。

山下は物凄い眼光で僕を睨みつけるがそんなこと知ったこっちゃ無い。

いつも酔った時に皺寄せがくるのは僕なんだ。

『○○さんは良いですよね…だって仕事もできるし。』

拗ねたように机に突っ伏して山下が言った。

「は…?」

『だから…仕事もできない私には○○さんが羨ましく見えるんです。』

山下のいつもの人を馬鹿にするようなふざけた声ではなく今にも消え入りそうな声だった。

「ふふっ…彼女から逃げられるような奴が?」

『彼女から逃げられるような奴が…です』

そう言って顔を上げた山下の眼はほんのり赤かった。

「まぁ…山下はうまくやってるよ。」

『…』

「僕だってこの会社はクソだと思ってる。最初は辞めようって。そんな僕なんかより山下はよくやってるさ。」

『本当ですか…』

「もちろん。」

『ありがとう…ございます。』

柄にもなく辛気臭い顔をしている山下の顔を見たのはいつぶりだろうか。

「よぉし。今日は奢ってやろう。なんでも頼め‼︎」

僕は少しでも元気が出るように、少しでも笑えるように…柄にもなく明るく言った。

『えぇ‼︎やったぁあ‼︎』

僕が奢ると単語を出した瞬間君は飛ぶように喜んで全て演技だったのかと問いたくなる。

『ちなみに会社のみんなは嫌いですけど、○○さんは好きじゃ無いです‼︎』

「そっか…良かった。」

笑顔になってくれたなら何でもよかった。

やっぱり僕は人の笑顔を見るのは好きなんだ。

『おぇえええ』

「って吐きそうなふりしてか弱い女の子のふりするなよ。」

街灯がポツリとある暗い夜道を二人でほそぼそと歩く。

『少しは心配してくれません?』

「自業自得ってやつ。」

『むぅ。』

僕はムッとしてかわいこぶってる吐きそうな後輩を無視して歩き出す。

彼女もゆっくり起き上がってちょこちょことついてきてるみたいだ。

『○○さんは…まだ彼女のこと忘れてないんですか…』

山下がボソッと呟いた。

「ははっ…いきなりだな…」

少しだけ間を空けて僕は言った。


"忘れないといけないのにな"



そこから家までは会話はしなかった。

少し泣きそうな僕を見て流石の山下も何も言わないでいてくれたらしい。

ただ山下は帰り着いた時、

『○○さんはまぁまぁ優しいですね…』

なんてよくわからない事を言ってきた。

一人の帰り道は少し心細くて夜でも休む事を忘れている蝉の声が耳に残った。

『○○はさ…もし私がいなくなったらどうする?』

また、夢を見ている。

君がリビングで雑誌でも読みながら儚い声で意味のわからない事を聞いてくる。

そんな夢。

「"遥香"がいなくなったら…か。考えたくも無いや。」

僕はいつも、ここで違う事を言うんだ。

前見た時は"どこにいても見つけるよ"なんてくさいセリフを吐いた。

その時は"そっか"みたいな軽い返事だけだったと思う。

今日は少しだけ違った。

『そっか。ごめんね。』

遥香は震えた声で目も合わせずにそう言った。

何が"ごめんね"なのか聞き返せないままだんだん視界はぼやけていく。

また、ここで夢が覚めてしまうんだ。

醒めないでといくら願っても視界は視力0.01の世界に連れ込まれていく。

ぼやけた世界で見えた君の瞳はほんのり光っている。

そんな気がした。

目が覚めた時にはもう昼だった。

今日が休みで良かったとつくづく思う。

今日は何をしようか。

久しぶりの休みだ。

ただ、家でゴロゴロするには惜しい。

とはいっても、趣味はこれといってない。

「はぁ、久しぶりにあそこ行くか。」

独り言をボソッとこぼして僕はワンパターンしかない私服に着替える。

我ながら似合ってるんじゃないかななんて思ってる。

ドアノブを握る。

またあの声を頭の中で反芻しながら。

『いらっしゃ…って○○くんじゃん。』

「久しぶりです。田村さん。」

二人の行きつけの喫茶店。

何度も行ったこともあってマスターの田村さんとはもう随分顔馴染みだ。

『ふふっ…ほんとよ。じゃあそこらへん座って。』

言われるがままにガラガラのカウンター席に座る。

メニュー表を手に取って見てみる。

『何も変わってないよ?』

「ははっ…ホントですね。じゃあいつもので」

『りょうかい』

そう言って田村さんはいつもと変わらない手つきでいつものを用意する。

『はい、どうぞ。』

僕は手渡されたいつもの砂糖5倍のアイスコーヒーを受け取る。

「ありがとうございます。やっぱりここのアイスコーヒーが1番です。」

『そんなに甘くしたもので褒められてもね…』

「ははっ…ごめんなさい。」

遥香にコーヒーも飲めない男は苦手と言われ考えついた妙案がこれだった。

『今日遥香ちゃんは?』

「んー、あー、なんか忙しいみたいで…」

咄嗟に出た嘘を隠そうとアイスコーヒーをぐっと飲み込む。

やっぱりこれでも苦い。

『あーそうなのね…この前来た時は○○くんがいなかったのよね。』

「…」

『どうしたの?黙っちゃって…』

「前…来たんですか?」

『うん…それがどうしたの?』

「田村さん…笑わないでくださいね?」

僕は遥香とはもう3ヶ月は会ってないこと。

どこにいるかも生きているかも分かってなかった事を伝えた。

『んー、確かにそう言われたらこの前来た遥香ちゃん変だったかも…』

「え…どんな感じでした?」

『なんか…"ここ懐かしい雰囲気。"みたいな意味不明なこと言ってた気がする。』

「いや、変すぎるでしょ‼︎もう少し違和感もってくださいよ‼︎」

『えへへ…あと雰囲気も違った気がするな。私話しかけられなかったもん。』

「そうですか…」

アイスコーヒーの氷は少しずつ溶けている。

少し重たい雰囲気が店内を占拠する。

「あの…また来たら連絡をくれませんか?」

僕はそう言って自分の電話番号の書いた紙を渡す。

『んー、そういうの実はダメだけど…○○くんと遥香ちゃんのためだしね…いいよ。』

「ありがとうございます。僕そろそろ行きますね…また来ます。ごちそうさまでした。」

僕はアイスコーヒーのお代を机の上に置いて店を出た。

外に出た時、一瞬だけモノクロの世界に変わってしまったように感じた。

綺麗な太陽は僕を照りつけ生ぬるい向かい風は僕を足止めする。

それでも僕は前へ前へと一歩ずつ踏み出して歩いた。

『○○さぁん、もう肩凝りがぁ』

喫茶店に行った日から4週間ほど経っても連絡は無く僕は再び社畜と化す。

「手を止めるな。おわんないぞ。」

『おわんない仕事出してくる会社が悪い。』

それは間違いないと思いながらも手を動かし続ける。

『今日も飲み行きましょうよ〜』

「無理だろ…18時に終わる気がしない」

『行くって言ってくれたら本気出します‼︎』

「じゃあ行くよ。今日は奢んないぞ?」

僕がそう言うと山下は"はい‼︎"と張り切ったように言って手を動かし始める。

僕なんかと飲みに行く事の何が楽しいのか。

『今日も楽しく飲みましょう‼︎』

「それは山下次第だな…」

結局仕事が終わったのは夜の10時。

『はぁ…結構頑張ったのになぁ…』

山下は落胆してカウンター席に項垂れる。

山下にしては珍しく本当に全力でやっていた。

それでも、あの仕事の量はあまりに膨大で二人が御手洗いすら惜しみ全力でやってもこれが限界だった。

「お疲れ様…」

『うぅ、○○さん今日も奢ってくれても良いですよ?』

「言うと思ったよ。もうホント最後だからね?」

『やった‼︎店長、生を2つ‼︎』

"おい。さっきまでの落胆ぶりはどこにいったんだ"

と出かけたが、その笑顔を見てると忘れてしまった。

「まぁ、今日は本当に頑張ってたよ。」

『今日もです‼︎』

「ははっ…それはないね。」

『むぅ…』

ブスくれる山下を無視して生ビールを受け取る。

今日のビールは何故かいつもより泡が多いように見えた。

「やっぱ、うまいな。」

『やっぱ大変な仕事後のビールが1番ですね』

山下はそう言って僕の方をみて笑った。

その真っ白な口ひげはわざとだろうか。

「山下はさ…恋人とかいないの?」

僕はそっと聞いた。

『あの、普通の話する前にこの髭に突っ込んで下さい。』

「時期違いのサンタクロースにでもなったのか?」

『いなくなった彼女さんをプレゼントしましょうか?』


……


「ふっ…ふははっ…バカなこと言うなよ」

少し間をおいて僕は思いっきり笑った。

『うわぁ、そんな笑います?ブラックジョークですよ。』

「なんだろうな、なんか面白いよ。」

『ホントですか?』

「ホントだよ…」


『じゃあどうして"泣いてるんですか?"』


「違う、本当に面白いんだ…でも、でも、なんでだろうな…」

『本当にコスプレしましょうか?』

「サンタのか?」

『もちろん、ブラックサンタですが』

「ははっ…そりゃ結構だ。」

今、僕は何故泣いているのか分からない。

ただなぜか心が軽くなった、そんな気がした。

『ところで‼︎さっきの問いですけどいませんよ?』

「え?」

『だから‼︎さっきの恋人いるかってのです。』

「あー、ごめん、ごめん忘れてたよ。じゃあ僕と同じ独り身だな。」

『んー、○○さんとは一緒にしないで下さい』

「なんでだよ。」

『私はまだフラれてないので。』

山下はビールを一気に飲み込んでジョッキをドンっと机に置いた。

「好きなやつはいるんだな。」

『次は気づいてない鈍感系男子のフリですか?しょうもないですよ?』

「は…?」

山下はまたビールをグイグイと飲んでいく。

そしてまたジョッキを机にドンっと置いた。

『だーかーら‼︎○○さんが好きなんですよ。』


……


「…それはホントに言ってんのか?」

『嘘はつかないですよ。』

そう言う山下の瞳は綺麗で真っ直ぐで嘘をついてるなんて思えなかった。

「そっか…」

気まずい沈黙が場を占める。

ただ聞こえるのはおじさんの汚い笑い声と大学生のしょうもないコールだけ。

僕らの空間だけ時間が止まったように沈黙が流れる。


……


『○○さんのこと好きなんです。私ならきっと彼女を"忘れ"させます。だから、私を見てくれませんか?』

沈黙を破ったのは山下だった。

真っ直ぐな瞳で僕の目を見て言った。

「…ごめん。少し考えさせて欲しい。」

『そうですか…』

時期違いのサンタクロースでもいい。

ただ、僕にもう一度遥香と出逢わせて欲しい。

そんな想いがまだずっと心に残ってるんだ。

僕と山下はこのあと特に会話をせずに居酒屋を出た。

家に帰り着いて電気をつける。

風呂にも入らずにソファに寝転がる。

冷静なフリをしていたが頭はいまだに整理がつかない。

山下が…

あぁ、分からない。

今、自分がどうしたいのか。

こんな僕を愛してくれる君を大切にするのか。

追いかけても追いつかない幻想をいつまでも追い続けるのか。

色々な思考が頭を駆け巡る。

酒が回った身体はそのまま眠りに落ちた。

『○○はさ、もし私がいなくなったらどうする?』

また、夢を見ている。

「遥香が…嫌だ‼︎どこにも行かないでくれ‼︎」

今回は柄にもなく縋るような自分を見せてみる。

『んー、考えとくね。』

そんなあやふやな答えじゃ満足できず、どこに行ったのかまで聞こうとした時。

いつものように視野が霞んでいく。


醒めるな。

醒めるな…

醒めるな……

と願えば願うほど視界がかすんで君の姿を捉えられなくなる。

かすんだ世界の君はすこし震えている。

そんな気がした。

気持ちの良いほどの朝日に照らされ目を覚ます。

とは言っても僕の背中は汗まみれで寝起きは間違いなく悪い。

色の変わったTシャツの首元はほんのり冷たかった。

今日もスーツに着替えて家を出る。

ドアノブを握るたびに聞こえる声を少しでも聴こえないフリをしながら。

職場に着くと真っ先に気づくことがあった。

山下が人が変わったように仕事に精を出している。

「おはようございます。」

そう言って席に着く。

返ってくる声はゼロ。

職場の雰囲気をまるで象徴している。

大体こんな時に山下は

"○○さん。やっぱ転職しましょう。"

なんて言ってくるが昨日のこともあり、そんな話をすることもなかった。

18時に仕事が終わり家に帰ろうと席を立つ。

そんな時だった。

『○○さん…少しだけお時間いいですか?』

いつもの数倍は暗い雰囲気の山下に呼び止められた。

「お、おう。」

ぎこちない返事をして一緒に職場を後にする。

行き着いたのは小さな寂れた公園。

「どうしたの?」

大人二人ギリギリの小さなベンチに座って聞いた。

『私…実は"遥香さん"見たんです。』


………


二つ不可解なことがあった。

なぜ山下が遥香を知っているのか。

知っていたとしてどうして今まで言ってくれなかったのか。

「どういう意味?」

『私…遥香さんの後輩なんですよ。大学の。』

一つ目の謎は軽々と解けた。

『それで、○○さんと付き合ってるって知ってお似合いだなって思ってました。』

「……」

『それでもある日言われたんです。"私いなくなるから"って。』

山下は淡々と話を続ける。

『そして本当に消えました。』

「……」

『程なくして、私は辛気臭い顔をした貴方に惚れました。なんですかね…遥香さんといる時は魅力なんてなかったのに。』

恐ろしいくらいに無音の公園は山下の声だけを響かせる。

『この気持ちは隠そうって思ってたんです。それでも、見たんです。』


——街を一人で歩く、遥香さんの姿を。


『最初は人違いかと思いました。けれど間違いなく遥香さんだったんです。』

『そこで、自分の気持ちを伝えてから遥香さんの事を教えようって思ったんです。』

『本当にいきなりでしたよね…ごめんなさい。』

少しだけ哀しそうに笑う君の笑顔はみにくかった。

「そっか…ありがとう。教えてくれて。」

『ずるい女です…きっと昨日告白が成功だったら…この事伝えてません…』

山下は顔を抑えて下を向く。

細くて綺麗な指と指の間から大粒の雫がポツポツと落ちていく。

「ずるくなんかないよ。こうやって教えてくれたんだから。」

僕は山下の背中をゆっくりと摩る。

『ごめんなさい…ごめんなさい。』

「なんでそんな謝るのさ。ホントありがとう。」

山下の泣き声と休むのを忘れた蝉の声だけが公園に響く。

山下も少しずつ泣き止んで落ち着いてきた…そんな時だった。

僕の携帯が震えた。

"田村真佑"と表示された画面を見てすぐに応答のフリックをする。

「ごめん、山下。少しだけ。ごめんな。」

そう言って少しだけ山下と距離を取る。

"はい、もしもし○○です。"

"来てるよ。"

遥香に聞こえないようにか小さな声で電話越しの田村さんは言った。

"分かりました。今から……行きます。"

"あ、ただ、雰囲気がなんというか。うん。まぁとにかく早く来て。"

"はい…すぐ行きます。"

僕は電話を切るとまず山下の元にすぐに向かう。

「ごめん、ごめん。ちょっと急用で行かないといけないみたい…」

『遥香さんのところ?』

君は赤く染まった瞳で僕を見つめる

「え…?」

『そっか…じゃあ楽しんでね‼︎今日のこれが私からのクリスマスプレゼントかな…‼︎』

もう吹っ切れたように見せても、痩せ我慢にしか見えない繕った笑顔で言った。

「時期違いだよ。でも、ありがとう。行ってくるよ。」

僕はそう言って喫茶店まで走りだす。

時刻は大体19時。

それでも夏真っ只中のためにまだ外は少し視界が開けている。

車に轢かれそうになってもただひたすらに走った。

『いらっしゃ……○○くん。』

「こんばんは…」

息切れを起こしながら喫茶店に駆け込む。

「遥香は…」

『あそこ。』

田村さんが指した先には一人で濃いアイスコーヒーを飲む遥香の姿。

「遥香…久しぶり…」

僕は遥香の隣のカウンターに座り声をかける。

そんな僕の声に遥香は首を傾げて怪訝そうにする。


『あのー、ごめんなさい。誰ですか?』


自分の中で何かが弾けた音がした。

シャボン玉でも弾けるような。

いや、そんな生ぬるい音じゃない、心臓が破裂するような。

ゆったりした口調で眉毛を捻らせて言う君の姿を見て僕は気も身体も動転する。

カウンターの丸椅子から転げ落ちそうになるくらい。

『あの、いきなりどうしました?』

たたみかけるように遥香から放たれる言葉に僕は正気を保ってはいられない。

「ごめんなさい…少し御手洗いきますね…」

僕はそう言って立ち上がり田村さんの元に行く。

今にも泣き出しそうだが不思議と涙の粒は流れなかった。

「田村さん…」

僕は暗い顔をしてただ、名前を呼んだ。

『んー、だよね…』

田村さんはそれだけでも何か察したようだった。

「ど…どうしたんですかね…」

声が詰まる。

『私も分かんないけど…遥香ちゃん。多分"記憶喪失"だね…』


………


さっきのやり取りで、なんとなく気づいていた。

それでも何故か胸の奥の奥からなにかが込み上げてくる。

「どうして…」

手で顔を覆う。涙が溢れないように。

『○○くん…少しだけ厳しいこと言ってもいい?』

そんな僕を見て田村さんが言った。

『まだ泣いちゃダメ。遥香ちゃんいるんだから。もういつ会えるか分かんないよ。』

「……」

『ほら、シャキッとして‼︎行ってこい‼︎』

そう言って田村さんは僕の背中をポンっと叩いた。

「すみません。ありがとうございます…」


『あ、あと‼︎』

「はい…?」

『いや…やっぱり何もない…かな。頑張れ‼︎』

僕は今にも溢れ出しそうな涙を上を向いて隠して遥香の元に行く。

彼女はまだアイスコーヒーをちびちびと飲んでゆっくりするのは変わらないみたい。

「さっきはごめんなさい。僕○○って言います。」

次はゆっくりと一歩ずつ歩み寄っていく。

『…○…○さん…いい名前ですね。』

君はいつもと変わらない顔で微笑んだ。

「……」

しかし、遥香はまた僕を見て怪訝そうに首を傾げる。

「ど、どうかしました?」


『どうして、"泣いてるんですか?"』


僕はそっと自分の頬を撫でる。

もう、泣いていたなんて気づかなかった。

君とは笑って再会したかった。

なのに、どうして。

「ごめんなさい、僕ドライアイで…」

見苦しい言い訳をしてみる。

『ふふっ…目薬入りますか?』

「……大丈夫です…」

『そうですか…何か頼まないのですか?』

そう言って遥香は僕にメニュー表を開いて渡す。

「んー、どれにしようかな…」

なんて悩んでいるフリをしてみる。

もう、決まっているのに。

『悩んでますか?それならお勧めはコーヒーですよ。』

「コーヒー…ですか…注文しますね。」

僕は田村さんを呼びコーヒーいつものでとコソコソっと伝える。

『はい、どうぞ。』

手渡されたコーヒーはいつもより色が数倍濃い気がした。

それでも一口グッと飲んでみる。

「ゔっ…」

『どうしました?』

「あぁ、いや…その。」

『実はコーヒー苦手…ですか?ふふっ…それじゃ、モテませんよ?』

「…コーヒー…おいしいです。」

僕の手に持ったコーヒーは小刻みに震えている。

多分また、泣いているんだ。

次は、苦いせいにしてしまおう。

あーあ、これじゃすっかり泣き虫キャラで定着してしまうよ。

『ふふっ…○○さんは面白いですね。苦くて泣いているんですか?』

「大正解です。」

『やった‼︎嬉しいです』

そうやって笑う姿が以前の遥香と被る。

いや、なにも遥香と変わってない姿が僕の心を抉るんだ。

『あの、ところでなんですけど、以前私とお知り合いでした?』

「え、えっと、それは…」

『んー、分かると思うんですけど…少し記憶飛んじゃってて…』

「あー…まぁまぁ…知り合いって感じですかね…」

僕は遥香の目を見ては言えなかった。

『あー、やっぱりですか…』

「というのは…」

『懐かしいんです。何故か○○さんといると落ち着いて…まだここにいたいって思います。』

「そう…ですか…今はどこに居るんですか?」

『ん?』

遥香は僕の単純な質問に首を傾げる。

「え?」

『今は…喫茶店ですよ…』

あ、忘れてた。

遥香は重度の天然だったっけ。

またその事実が僕の胸を抉っていく。

「ふふっ…そうじゃなくてどこに住んでるのかなって…」

『むぅ、そう言ってくれないと分からないです‼︎』

「ごめん、ごめん」

『今は…病院にいます。ただ寝泊まりするだけですけど。基本外出自由で…』

「あー、そうなんですね…今度行っても良いですか?」

『もちろん‼︎ありがとうございます…乃木病院にいるのでいつでも‼︎』

やっぱり笑顔が似合うな、なんて思って僕は苦手なアイスコーヒーをグッと飲んだ。

やっぱり苦い。

『あ、そろそろ私戻らないといけないのでごめんなさい…』

遥香はそう言って帰る支度を始める。

「あの‼︎」

『はい?』

「これ…連絡先です…」

僕は目を合わせずに連絡先を渡す。

まるで照れ隠しをする学生のように。

『ふふっ…ありがとうございます。では、また。』

遥香は喫茶店を後にする。

『ふぅ、大変だったね。お疲れ様。』

「田村さん…もう、泣いていいですか?」

『ふふっ…"いつもの"いる?』

「お願いします……」

田村さんの何気ない優しさに触れて涙が溢れ出す。

カウンターにポツポツと涙の粒が落ちる。

『頑張ったね。』

「ありがとうございます…」

いつものアイスコーヒーを飲んで少し落ち着く。

やっぱりこれだな。

そういってもう一度さっき残っていた苦いコーヒーを一口。

やっぱり苦い。

また涙が溢れそうになる。

僕はいつものアイスコーヒーで涙をグッと押し込んだ。

何故か、昨夜はゆっくりと寝付けた。

頭の中に色んな思考が駆け巡りすぎてパンクしたみたいだ。

今日もスーツに着替えてドアノブを握る。

「いってきます。」

なんて柄にもなくこぼして。

『○○さん‼︎おはようございます‼︎』

「お、おう、山下おはよう。」

いつもと変わらない…いや、それ以上のテンションで挨拶をしてくる。

「元気…だな。」

『まぁ、もう遥香さんと会ったならずるい女じゃないってことで。』

「ふふっ…そっか。」

僕はそうやって笑って前の仕事に取り掛かる。

今日も仕事の量はまぁまぁ多いみたい。

『てことで‼︎今日も一杯いきましょう‼︎』

「はぁ…今日も…?」

『はい‼︎』

「山下の奢りなら行くよ。」

『え…き、金欠なので……』

「ははっ…嘘だよ。仕方ない。僕の愚痴も聞いてよ?」

『はい‼︎』

再び仕事に取り掛かる。

『くぅ〜やっぱりビールが1番ですね‼︎』

「もう、ひげのくだりはいいだろ」

『あれ?ついてました?』

なんてわざと顎の方を摩る山下は本当にあざとい。

「ははっ…アホか。普通口ひげだろ。」

『えへへ。それで、遥香さんどうでした?』

「んー、まぁ。うん。それで話したいことあるから日曜日空けといてくれるか?」

『了解です‼︎てことで私の休日を奪った。つまり奢りですか?』

「無理です。自分で払ってください。」

『ぐぬぬ、ケチ‼︎』

山下はそう言ってグイグイとビールを飲んでいく。

そしてジョッキをドンっと置いた。

『あの、一応私まだ諦めてませんから‼︎』

「そっか…ありがとな。」

『うわ、ずるい男ですね。そうやってキープですか?』

「ちがうわ‼︎悩んでんだよ…」

こんな僕を愛してくれる君か。

僕を忘れてしまった愛しの貴方か。

『ふふっ…私は待ちますよ…』

「ありがとう…」

僕はそっとビールのジョッキを置いた。

約束の日曜日。

僕は山下と乃木病院の前にいた。

『病院…ですか?』

「うん…入ろうか…」

僕らは病院の中に入りエントランスで賀喜遥香の名前を聞いた。

【賀喜遥香さんなら406号室の方にいらっしゃいますよ。】

その言葉を聞いてすぐにエレベーターに乗り込み四階のボタンを押す。

『遥香さん…病気なんですか?』

「んー、見たら分かるよ多分。」

四階に着くとまずは面会者の名簿に名前を記入する。

齋藤○○、山下美月。

最初の曲がりを右に曲がった突き当たりにあるらしい。

着いた。

謎の緊張感が僕を襲う。

『○○さん?入らないんですか?』

僕が中々ノックも何も出来ないでいると山下が覗き込むようにして聞いてきた。

「ごめん…勇気が出なくて…」

『大丈夫ですよ。私もいます。』

「ははっ…ありがとな。」

後輩にこう言われてはやらなくては…そう思い僕は恐る恐るドアをノックした。

そしてドアを右に滑らせて部屋の中をみる。

『いらっしゃい。』

一つしかないベットに座った遥香は手を小刻みに振ってそう言った。

「こんにちは…」

『隣の子は…だれですか?』

遥香は隣にいる山下を見て言った。

『何言ってるんですかぁ、すぐそうやって天然ボケやめてくださいよ。』

山下のこのふざけた態度はどんな先輩を前にしても同じみたいだ。

「山下…天然は否定しないけど、遥香はボケてないよ。」

『え…?』

『もしかして山下?さんも私の知り合い…ですか?』

その言葉を聞いた山下は膝から崩れ落ちる。

『うそ…ですよね…』



『ごめんなさい…懐かしい匂いはするんですけど、分からなくて…』



『知り合いというか…1番好きな後輩って…言ってくれてたじゃないですか。』



山下は泣きそうになりながら声を震わせて言った。


『そっか…ごめんね。』


そう言って遥香は立ち上がって山下を抱きしめる。


『私だって忘れたくないよ…だって懐かしい匂いがするんだもん。』


『遥香さん…思い出してくださいよ…』


『うーん。私も思い出したいな…』




……




『遥香さん…大好きです。それでも伝えないといけないことがあります。』


山下は抱擁を解いて遥香の目を見て言った。


『○○さん…少しだけ。二人にさせて下さい』


僕は頷いてそのまま部屋を後にする。


ドアの前にそっと腰を下ろす…


どんな話をしているのだろうか。




………





………





『○○さん…終わりましたよ。』


体感10分くらいだっただろうか。


ぽんっぽんっと肩を叩かれ顔をあげる。


「あぁ、そうか。じゃあ中に…」


『うーん。私は今日は帰りますね…お疲れ様です。』


「そっか…。また明日。」


去り際の山下は少しふらついていて眼がほんのり赤く染まってるように見えた。


いや、気のせいかもしれない。


「失礼します。」


僕は再びドアをノックして右にスライドさせる。


『ごめんね、待たせちゃって…○○。』


「え…?」


『うーん。こう呼んでたのかな。ふふっ…美月ちゃんに聞いちゃった。』




………




「遥香……好きだよ。」


"いきなり"僕はいつもと変わらない笑みをうかべる遥香に愛を伝える。


あわよくば、前と同じ関係にまた戻れたらなんて。





『でも…また付き合うってのはできない…かな。』





「そっか…」


『ごめんね。』


遥香は哀しそうに僕を見て微笑んでそう言った。


「ううん。こちらこそ、ごめん、いきなり。」


『○○は美月ちゃんを大切にしなよ…あんな良い子中々いないよ?』


「ふふっ…あいつからそんな話も聞いたんですか?」


『うん。それがメインでしょ。』


他に何があるんだよと言わんばかりの顔で僕を見てくる。


なにか懐かしいななんて感傷に浸ってしまいそうだ。


「たしかに…あ、そういえば、外出は自由なんだよね?」


『あー、それがね…ダメになったの。』


『"後1日"だからって。』


「"後1日?"」


『あー…今のは忘れて?とにかく今は出れないんだよね…』


「そっか…」


疑問はずっと心に残りながらも僕は踏み込みすぎるのはダメだと思いそっと心に押し込んだ。


きっとこんなところが僕の悪い癖なんだろうけど。


そこからはたわいのない会話をし続けた。


病院の先生がセクハラ紛いのことをしてきてウザい事とか。


この前田村さんがコーヒーとコーラ間違えて客に出して客からアホ呼ばわりされてた事とか。


とにかくなんでもない話。


そんな話をしていると院内アナウンスが鳴った。


面会時間はもう終わりとのこと。


『また、明日来てくれない?言いたい事もいっぱいあるから…』


遥香は僕の右手をそっと握って言った。


「18時くらいになってもいいかな…」


『いいよ。明日はどうにか外出許可とるね。』


「ふふっ…プラン考えとくね。」


『やった‼︎じゃあ楽しみにしてる‼︎』


「じゃあ今日はありがとう。またね。」


『うん。またね。』


僕は小刻みに手を振る遥香に大きく手を振って病室を後にする。


外に出ると生ぬるい向かい風が吹き付ける。


それでもなぜか僕の歩みはいつもより軽かった。




『○○はさ、もし私がいなくなったらどうする?』


また、夢を見ている。


「ふふっ…もう見つけたじゃんか。」


なんて笑って言ってみる。


『ううん。またいなくなったら。』


"それってどういう意味?"なんて聞き返そうとするとやっぱり視界が揺れる。

もう、遥香の姿を捉えられないなんて言葉で表せないくらいに。


そんな中でも君は泣いている。


そんな気がしたんだ。




『○○さん…今日17時に上がって少しだけあの公園行きませんか?』


職場に着くや否や山下が僕の元にやってきてそう言ってきた。


「りょうかい。」




僕らは仕事を終えてまたあの小さな寂れた公園の街灯の下に立つ。


『○○さん…遥香さんから聞きましたか?』


「んー、あぁ、あれ?ライバル宣言したみたいな?」


『ムッ‼︎バカですか‼︎違いますよ…』


山下は僕の肩を平手で軽く…いや重く叩いてそう言った。


そして少し間をおいて…





『遥香さん、明日にはまたいなくなるって』





確かにそう言った。


蝉も時期を忘れた数匹以外は黙りきっており公園を沈黙が支配する。


「は…?意味分かんない…」


『だから…いなくなるんです。』


「だから‼︎それが分かんないって言ってんの‼︎」


『……』


想像よりも大きな声を出してしまい山下は黙り込む。


「ごめん…ごめん…」


そして、謝り続ける僕に抱きついた。


『○○さん…辛くなったらいつでもきて下さい。私はずっと待ってますから。』


山下は僕の背中に手を回して頭を僕の肩に預ける。


「どういう…」


『遥香さんの事よろしくお願いしますね。』



『"大好きでした"』


そう言って山下はそっと僕の唇を奪った。


柔らかいその唇は確かに湿っていた。


そして、そっと当たる君の頬も。


『○○さん…今日も行くんでしょ?早く行って下さい‼︎』


山下はそっと離れると僕に背を向けてそう言った。


声は震えてて今にも消え入りそうな声。


「ありがとう…じゃあ、行くね…」


『頑張ってね…』


僕は病院に向かい走り出す。


綺麗な月に照らされながら…




病院に着いたのは18時30分。


息切れを起こしながら君のいる部屋に向かう。


『ふふっ…すっごい疲れてるね』


膝に手を置いてげっそりした僕を見て言った。


「ふぅ…外出許可はもらえた?」


僕はそっと遥香のベットの隣にある椅子に座り込む。


『もちろん‼︎21時までならって‼︎』


屈託のない笑顔で言う遥香を見て楽しみにしてくれてたんだなってこっちまで嬉しくなる。


「じゃあ行こうか…」


すぐに立ち上がって僕は遥香の左手をとる。


折れてしまいそうなほど細長い指は繊細で綺麗だった。


『どこ行くの?』


病室の外に出た僕はまずは"いつもの"場所に遥香を連れていく。


「んー、着いてのお楽しみ。」


ゆっくり歩いて行く。


月に照らされながら右手と左手を繋いで。




「まずは、ここかなって…」


僕はいつものあっまいアイスコーヒーの氷をストローで掛け回しながら言った。


『ふふっ…私もここ好きだなぁ』


そう言って遥香は辺りを見回す。


僕も同じように辺りを見回してみるけれど、やっぱりこの喫茶店は落ち着く。


木造をベースに程よい大きさの窓から昼は日が夜は月明かりが入ってくるような作り。


『やっぱ、コーヒーも美味しいよね…』


遥香は少しだけコーヒーを啜って言った。


「うん…美味しい。」


『砂糖5倍なのに?』


「…なんで知ってるの?」


『田村さん…』


そう聞いた瞬間に僕はカウンターの奥にいる田村さんを睨みつける。


『あはは…実は遥香ちゃんずっと知ってるけどね…』


なんて、僕の妙案は身近なスパイから筒抜けだったみたいだ。

僕らは付き合っていた時のように特に会話もなくアイスコーヒーを啜る。

店内に流れる儚いオルゴールの音に耳を澄ましながら。

時刻は大体20時。


『ねぇねぇ、次はどこに行くの?』


喫茶店から出て10分といったところで遥香が言った。


「んー、まぁもうすぐ着くよ。」


僕はそういって遥香の左手を握る。


秋の少しひんやりとした木枯らしが僕らの間を駆け抜けた。


「着いたよ。」


『ん……?』


閑散とした住宅街にポツリとある古臭いアパートを見て遥香は首を傾げる。


「僕らの家だよ。」


僕がそう言うと遥香は目を見開いて笑った。


僕はドアノブを握り捻って扉を開く。


『おじゃまします…』


他人行儀な遥香を見てより一層事実を再認識させられた。


「どうぞ。」


僕はまずリビングに案内して二人で愛用したダイニングテーブルに座る。


向かいに座らないで隣同士に座るのは感覚的なのか懐かしさを感じる。


『私…ここに住んでたんだ。』


「意外と良いところでしょ。」


『テレビないんだね。』


「いらないって言ったのは遥香なんだけど…」


『あれ?そうだったんだ…』


君にも変わったところもあるんだなってその時感じた。


いつもの変わらない遥香じゃないんだって。


『あ‼︎そういえば、私の服とかある?』


「パジャマならあると思うけど…」


『え、着たい‼︎』


「でも…外出時間もあるでしょ?」


『えへへ、それ嘘だよ。』


「ん…?」


『だから。外出許可なんてもらってないよ』


「ダメじゃん‼︎早く…」


『良いの。良いからこのままいさせて。』


あまりに君が儚い瞳で見つめていってくるもんだから僕は頷くしかなかった。


「…そっか。じゃあお風呂入ってきなよ。パジャマも出すから。」


『ありがと‼︎』


そう言って遥香は風呂場へと向かう。


『あ、覗かないでね?』


風呂場のドアから顔を覗かせて言った。


「誰も遥香の貧相な体なんて見ません。」


『もうっ‼︎バカッ‼︎』


なんて言ってドアをバンって閉める仕草は今でも愛おしかった。




『ふぅ…上がったよ〜。』


僕はそう言って髪を束ねる遥香に見惚れる。


『どうしたの?』


「綺麗だね…」


『そうかな…』


「うん…」


なんて付き合いたてのカップルみたいな会話が優しくて儚くて涙が溢れそうになる。


「ごめん…僕も風呂入るね…」


涙を隠すようにお風呂場に駆け込む。


また、幸せな1日を繰り返すことができるんだ、そう思っていた




大体時刻は22時半。


僕が風呂から上がるとこちらに背を向けて震える君の背中。


「遥香……?」


『忘れたくないよ…』



「え?」


『こうやって毎日が過ごせれば良いのに。忘れたくないよ……』


遥香はこちらを向いて僕に抱きつく。


『いやだ…いやだ…○○。忘れたくないよ。』


僕はそれだけ言って泣き続ける遥香の背中を摩る。


「どういう意味…?」




『私、あと1日でまた全て忘れるの。…1ヶ月に1回あなたと過ごした日々も全て。』




また、僕の中で何かが弾けた音がした。


シャボン玉なんかより心臓なんかよりももっと…なにか大きなものが…


山下が言っていたのも全部。


こういうことだったんだ。


"あと1日"ってなんだろうって…


僕は遥香を抱きしめる力をより一層強める。


潰れてしまうくらいに。



『大好きだよ…○○…』



絶対に僕は泣いちゃいけないのに涙がどんどんと溢れ出てくる。



「僕も……愛してる…」



僕らはずっと抱きしめあった。


月明かりも入らないような部屋で。





『寝たくないよ…』


二人で一つのベットに寝転がる。


遥香は病気の影響もあるのか瞼は半開きで相当な睡魔が襲ってるらしい。



「大丈夫…大丈夫だから。」


僕は気休めにもならない言葉をかけて君の頭を撫でる。


そしてそのまま優しく抱きしめた。


遥香はそのまま瞼を閉じて眠りについた。


君はきっとこうやって話した事も抱き合った事も忘れてしまう。


それでも良いんだ。


僕はずっと憶えているから。


また、君と僕で新鮮な1日を過ごそうよ。


飲めないアイスコーヒーをみてまた笑ってよ。


遥香…おやすみ…




『○○はさ、もし私がいなくなったらどうする?』


また、夢を見ている。


「また、見つけておはようって言うよ。」


僕は柄にもなく明るく微笑んで言った。


『ふふっ…ありがとう…』


"こちらこそ"って言おうとすると段々と視界がホワイトアウトしていく。


でも、醒めてしまってもいいんだ。


また、僕は君に恋をするから。


もう、霞んでしまった世界にいる君の形が全く捉えられない。


君の顔なんて全く分からない。


それでも、どこか君は笑ってる。


そんな気がしたんだ。



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