読書体験とラベリング行為
こんにちは。
読書が人並みに好きな者です。
最近は1年くらい積んであった、「此の世の果ての殺人」を読みました。
普段推理ものはあまり読まないのですが、そんな私ですらすらと読めてしまいました。
小説は好きなのですが、読んでいく際に疲れてしまうこともあり本のはじめだけ読んで積んでしまっている小説本がちらほらあります。
なぜかと問われると、登場人物が多く出てくると混乱してしまうからです。
物語を理解するには、自分の頭の中で登場人物が本当に生きている人として認識する必要があり私の場合それに時間がかかります。
自分は物語の人物ではないけれど、一方的にその世界に関わっているという不思議な感覚があります。
読書といえば学生のとき、とりわけ小中学校生のときによく推奨されていましたよね。
例に漏れず私が通っていた頃も朝読なるものがあり、15分くらい通学の日は朝礼の後本を読んでいました。
漫画はだめで、活字のみの本はOKというルールでした。(はだしのゲンは例外的にアリ。)
そのルールでは読めるジャンルの本がほとんどが小説しかなく、文句を言っていましたが今思うと集中して文字を読む訓練だったのかなとも思います。
そのように思う理由なのですが、読書はある程度知恵をださなければ読み解くことができないものだと今でもそう思うからです。
今では読書の他にテレビ番組、ネット動画の隆興や更に短い動画、写真を共有したりするものなどの視覚や聴覚で楽しむ娯楽媒体がたくさんあります。
ですが読書はそのような直観的な側面はあまりありません。
文章を理解するためには、知らない単語を調べたり小説なら登場人物を想像したりと、一度目で見たものをイメージとして具現化する段階を踏む必要があります。(あくまでも私個人の話です。)
そんな読書ですが、他の娯楽には無い良い影響が私にはあるように思っています。
それはラベリングができるように訓練されるということです。
心理学の用語なのですが、この場合においてはある未知の事象に対して詳しく知り解釈する能力を指します。
概念や心理的な曖昧なものを理解するとき、語彙として圧縮したものが文字やことばなのではないかと思います。その言葉を理解していくことで、また新しいものが理解できるようになったりするのではないでしょうか。
少々頭でっかちな説なのかもしれませんが、私はそう思います。
漠然とした世界には名前がついたものがたくさんあるように気が付かせてくれるのが読書だということです。
ムービーなどでもその役割は果たせそうですが、文字には圧縮性がある以上文字のほうが優位ではないでしょうか。
自分のなかで新たな感性が芽生えたら、それでいいのかもしれませんね。
読書はコスパの良い趣味です。さようなら。
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