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詩を通して、自分らしくいたいと思ったこと。

※この中にポエトリーリーディングの事が書かれていますが、これは、私個人の主観であって、ポエトリーシーン(ポエトリーリーディング、詩人やその作家や界隈)を批判する意図は全くありません。色々な活動をしてる人たちと関わる中で、どうしても相性はあります。
素敵な方々がたくさんいらっしゃる中で、ほんの一部の方に感じた気持ちです。
その事をご理解頂いた上で、お読み頂けると幸いです。

同じ土俵には立たない。

私は、時々私も知らない間にマウントをとられているときがあるようだ。
マウントをとるとか…よくわからないけど…私よりも優位に立っても、何も手に入らないと思うんだけど?
だって、私は持たざる者だもの。
勝つも負けるもない。

私は、好きで自分の気持ちを詩にする。
言葉が好きなだけ。
高卒だし、誰かに批評されるのは好きじゃないから、特に詩誌(詩の雑誌、色々な詩が載っていて、それに関する記事や、自作の詩を応募するとその時の著名な詩人や作家が評価したり、賞をもらえたりする)をペラペラめくっても、応募することはなくて終わった。

私は、子供の頃から、実父からは罵倒されて育っていた。特に国語的なことや、文章については、小学校でいくら賞をもらっても、学校の朝礼で代表で作文を読む役目をもらっても、絶対に褒められることは無かった。
確かに、上には上がいるし、1番優秀だと評価された訳では無い。
私は、ありのまま、私の自然体を評価されただけだ。
でも、その自然体は、実父には許されなかった。
「お前の文章はなって無い“…と思う”が乱立してて、文章が稚拙だ」
稚拙だろう、だって小学生だから。
でも、小学校の先生は、その稚拙さを褒めてくれた。子供らしさを…。

大人になって、自分の好きな表現を見つけた私は、ポエトリーリーディングに出会って、オープンマイク(自分の表現を決められた時間枠で表現できるイベント)等に出掛けるようになった。
ほとんどの人は、私の自作の詩について、暖かく評価してくれ、「もっとこうすると、面白くなるよ」「こんな詩の表現があるから、この作品もっとみた方が参考になるかもね」とか嬉しいアドバイスをくれた。
私は、とても怖かった。
批判しか、されないと思ってたから、自分がそこに居ていいんだと、受け入れられた気がして感動すらしていた。

けど、そこには、私に対してよく思わない人も居たのかも知れない。

ポエトリーの知り合いから教えてもらったイベントに参加して、お茶したり、飲みに出かけたり、深い話をするようになった。

そうすると、中には、私の作品に対して、よくわからない難しい批判をしてくる人も出てきた。
それの代表が
「あなたのは詩じゃない」
という言い方だった。
私も、どの辺がそう思うのか?聴ける余裕があれば良かったけど、殆どが酒の席だったりしたから、言われてなんとなく傷ついたけど、深追いしても仕方ないかな…と、多分「あなたはそう思うんですね」かなんか言って、席を離れた記憶がある。

私のは詩じゃない。

難しい。そもそも、そういうのを言う人は大卒だったりする。大学行った人は、「大学なんて大したことない」っていうけど、私は行きたくても、お金も受験に耐えられる精神力も、勉強に集中できるような家庭環境でも無かった。

両親が離婚して16歳からの3年間、カウンセリングやら高校での勉強、実父から解放された安堵感と、今までの緊張の積み重ねで、自分自身の進路云々にきちんと集中できる状態ではなかった。
何をしたいか?の主体性だって、育ち様も無かった。

だから、詩のことを集中して勉強したり、研究出来てた人たちには、絶対に勝てないって思っていた。

普通のコミュニケーションですら、ままならないのに、学も無いし、ただただ、高校の文芸部のそのままの青臭い詩しか作れなかった。

私は「詩じゃない」と、言った人たちに何もしていない。
彼らを批判してないし、むしろ、評価すらしていた。
尊敬もしていた。

でも、どうしてそれを言われたのか、未だにわからないし、説明もなかった。

詩をつくる人の中には「行間を読め」とか察しろ的なことを言う人がいるけど、わかりやすい答えは意地悪く用意しない。

別に、相手がプロの詩人や作家を目指してたりとか、その人に教わって勉強したいと思っている人に言うのなら、わかるんだけど…

私は、「詩じゃない」と言った人たちに、私の詩作の評価は頼んで無かったし、その人から教えを乞うこともしてなかった。

だけど、急によくわからないタイミングで言われたので、どうして良いかわからなかった。

結局、私の存在が気に入らなかったのかも…と、そういう感じにとってしまった。

もっと、負けない!とか、自分を強く持っていたらその中で、居られたのかも知れないけど、私はそこまでその場所に執着は無かった。
趣味の中で自由に表現したかっただけだし、別に全員に理解されようとも、多くの人に評価してもらおうとも思ってなかった。

ただ、表現せずにはいられなかったし、もう、詩みたいなカタチで、出さないと私はただの気が狂った人みたいだった。

もしかしたら、纏まりなくて、作品的では無かったんだろう。
なら、出し方とか、その「詩の在り方」みたいのをわかるように言って欲しかった。

私の詩は、私そのものだったから「詩じゃない」というのは、人格否定に近かった。

詩じゃなくても、別に止められない。
止めようがない。
でも、あの場所では無い
そう思った。

だから、未だにあの中の人前は怖い。
未完成な私は、私に成れないまま漂うだけだ。

哀しみに酔いたくはない。そんなことをしたら、あの人たち(たった数人)と同じ土俵に立ってしまうだけだ。
負けないと、強がることも、認めさせると意気込むことも出来たし、もしかしたらそういう私を期待されたのかも知れないけれど、私は別に自分の表現を「勝つとか負ける」に分類していない。

単純に、自由に私が私であるために、息をするみたいに、居たい。
それだけ。

わかる人だけにわかって欲しいというのでも無いけど、届くべき人に届けば、あとはたくさんの人に評価されたいとか解らせたいとかは全くない。

詩じゃないのかもしれない

ただの『私という言葉の羅列』なのかもしれない。

だけど、詩という表現が、なんだか変に高尚ぶるのも勿体ない気がする。

そういう世界があってもいいし、もっと気楽な部類のものがあっても良いと思う。

違うからと、毒を吐かれても困る。
そういう表現がしたいなら、そういうのを求めてる相手に選んでして欲しい。

「自分は好きじゃない」なら、そのままわかりやすく言って欲しい。
そういうのを競うイベントもあるし、そこで厳しく伝えれば良い。

わかりにくく言われても、私は難しい事はわからない。

作品になら、好きとか嫌いの評価はして良いと思う。

変に一般化して言わないで欲しい。

詩は本来こうあるべきというのを伝授したいなら、わかるように説明して欲しい。

その人たちといると、もう自分の傷を頼んでも無いのに抉られるようなそんな気がしたから、距離を置くことにした。

今はそれで良かったと思う。
狭い世界にいても、仕方がない。
世界は広くて大きいのだから、そんなふうに身内だけでベタベタし合っても、面白くもなんともない。

住む世界が違ったんだと思う。

私は、私の居心地の良い場所探しをする。

ほんの一部の人たちに、邪魔されて、悪い気分のままいるよりずっとマシ。

ポエトリーリーディング繋がりで出会った気の合う人とは、今も交流があるし、ポエトリーリーディングや詩の世界は、素敵だと今も思っている。

ただ、前みたいには若くもないし、時間とかタイミングとかもあるから、積極的には行かないかもしれないけど、いつでも出たり入ったりできる場所だから、ずっとは執着しなくても良いかな?と思っている。

楽しく、健やかに、面白く詩の世界と繋がっていたい。

ポエトリーには、自由で、ずっと魅力のある世界であってほしい。


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