勤労感謝の日


販売職は休日に休みなど無い。
勤労感謝の日に何故勤労しなければならないのか、そんな事を考えるのは販売職一年目くらいで卒業する。

勤労感謝の日

目次

錆びついた階段と小さな紅い靴 
ミスターアンリくん 
甘食とミルクティ 
地震があった日 
かつてここに大きなスーパーがあった
その後の話


錆びついた階段と小さな紅い靴

 利夫は昨日の直也に言った事を訂正しなければならないと思った。
大学卒業まではこの店で働くと、疑いもせずに思っていた。しかし勤め先のビルの休憩室に貼られた一枚の紙切れに、利夫の未来はすぐさま一刀両断された。

満丸スーパー所沢店閉店のお知らせ

従業員の皆様にお知らせ致します。当ビルは来月末日をもちまして閉店致します。
従業員の皆様の日々のご活躍、誠に感謝しております。
 しかしながら近年の売上低迷や、ビルの老朽化により今後の営業は困難であると本社からの通達がございました。

 前々から噂はあったのだと、利夫は自らを落ち着かせるために考えた。そっと溜息を吐きながら真新しい紙に打ち込まれた活字を眺めていると、後ろに何が書いてあるか内容を確かめようと鬱陶しそうに見る中年の女性がいる。利夫は「すみません。」と早口に言ってその場から退いた。
中年の女性は顔を顰めたまま張り紙に近付いていた。
 利夫は食べかけのあんぱんを取りに広々とした休憩室の端まで歩いて行く。切ったばかりの黒髪が首をつつくような気がして煩わしく感じた。利夫はひと月おきに散髪の日にちを決めており、2日前切ってもらった床屋では、いつもの担当者が休みで、店主の大柄な男がビックリするほど繊細な手つきで切った。しかしいつもと違うカットの具合は日常の歯車を狂わせてしまったのではないか……と利夫は考えた。従業員用の休憩室は巨大な長机がいくつも並んでおり、床も机も真っ白で、色が付いた物を置くのが面倒だと言うかのようだ。そして閉店というレッテルが付けられたビルに相応しく、それらは長年置かれていた事によって薄汚れている。利夫の陣取った席の真上に付いたテレビは面白くもないバラエティ番組を映し出す。
 テレビの中のスタジオの笑い声が利夫の耳の中に反響した。
利夫はこの薄汚れたビルの事も、このビルで過ごす日常も、こんなにも好きだと感じていたのだと初めて実感していた。

 利夫は大学に進学すると、このスーパーの中にある惣菜屋のアルバイト募集の張り紙に飛びつき、すぐさま働き始めた。実家からの仕送りだけでの一人暮らしはひと月で無理だと見切りを付け、働くしか無さそうだと自分に奮起を起こして頑張った。
 惣菜屋で働き始めて三日経った頃だろうか。利夫は奇妙なものを目にするようになった。
小さな、真ん中にベルトが付いている子供用の紅い靴であった。
ゴミ捨てに行く為に従業員が使う錆びついた階段にぽつりと落ちていた。
利夫は悪戯で従業員入口を開けて迷い込んだ子供がいるのだろうかと慌てて辺りを見回したが、靴の他に人の気配は全く無い。錆びついた階段はカンカンと鳴る上によく軋む。不気味なほどの静けさは利夫の耳の中をじんじんと脈打った。
ふと、利夫が持っていたゴミ袋が焼き鳥の串で微かに破けている事に気がついた。利夫はこれ以上破けないようにとゴミ袋を持ち上げて裂け目に圧力をかけないよう気遣わなければならなかった。
ゴミ袋を持ち直し、気を取り直して階段に目をやると、利夫を揶揄うかのように紅い小さな靴は姿を消していた。利夫はは身震いをすると階段を急いで駆け降りた。
 利夫は人の見えないものがよく見えた。それらが幽霊と言われるものなのだろうかとも考えたが、そもそも自分と同じものを見たと言っている人を見かけた事がないので、それらは利夫の妄想だとか幻覚だとしても驚かない。ただ見えた物をすぐさま口に出すことは憚られた。
「いやに遅かったね」
 利夫が売り場に戻るとパートの相原さんが利夫に声をかけた。
「袋が焼き鳥の串で破けて、持っていくのに神経を使いました」
 利夫が半分本当だと思いながらスラスラと言葉を返すと、相原はずいと利夫に近づいた。
「いやね、あの従業員用階段『出る』って噂だから気になっちゃって」
「出る……」
 利夫は下を向きながらポツリと言った。
「今の若い子は幽霊なんか信じないか」
「そうでもないですよ」
 利夫は素早く答えると先を促す事にした。
「どんなのが出るんですか」
 相原は顎に手をかけながら思い出そうと眉間に皺を作った。
「なんでも女の子の霊だとか……」
「女の子……」
 利夫は小さく呟いた。
「指輪を探しているんだって」
 相原の言葉に、利夫は小さく落胆した。先刻見た子供の靴との関連が薄かったからだ。
利夫は「そうなんですか」と適当に話を切り上げ、仕事に戻る事にした。相原の後ろで神経質な店長が焼き鳥を早く焼けとガラス越しに睨みながらジェスチャーをしていたからだ。

 利夫は薄汚れた真っ白な休憩室で缶コーヒーを開けていた。
利夫の頭の中に今朝も従業員用の錆びついた階段でコトンと落ちてきた小さな紅い靴が浮かび上がった。
「淋しい?」
 利夫の声が誰もいなくなった休憩室に反響した。利夫は心のどこかでこんな場所で呼びかけても返事など来る筈が無いと思っていた。
「指輪……見つかりそう?」
 そう聞いた途端に利夫の耳に何かが弾けるような音が響いた。身震いしながら音のした方向を探ると、満杯になったゴミ箱から数本空き缶が落ちていた。
利夫は全身が凍りついた。
慌てて沈黙が続く事を願うように真っ白の休憩室を目玉をぐるりと回して見渡した。
 しかしそれきり、何かが起こる事は無かった。

ミスターアンリくん

 午前十時、開店したばかりのスーパー満丸に長蛇の列ができている。それらは地下食料品の売り場をかすりもせず、初売りでもないにも関わらず、延々と上の階まで伸びていく。後を辿っていくと、テナントの手芸店へと続いていた。
 この行列を整備する事。それが警備員として派遣された人間の最も大きな仕事であった。今日派遣されたばかりの人間には荷が重い事を、列の様子を見て、警備員はすぐさま悟った。
列から発せられる熱気が異様なのだ。手芸屋に買い物に行くのに何故そんなに熱の篭った瞳で並んでいられるのかが分からなかった。
ふと、アイドルのコンサートで見かけるような飾り付けられたうちわが警備員の目に入った。

『ミスターアンリくんこっち向いて!』

「ミスターアンリくん?」
 警備員は奇抜とも何とも言えない名前だと思った。
「あら、貴方、新しい警備員さんね」
 列に並んでいるパーマヘアの中年の女性が警備員に声をかけた。
「ええ、まあ……。ここって手芸屋さんですよね。どうしてこんなに並んでいるんですか?ミスターアンリくんってそんなにかっこいいんですか?」
「かっこいいっていうか、ねえ……」
 女性は同意を求めて隣の女子高生に視線を送った。
「すみません。私同担拒否なんで」
 女子高生は冷たく言い放った。
「あら、本当に、最近の若い子は感じが悪いわね」
 女性は酷く気分を害した様子だったので、警備員は続きを聞く事ができなかった。
すると列の前の方から悲鳴のような歓声が上がった。
どうやらミスターアンリくんが到着したらしい。
手芸屋の従業員の女性が青いパーテーションの紐を引っ張りながら警備員を睨みつけ、こっちに来いと手招きしていた。警備員は少しむっとしながらも、大人しく従業員の方へ向かった。
「新しい警備員さんですね」
「はい」
「ここの雑貨売り場の前に列ができてしまうと商品が取りにくくなってしまって困るので、このパーテーションで仕切って列を横に流すようにしてください。それからこれから並びに来る人もいるので『こちらミスターアンリくんの列最後尾』のプラカード持って最後尾についてください」
 警備員は従業員の女性の指示に従い、パーテションのテープを伸ばし、最後尾のプラカードを持って立っていた。警備員はただの一般人でここまでの人気を博す、ミスターアンリくんとは一体どんな人物なのかという事が気になって仕方なかったが、自分に与えられた仕事を放棄する事もできず、二時間ほど延々とプラカードを持って過ごす羽目になった。
 列がようやっと落ち着き、パーテーションを片付け始めた時、ごく普通の、妙に真顔な事が印象的な手芸屋の制服を着た青年が近づいてきた。
「新しい、警備員さんですよね」
「はい。よろしくお願い致します」
 警備員は柔らかな雰囲気の青年に好感を持ち、わざわざ帽子を取って一礼した。
「未須田あんりです。こちらこそよろしくお願い致します」
「みすださん。ミスターアンリくんじゃないんですね」
 警備員は驚いた。こんなどこにでもいる青年が、どうして開店前から長蛇の列を成すほど人気があるのか。
「何故かみんなそう呼ぶんです。違いますって最初は言ってたんですが、最近ではどちらが本当の名前か分からなくなりそうです」
「それはそれは……。毎日貴方目当てで沢山の人が押しかけてきて、大変ですよね」
「僕目当ての人が押しかけてるんですか?」
 その事に気がついていなかったのかと、警備員は驚愕した。
「うちの店、朝は大体三人でレジを開けて開店するんです。後の二人は普通なのに、毎日毎日なんで僕のレジだけこんなに人が並ぶんだろうって、ずっと不思議だったんです。僕目当てだったのか」
 ミスターアンリくんは顎に手を当ててふーむと考えるポーズをとった。
「どうして……」
「え?」
 警備員は聞き返した。
「どうして僕目当てに人がやってくるんだと思います?」
 警備員はミスターアンリくんの顔を見ながら悩んでしまった。確かに、雰囲気が柔らかく、他の従業員が殺伐と働いている中では癒しにはなるだろう。しかし顔が平均よりも整っている訳でもない。平均の中の平均。そんな顔だ。警備員は更に考えると、ある事に気がついた。
「名前ですよ。貴方の名前。すっごく似合ってます!」
「そうですか?」
「はい!」
「でも、名前が似合ってるからって沢山人がやって来たりするものなんですか?」
「確かに……」
 警備員とミスターアンリくんはその後も五分ほど考えたが、「突っ立ってるなら働いてくれる?」と社員の女性から叱責を受けたので、答えは出せずじまいであった。

 この手芸屋はテナントの中でも割と大きく、八階と九階両方に売り場を持っていた。昼休憩が終わり、九階に着いた途端に警備員は社員の気の強そうなショートカットの女性に『新しい警備員さんですか?』と話しかけられた。ここの店員はなぜこうも怖そうなのかと警備員は思った。
九階の大まかな商品の場所と、『何かトラブルがあればすぐさま駆けつけて下さい』と念を押され、警備員は今度は一体何が待ち受けているのだろうかと緊張で胃の辺りが震えるのを感じた。
「ちょっとお前、最高で指二本分て教えたよね!?次そんなにカットロスしたら許さないからね!」
 今朝この店に来てから一番大きな怒鳴り声が警備員の耳に入った。
 少し油っぽい黒髪の七三分けにし、縁の太い黒メガネをかけた小太りの男が、アルバイトを怒鳴りつけていた。
ネームプレートには桐尾と名前が書かれている。警備員はあまり近寄りたく無いタイプの店員だなと即座に思った。
すると、先程から辺りをキョロキョロと見回す女性がいる。何か探しているのだろうか。
「すみません、リバティのタナローンってどこにありますか?」
 小綺麗で裕福そうな女性が桐尾に向かって話しかけた。
「今こいつに説教してるんで、あなたの話聞いてる暇ないです」
 桐尾はお客に見向きもせずに早口に告げた。警備員は思わずフォローに入ろうかとカット台に近寄ったが、怒られているアルバイトが、この人には何も通じはしないとでも伝えるかの様に警備員に向かって気怠そうに片手をあげて制した。
「貴方、店員なのにお客様に何て口を聞くのかしら。店長呼んでもらえます?」
 桐尾は面倒くさそうにカット台に置いてある内線電話を引っ張って電話をかけ始めた。
桐尾が電話をかけている間、カット台は実に居心地の悪い沈黙に支配された。
「あ、店長、なんか呼んでます」
 女性は怒りが頂点に達した様でカット台をドンと叩いた。
「貴方みたいな人に会った事がないわ!本社にクレームの電話しますからね!!」
 お客はヒールをカツカツ鳴らしながらエスカレーターを降りて去って行った。
 桐尾はその様子を無感情に見送ると、繋がりっぱなしの電話を再び耳元に引き寄せた。
「あ、店長?なんかもう大丈夫みたいです」
 警備員は人間あそこまでの変わり者になれるものなのだろうかと桐尾に代わって胃がキリキリと痛んだような気がした。
警備員は九階の売り場に何が売っているのか観察して気持ちを沈める事にした。
ほつれ止めピケ、コンシールファスナー、ミシン油、手縫い糸、ミシン糸、手芸をするのにこんなにも材料があるのかと思い知った警備員は、この店の状況も踏まえ、今後手芸だけは趣味にしないようにしようと静かに誓った。売り場をゆっくり眺めていると、丁度レジの真後ろに来ていたようで、ファスナーが並んだ什器の後ろから、お札を数え、レジのボタンをテキパキと叩く男の姿が見えた。
「よし。中間精算終了。今の所違算はありません!」
 男はやけに大きい声で言うと、箱に入ったクーポン券を整理し始めた。
「よかった。今日も違算金ゼロで閉店しましょうね、為山さん」
 アルバイトらしき人懐っこそうな女性が笑顔で言った。
「そうですね」
為山と呼ばれた男は素気なく返事をした。
少し油っぽい黒髪を短く切り揃え、縁の太い黒メガネをかけた小太りの男は喉の奥に篭ったような声といい、先程大きなクレームをもらった桐尾とよく似ていた。
そこへ、一人の女性が買い物かごを持ってお会計にやってきた。
「いらっしゃいませ」
 為山はまたしても失礼に聞こえかねない、ぶっきらぼうな口調で商品をスキャンし始めた。お客の女性はどことなく不機嫌そうに会員カードを出すと、腕を組みながら為山のスキャンが終わるのを待っていた。
「え、これ昨日までチラシ商品で安かったのに、貴方今日買うんですか?馬鹿みたいですね〜」
 為山は何の悪気もなく、お客に向かって、悪気しか感じさせない言葉を放った。
「ちょっと、店長呼んでもらえます?」
 為山が正面を向いた頃にはお客は息を荒げてかなり怒った様子で早口に言う。
 今度こそ自分が出て行った方がいいだろうかと警備員は辺りを見回しながらアワアワとレジに近づいた。
 為山は懐から小さな内線電話を取り出し、すぐさま電話をかけた。警備員は桐尾と違い、意外と対応が素早いなと感心しながら見ていると、次の瞬間為山の言葉に絶句した。
「あ、店長、なんか呼んでます」
 為山は何事も無さそうに実にシンプルに店長に用件を告げた。
「貴方、一体どこまで失礼なんですか!?」
 お客は顔を真っ赤にして怒り始めた。
「ちょっと、ミスターアンリくん呼んできて!」
 側で様子を見ていた社員らしき女性がレジのアルバイトに言うと、アルバイトは慌てて内線電話をかけ始めた。
「ミスターアンリくんって事業部どこですか?」
 アルバイトが内線電話を持ちながら社員に聞いた。
「先週から専用の内線持ってる。21番にかけて!」
 警備員はできることはないかと棒立ちしていると、並んでいるお客さまの邪魔だと社員の女性に鬱陶しそうに『シッシ』という手付きで追い払われてしまった。この大きな手芸屋では自分はノウハウの分からないお飾りの、邪魔な警備員という位置付けなのであろう。
店長ではなく、ミスターアンリくんが真顔のまま小走りでレジに向かって近づいて来た。
「貴方、店長じゃないわよね」
 お客は若そうなミスターアンリくんにあからさまに怪訝な顔をした。
「はい。未須田あんりと言います」
「ミスター、アンリくんって言うの?」
 お客は何故か興奮気味にそう言うと、ミスターアンリくんのイケメンでもない普通の顔をまじまじと見つめた。
ミスターアンリくんはというと、聞き間違えられた事を何とも思っていないのか、普通の顔をしている。
「この度は、うちの為山がお客様に大変横柄な態度をとってしまい、申し訳ございませんでした」
 ミスターアンリくんは真顔のまま、ちょっと申し訳なさそうな声を出してお客様に一礼した。テンプレートでもあるかのような文章に、警備員はミスターアンリくんは為山くんのクレーム対処を日に何度もやっているのではないかと感じた。
「そんな事もういいのよ。貴方って何だか不思議ね。そのお名前、とっても似合っているわ」
 お客は今度は別の意味で顔を赤らめ、ミスターアンリくんが打ち直し、お会計を済ませると、『また来るわ』と言ってミスターアンリくんの方をチラチラと三回も振り返ってエスカレーターを降りて行った。
 警備員は何だかどっと疲れ、生地売り場に移動してレジから少し距離を取ることにした。
オーガンジーの生地が置いてある隅に居れば少しはトラブルを目にする事も減るであろう。しかし、最終的な歯止め役のような職業である自分がこんな事でいいのだろうか。警備員は白いタイルの地面を見つめながらしょんぼりとしていた。
「大丈夫かい、お若い警備員。この店大変だろう」
 白髪混じりの気の良さそうな男が、警備員に話かけてきた。
「本当に……初日なので色々な事に驚いてます」
 男は、『そうだろう、そうだろう』と頷きながら壁に凭れかかり、はあー。と大きく溜息を吐いた。
「ちょっと田沼さん、サボってないでカット応援入ってくださいよ」
 五メートルほど離れたカット台から、桐尾の喉に何か詰まったような低い声が聞こえる。
田沼は了解というように桐尾に向かって片手を上げると、くるりと顔の向きを変え、また警備員に向かって話かけた。
「お客も店員も、変わった奴らばかりでさ。動物園みたいだろ」
 適切な比喩表現に警備員は噴き出していた。
 すると突然、誰かの野太い叫び声に警備員は驚いて顔を上げた。
「ああ!!ご、五千円!五千円も!!」
 為山が叫んでいた。過呼吸を起こしかけているのか、はぁはぁと荒い息をしながらドロアを引っ掻き回している。
「やっぱり僕の名前がいけないんだ!違算なんて『いさん』なんて名前だから……!あぁ〜!!」
「大丈夫ですか?」
 ミスターアンリくんは真顔で為山を慰めようと、ぎこちなく背中をさすっていた。
「いいから落ち着いて、為山。ここのレジの担当者一覧を今すぐ出して。私はマネージャーに報告するから。ミスターアンリくんはすぐにレジに戻って。アンリくんのファンでまたレジ混み始めてる」
 レジにはミスターアンリくんにお会計してもらおうと、嬉々とした様子の女性達が(一人男性もいた)小さな列を作っていた。
 社員の女性は内線電話かけ始ている。
 警備員の横で田沼が口を開いた。
「この世から遺産金という存在を無くす。そんな高い志を待って、為山はここに入社したらしいんだ」
 田沼はレジを眺めながら呑気に言った。
「助けなくっていいんですか?」
「担当外だ」
 田沼は意地悪く笑っている。
「ここのお店が何故こんなにも変人揃いなのか段々分かってきました」
 警備員の言葉に田沼は更にニヤッとした。
「桐尾さんや為山さんは仕事はできるけど接客は最悪。それをミスターアンリくんがカバーする。そういう人員配置なんですね?」
「ああ。為山は遺産金ゼロ。桐尾はカットロスゼロ。二人とも、接客は最低だが、ポリシーを持ってきっちり仕事しているからな」
 田沼は二人を賞賛しているが、自分は相変わらずカット応援に入るつもりはないらしい。
「仕事に戻らないんですか?」
 警備員はおずおずと田沼に聞いた。
「お。俺のこと軽蔑してる?俺は今本当なら休憩時間なの。この店忙しすぎてニ回目の休憩はいつも無いに等しいんだから」
「あ、すみません」 
警備員はこの会社はコンプライアンス的に大丈夫なんだろうかと考えた。
「ちなみに為山と桐尾、彼らは従兄弟同士なんだよ」
 警備員は見た目がそっくりな彼等を見て、なる程とこくりと頷いた。
「仲悪いんだけどね。カット台とレジでアルバイトを引っ張りあってるから」
「仕事の熱心さで通ずる物がありますね。血の力でしょうか」
「しっかしなあ、お客様に対しての態度までそっくりだから二人揃った日にはまあ大変だぞ」
 するとカット台から桐尾の吠える声が聞こえた。
「田沼さん!カット応援入って下さい!」
「俺今休憩なの!後五分待って」
 田沼は眼鏡を外してエプロンで拭きながら、いよいよ戻るしか無いかとブツクサ呟き、両手を引っ張って伸びをした。
「このビルもうすぐ終わっちゃうじゃないですか」
 警備員は気になっていた事を田沼に聞いた。
「うん。でもうちの手芸屋は近くの別のビルに移転が決まってるから」
「へー」
 警備員は閉店間際だというのにどこか呑気な雰囲気があると感じていた為、田沼の言葉になる程と納得した。
このカオスな空間の手芸店も何処か別の場所に引き継がれ、カオスなまま回って行くのだ。きっとその店も開店前から長い行列を作っているのであろう。
「ところでミスターアンリくんは仕事できるんですか?」
 田沼はレジでお客の相手をしているミスターアンリくんに目をやった。ミスターアンリくんはお客様の買った商品をノロノロと袋詰めしている。
「普通だ」
「普通ですか……」
警備員は呟いた。

甘食とミルクティ

 布団の中にいる自分が、いつものパジャマの小花柄を見ていない。目に入るのは昨夜ミシンをかけながらぼんやりと眺めた自分のスカートの紺色だ。
起きた瞬間やってしまったと美奈子は思った。
美奈子は布団を邪魔そうに勢いよく払い除けると、長い茶髪の髪を手首に付けっぱなしになっていたヘアゴムで束ねた。
 美奈子は布と毛糸を入れた衣装ケースで溢れかえった部屋を窮屈に動いた。せめて着替えなければと奥で服が引っかかり、上手く開いてくれない洋服箪笥と格闘した。一瞬で着れるもの。摘み上げた化繊のワンピースのボタンを面倒臭そうに締めながら、携帯電話だけ引っつかみ洗面台へと移動する。すっかり風呂に入りそびれた髪の匂いを誤魔化す為に、多めにワックスを取り、長い茶髪の髪を捻りながら結い上げる。
すると携帯電話に店からの着信が入った。胃が縮こまるような気持ちで着信を無視しながら美奈子は無心で顔にファンデーションを伸ばした。
「ひとまず落ち着いて、家を出てから駅に向かうまでに折り返す」
 美奈子はまだ鳴り響く着信音に言い訳するかの様に呟いた。
いつもの頒布のバックと、ダッシュできる黒いスニカーを突っ掛け、美奈子は駅までの道を全力疾走した。
『ドアが閉まります』という今の美奈子にとって世界一嫌な声がホームから聞こえる。美奈子は後四段ほど残った降り階段を一気に飛び降りた。
アナウンスが入って数秒の間に美奈子は何とかドアへと滑り込んだ。
美奈子は安堵しながらガラガラに空いている座席にだらしなく腰掛けた。
「駆け込み乗車は大変危険ですのでおやめください」
 車内に放送が流れたが、通勤ラッシュから随分時間が経過していた為、この車両には美奈子以外の人間は見当たらなかった。
 美奈子は息を整えながら、インスタでも見ようと携帯電話を取り出した。駅に行くまでの間に職場への折り返しの電話は済んでいたが、ホーム画面を見ると未だにまた電話がかかって来るのではないかと考えてしまい、胃の辺りがヒヤリとした。
 すると突然、美奈子の手に持った携帯電話が振動した。
美奈子は携帯電話のバイブ音に驚いて飛び上がった。
短い振動に電話ではない事に安堵したが、吉報とは言えなかった。
商品を登録しているハンドメイドサイトから、注文が入ったと知らせるメールであった。『貴方の商品が購入されました』と書かれたメールはいつもであれば買ってもらえた事と少しの収入が入る嬉しさが込み上げてくる特別なメールにも関わらず、ハンドメイドイベント前であれば話は別だった。
「あー、在庫今販売数に含んじゃったから引っ張り出さなくちゃ。なんで今に限って売れるのさ。こんな事ならショップ閉じておけば良かった」
 美奈子はブツブツと独り言を言いながらお買い上げありがとうございますのテンプレートメッセージを送る為にメモ欄を漁った。
美奈子はメッセージを送り終えると、念の為ショップを休止に設定し、携帯電話を帆布のトートバッグにゆっくりとしまった。
 ぼんやりと、今日はミスターアンリくんの行列を見れないなと考えていた。美奈子は行きつけの手芸屋までの定期券欲しさに今の仕事を選んでいた。手芸屋で働くことももちろん考えていたが、激務であることが目に見えて分かっていたし、ミスターアンリくんのファンだった為、近すぎる職場というのも面白くないと思った。
 そんな事を考えながら電車に揺られると、美奈子は徐々に眠気が襲ってきた。
自分がこの電車の中、眠っていても起きていても着く時間は変わらない。そう思うと途端に美奈子は眠気を堪えるのが馬鹿らしく思えた。
 頭を手すりの付いた壁側へ寄り掛からせ、美奈子はいくつもの駅名をぼんやり聞いていた。
ようやく勤務地のスーパーの最寄駅へと到着すると、美奈子は頒布のバッグの底から従業員証の黄色い紐を引っ張り出した。
美奈子は半分眠ったままの顔で入口の警備員に乱雑に従業員証を見せると、一人エレベーターへと乗り込んだ。
地下一階の食料品売り場は従業員に混雑を知らせる音楽が鳴り響いており、美奈子の胸に罪悪感がのしかかってきた。
更衣室で早業のように着替えを済ませると、タイムカードを押すために事務所に忍び寄る。
「お、おはようございます」
「おお、美奈ちゃん、おはよう。よく眠れた?」
 店長はにこやかに嫌味を言った。
「はい。本当に、申し訳ございませんでした」
「分かればいいよ。音楽聞いての通り混雑してるから、早くレジ入ってね」
 店長はキーボードをいじりながら美奈子に見もせずに言った。
「はい……」
 美奈子は罰が悪そうにそそくさと事務所を出ていった。ふと美奈子の耳に、サービスカウンターにいつもいる婦人達の声が聞こえてきた。
「今日美奈ちゃん二時間も遅刻したんよ?」
「ええ、二時間?」
 話している本人達は聞かせようと思っているに違いなかった。美奈子は申し訳ないと凹んはでいたが、陰湿なやり方が気に食わず、無視を決め込む事にした。
美奈子はしおらしくレジ交代をすると、いつものように只々商品をスキャンして会計という事を繰り返して行った。
 しばらくすると美奈子の頭の中は既に明日に迫った手作り市の事でいっぱいになっていた。
今日も帰って鬼のように毛糸を編まなければならないのだ。美奈子にとって、今はルームシューズをいかに沢山作るかという課題が最優先事項であった。
美奈子はその日の業務を何とか終えて(鬼のように混雑していた)帰路に着こうと電車に急いで飛び乗った。駅で買ったチチヤスのパッケージのフルーツジュースを飲みながら、電車の座席に座ると、行きと同じように眠気が襲い掛かってきた。
せめて零さないようにと、ジュースを飲み切った美奈子は自分に拍手を贈りたいと思った。
 美奈子が目覚めると握りしめていたジュースはいつの間にか手から離れ、正面座席の下に転がっていた。誰も座って居なかった事が不幸中の幸いだろうか。美奈子は缶を拾い上げて最寄駅の改札前のゴミ箱に入れた。

 いつの間にか眠ってしまったらしい。
頭の中で針山から飛び跳ねて抜け出たまち針が鋭利な先端を突き刺してピョンピョンと跳ね回っている。針山に差し直さなければと掴もうとすると手を刺された。
「あいた」
気に入っているどんぐりの飾りがついたまち針だったが、今の美奈子にはその事が余計に腹が立った。
「もう!」
 そう思って目を開けると、美奈子は自分が今何をしていて何処に向かっているのかと混乱した。自分が編んだ大量の作品を入れた紙袋を抱えているのを見て、ああ、今手作り市に向かっているんだとやっとの事で思い出す。
 美奈子はハッとして車内の電光掲示板を見つめると、後二駅ほどで目的地に着いてしまう。美奈子は両手いっぱいの紙袋を持ち直し、すぐに降りられるようにと姿勢を整えた。
 久々の屋外イベントはなかなかの賑わいだった。近くのテーブルに挨拶を済ませると、持参した折り畳みテーブルを組み立て、布を敷き、編み立てたルームシューズやコースターやバッグを次々と並べた。
いつも美奈子のショップがイベントに出ると見に来てくれる常連のお客との会話も弾み、美奈子のテーブルの上の作品は次から次へとはけて行った。紙袋から在庫を引っ張り出そうとモゾモゾしゃがんでいると、美奈子のショップの正面には小さな人だかりができていた。美奈子はここまでの盛況は初めての事で、緊張で足がガクガクし始めた。
 中でも一番注目を集めたのは赤いストラップ付きのルームシューズで、今の職場の従業員用の錆びた階段を登っている時に突然デザインが浮かび上がって来たものだ。
次々売れていく商品を手渡しながら、美奈子は間違えないよう慎重に会計をしていった。
 美奈子のショップは大盛況に終わり、売り上げた合計を簡単にメモを取り、後片付けを始めた。
 帰りの電車は興奮して眠ることができなかった。
素敵ですねだとか、可愛いですねと言ってもらえた言葉が次々と綿菓子のように頭に浮かんで来た。
美奈子は途端にやる気が漲り、眠い頭を絞りながら新作のルームシューズのアイディアを携帯のメモにまとめていると、いつの間にか電車は最寄駅に到着しており、美奈子はふらふらとホームに下り立っていた。
ゆっくりゆっくり帰路を歩いていると、行きよりもだいぶ荷物が軽くなっている事に今更ながら気がついく。
売り上げがかなり出た。これなら、インスタで眺めていた3万円のワンピースを買ってもいいかもしれない。しかし貯金もしなければと……美奈子は眠気でぼうっとしながら脈絡なく考えていた。
 美奈子は部屋に着くと今すぐベットに入りたいほど疲れ切っていたが、今になって、朝から何も食べていない事に気がついた。
食糧庫を漁るも目ぼしいものは何も入っていなかった。もう寝てしまおうかとまで考えていると、ヤマザキの甘食の袋が目に止まる。美奈子は甘食にはやっぱりミルクティーしかないだろうと電気ケトルに水を入れて湯を沸かし、ミルクパンに牛乳を入れてガスコンロの火を点ける。
「おばあちゃんはほうじ茶って言っていたけど、甘食はやっぱりミルクティーが合うと思う」
 美奈子は甘食を食べる時に毎度のように独り言を言っていた。
美奈子は甘食と甘いミルクティの甘すぎる食事を済ませると、歯を磨くこともなくそのまま布団に潜り込んでしまった。
美奈子はベットに横たわるこの瞬間が好きだった。
──ありがとう……。
大きなイベントが終わり、徹夜明けの身体を休めようと寝転がると、美奈子の頭の中に誰に宛てたものでも無く、自然とこの言葉が生まれる。
その言葉の響きの温かさに包み込まれる様に布団に包まると、美奈子はいつも、この瞬間の為に生きているのではないかと感じた。

地震があった日

 その日利夫は店長の指示通りに焼き鳥を焼いていた。灼熱地獄のような夏が過ぎ去り、冷たくなっていく風を感じると、お客の買い物は温かい物に集中していた。
利夫は焼き鳥を焼いている様子を見せる為のガラス窓を見つめて顔を顰めた。いくら涼しくなったからとはいえ、顔に熱い煙を浴びるこの作業が利夫は好きとは言えなかった。
 その時、小さい頃心臓が縮む思いでよく聞いていた警報音が店中の携帯電話から鳴り響いた。
『地震です。──地震です』
「利夫くん!焼き鳥から離れて!」
 相原の少し緊張したような声がレジから聞こえた。利夫はこういう時は慌てず騒がずだなと思った瞬間に、ビルがカタカタと縦揺れをし始めた。
──縦揺れだ。近い。
 その瞬間、柱が軋むような大きな揺れが一気に押し寄せた。
店の中で少し怯えたようなどよめきが広がった。ガタガタと激しい揺れは店の備品を次々と倒し、隣のテナントのペコちゃんがガシャンとひっくり返った音がした。
「棚から離れて頭を守ってください」
 スーパーの従業員の半ば叫んだような声がする。
ガタガタと動いていたエスカレーターは男性の従業員が急いで駆け寄り、停止ボタンが押されていた。
 揺れは徐々に小さくなっていった。
お客達は様子を見ながら、まだ揺れてると口々に呟きながらも、ちらほらと買い物の続きをし始めた。
「やっと収まりましたね。相原さん大丈夫でした?」
 利夫はしゃがんでいた身を起こしながら相原に話しかけた。
「結構大きかったね。五弱くらいはあったかな?」
「お子さん達大丈夫ですか?」
「二人とも学校だから、電車止まったら帰れないかもしれないね。旦那に車で迎えに行ってもらわないと」
 相原は携帯電話でメッセージを打ち始めた。
「利夫くん、お家へは帰れる?」
 店長が書類を持ったまま利夫と相原に駆け寄った。
「歩いて五分なので問題ないです」
 利夫は言うと、クンクンと鼻を動かした。何か焦げたような匂いがした。
「あ!焼き鳥焦げちゃいました」
「まあ、仕方ないよ」
 店長は眼鏡の奥の細い目を一瞬吊り上げたが、どうやら許してくれるらしかった。
 すると、いつもこの時間に買いに来る常連の老人が、杖をつきながらガラスケースの中の惣菜を眺めている。
相原はすぐさま携帯電話をしまって接客をした。
「地震大きかったからまた余震来るかもしれないよ。帰り、気をつけてね」
 相原が唐揚げとお浸しの入った袋を手渡すと、老人はゆっくりゆっくり受け取った。
「年取るとあんなもん何も怖かないね」
 老人は入れ歯を見せながら朗らかに笑っている。利夫は、僅かに心臓が縮こまってしまうほどは驚いてしまった自分を恥ずかしいと思った。

 地震があった日、ある店員は派手な違算金の調査に追われていてビルが恐ろしく揺れた事になんか気がついていなかった。

 地震があった日、ある店員はカットロスしないように全神経を集中して布を切っていた為、お客さんがカット台を掴んで揺らしているのかと怒鳴ろうとした。

 地震があった日、ある店員は店におらず、作りかけのセーターを握りしめたまま家の中でぐうぐう眠っていた。

 地震があった日、ミスターアンリくんは慌てないでとお客さんに声をかけながら、レジの影にとりあえず身を伏せた。

 地震があった日、日本で、この街で、大きなビルのスーパー満丸は、ガタガタと揺れたが、崩れる事はなく、数分後には何とか元の景色の中に溶け込んでいった。

かつてここに大きなスーパーがあった

 利夫は薄い色のタイルが好きだった。
いつも大きなこのお店に入る時、ひとつ飛ばしで踏んでいく。互い違いに敷かれたタイルの色は、お店まで案内してくれているかのようだ。
 引っ越してしまってから、家族で来ることはすっかりなくなってしまったが、今思えば、大学に受かってからそんなに学校に近くもないこの場所に部屋を借りる事にしたのは、小さい頃通った、このスーパーのどこまでも続くかのような幸せな空気をまた感じたかったからかもしれない。
 利夫が初めて満丸スーパーに訪れたのは、このスーパーがオープンして三十年は経った頃だったと思われる。確かに利夫が子供の頃スーパーの細部を見ると、既にあちこちが薄汚れていた。エスカレーターのベルトに寄り掛かって吹き抜けになっている下の食料品売り場を眺めていると、エスカレーターの手すりは汚いから寄りかかるなと父親に叱られたことがあった。
オープン初日はとても華やかで綺麗なものだったと昔から勤めている従業員は口々に言っていた。
利夫はもちろんその様子を見た事がないのだが、沢山の赤い風船が飛び交って、今では見かけないアドバルーンが浮いていたという話を聞き、バイトで入口前を通る度に何度も反芻していたので、まるで見たことがあるかのように思えた。

 紅い風船が沢山浮かんでいる。
風船を見たのなんていつぶりだろうと花は考えていた。もしかすると、死んでからは初めてかもしれない。
花はいつもは指輪を探すのに忙しいのだが、この日ばかりは他の子供達と同じようにはしゃぎたかった。
──綺麗。私の靴と同じ、紅い色。
風船の小さな粒が何十個と空に向かって登っていく。
『満丸スーパー所沢店、オープンです!』
 わあ!!と大きな歓声が上がった。人々は楽しそうに買い物かごを持って中へと入って行く。気が付けば、花も釣られて中へと足を踏み入れていた。
 上の階まで上ると、文房具やおもちゃなど可愛らしいものが沢山あり、花はそこにいる子供達と全く同じようにはしゃいで見て回った。
プラスチックのピンク色の筆箱にいい香りのするらしい消しゴム(花は幽霊なので匂いが分からなかった)立体的なリボンのシールに可愛い絵が描かれた塗り絵……。
 そして、それは見つかった。おもちゃコーナーに置かれたピカピカと輝く指輪セットだった。赤い指輪、青い指輪、黄色の指輪。別珍のようなふかふかのクッションに挟まれ、花が見つめている事に気がついているかのように白く、悪戯に光っている。花は唐突に、自分が何をしなければならないのかを思い出してしまった。

──私はお母さんの指輪を探しているんだった。

 見つからない。見つからない。
いろんな人がここへ来て、帰って行く。
私の指輪は見つからない。
この辺りで、確かに落としたのだ。
お出かけ用の赤い靴を履いていた日に。
お母さんの指輪を落としてしまった。
絶対に見つけなければ、お家に入れてもらえない。
花は必死に走っていた。お気に入りの靴を履いている事も、その靴がまだ緩く、履き慣れていない事も忘れて。
確かに落としたのだ。この辺りで。
前から黒い大きな車がやって来る。道路の中に小さな光るものを見つけ、指輪かどうか確かめようとしゃがんだ。
ドンっと大きな音がした。
気がついた時には花の身体は宙を舞っていた。
すっかり暗かったから……車の色なんてとても見えなかったのと、血を流している自分自身の身体を見つめながら、思う──……。

「今日ここ閉まっちゃうじゃない」
「あれやらないのかね、あれ」
 利夫がスーパー満丸の閉店セールの布団カバーを物色していると、店員達の話し声が聞こえて来た。
「銀行みたいに。シャッター閉まるまで頭下げるやつ」
「やらないんじゃない?百貨店ならまだしも、チェーンのスーパーだもの」
 店員の女性達はワハハと愉快そうに話している。利夫は今度は布団カバーとお揃いの青い枕カバーに手をつけていた。
──冷たいね。職場が無くなるっていうのに。
利夫は50%OFFになっているカラーボックスと布団カバーと枕カバーをカートの中に入れてレジへ向かった。利夫は家具売り場での買い物を済ませると、食料品売り場へと向かう。途中でミスターアンリくんの列を見納め(地下食料品まで続く歴史的長蛇の列だった)食料品売り場へと到着すると、中はかなり混み合っていた。
 納豆、ねぎ、ピーマン、人参、豆苗、パスタ、コーヒーと、利夫はいつも食べる食品をカートにどんどんと放り込んでいく。
やはり長い長い列になっているレジへと向かうと、休憩時間に何度か喋った事のある同い年の警備員が列の整備を請け負っていた。
「よお」
 利夫が話しかけると、警備員は驚いた様子で振り返った。
「おお、久しぶり」
「ミスターアンリくんのとこ行かなくていいの?」
「他店から多めに応援呼んでおいたから何とかなるみたい。俺は今朝からずっと食品レジだよ」
「最後にミスターアンリくんに会えなくて残念だな」
 利夫が言うと、警備員は肩をすくめた。
「いいよ、また移転したら覗きに行くし。それにどこに行っても行列ができるから、居場所がすぐに分かるしね」
「確かに」
 利夫は最もだと同意した。
「ミスターアンリくんくらいモテたいよなー」
「それな〜」
 ふたりは顔を見合わせるとなんとも言えない気持ちになり、笑ってしまった。
「今度ラインするよ」
「おう」
 利夫は喜んで返事をすると、やっと空いたセルフレジへとカートを進めた。
持ってきた真っ黄色のエコバックを銀色のフックにかけると、納豆を手に取り、スキャンし始める。一品一品慎重にスキャンしていたにも関わらず、重さを探知する機械が異常を告げた。
『係員が参ります。しばらくお待ちください』
 長い茶髪をお団子に結い上げた、利夫が少し気になっていた店員が幸運にもエラーを解除しに来てくれた。利夫はまさか会えるとは思っていなかったので、今日の自分は相当運がいいらしい。「ありがとうございます」と言おうとすると、彼女は忙しそうに次の呼び出し音の方へと走って行ってしまった。
 利夫はがっくりと肩を落とした。

 利夫の部屋の窓から、スーパー満丸の店の明かりがちょうど見える事に気がついたのは、この部屋を借りて、一週間経った頃だっただろうか。
利夫はこの日ばかりは最後まで見ておこうと、部屋の明かりを消し、窓からスーパー満丸の大きな看板が煌々と輝いているのをスマホをいじりながらぼーっと見つめていた。
夜空に輝くスーパー満丸の看板は、周りの民家の光よりもずっと大きく、明るく、まるでこの街の月のようにさえ見える。唐突に利夫の持っている携帯電話が二二時のアアームを奏でた。さっきまで灯っていた大きな明かりは静かに闇の中へと帰って行った。利夫はまるで蝋燭を消したようだと思った。
 利夫は閉店セールで買った真新しい布団カバーの匂いを吸い込みながら、明日の学校の一限の為に身体を布団に巻き付け、目を閉じる。すると情景反射のように、利夫の耳に閉店音楽の蛍の光がうっすらと流れ始めた。
 利夫は昔、スーパーの閉店音楽が苦手だった事を思い出した。子供の頃、スーパーが閉まってしまう時間にスーパーにいる事が珍しかった。
この世界ではどんな物にでも終わりがある。物悲しい音楽と共に大袈裟に、誰かが生きて、死んでいくように、そんな虚しくて当たり前の事を目の前で見せられているような気持ちになった。
 利夫は柔らかい布団の中で、店の真っ白な休憩室から見える街並みをぼんやりと思い返した。
──ここは人口も多いから、きっとまた何か店ができる。
利夫は自分自身と街の人たちを慰める様にそう考えている事に気がつくと、何をそんなに哀愁に浸っているんだとくすくすと笑いが込み上げて来た。
「おやすみ」
 利夫は今度こそ眠ろうと、誓の様に呟くと、窓の反対側へと寝返りを打った。

その後の話

「それでお前の職場は無くなったんだ」
 直也はさもドラマティックだと言うように揶揄いながら言った。閉店するまで店の看板の明かりが消えるのを見送った事を話したのは失敗だったかもしれないと利夫は感じた。
「しばらくは工事の音がうるさくて大変だったよ」
 利夫は誤魔化すようにそういうと、コーヒーを淹れるために電気ケトルのスイッチを入れた。
直也は利夫の部屋の窓に肘を付きながらベットの上に座り、色付き始めた紅葉の葉をぼんやりと眺めていた。
「いつも開店前に長蛇の列作ってた手芸屋の店員いるだろ?」
「ああ、お前がよく話してたから覚えてる。ミスターアンリくんだろ?すげーインパクトある」
「手芸店の面接の時とっても名言を言ったらしくて満丸のビル中で噂になっていたんだ」
 利夫はマグカップを持ち上げ、ブラックコーヒーを一口飲んだ。
「理想の世界じゃないけど、大丈夫そうだからここで生きていきますって」
「へえ。いい事言うじゃん」
「理想の会社なんてないのかもな」
「それな〜」
 只今就活に悩んでいる二人は揃って溜息を吐いた。
利夫はテーブルに直也の分のコーヒーを置くと、直也は明らかに不満そうな顔を見せた。
「コーラある?」
「もうないよ、昨日飲みきった」
「なんだよ。ないならないって言ってくれれば買って来ただろ」
 利夫は確か今日だとある事を思い出した。
「買いに行こうか」
 直也は意外そうに利夫の方へと振り向いた。
「今日、この近くに新しいスーパーができたんだ」
 利夫は何だか自分の声が嬉しそうにしていないかが気になり、できるだけ素気なく言った。
直也は何かを感じ取ったのか一瞬頬を緩めたように見えた。
「新しい職場の偵察ってわけかい?」
「どうだろうな」
利夫は直也が巻いてきたマフラーを放って寄越して話を誤魔化した。
 赤い紅葉が彩りを添える並木道を通り抜けると、いつものスーパー満丸へと続く作り物めいたレンガが目に飛び込んでくる。
利夫は直也に気づかれないように子供の頃のようにレンガの薄い色だけを踏んでスーパーへと続く道を歩いて行った。
 新しくできたスーパーは、スーパー満丸の建物は殆どそのままに、改装工事だけが施されていた。
赤い半被を着たアルバイトが、開店と大きなゴシック文字で書かれたチラシを配っている。店の周りには開店を待ち侘びていたこの近所の人々が大勢集まっていた。
反対側の入り口では赤いラインが入った猫のようなウサギのような不思議な動物の着ぐるみが、楽しそうに手を振っている。
「お、着ぐるみ来てる。写真でも撮ってもらってインスタに上げようぜ」
「却下」
利夫は即座に断った。大学の連中にダサいと笑われるのが目に見えているからだ。
利夫は下を向き、足元の薄い色のレンガを見つめていた。すると視界の端に、いつも見覚えのある紅い色の靴が見えた。利夫は浮足立った友人や、他のお客の空気にすっかり感化され、あまり怖いという気持ちが湧かなかった。
──君もまた、寂しくないね。
 静かにそう思うと、赤い靴を履いた女の子は嬉しそうに着ぐるみに向かって走って行った。
利夫はふと、あの子はスーパー満丸が開店したその日の事を見たことがあるのだろうかと考えた。
 誰もが浮き足立って、楽しそうに、新たなスーパーの門出を祝っていた。
利夫はバイト前、何十回とした妄想が再び頭の中で浮かび上がった。
何十個もの小さな紅い風船が、フラフラと舞いながら、ひとつひとつが小さな粒になるほど天高く、空を目指して飛び立っていく──……。
「利夫、こっちこっち!!」
 直也が着ぐるみとの写真を熱心に薦める声で、利夫は我に帰った。
「しょーがないな、もー!!」

終わり
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あとがき

10年ほど前、当時勤めていたニット工場の製品の販売員として百貨店を渡り歩いていた時の事ですが、その日販売した店の光る看板を歩きながら眺めていると、大きなお店が閉店してしまう話はどうかとぼんやりとネタが思い浮かびました。
その後そんなお話を形にする暇は無く、見事にそのニット工場から解雇され、某手芸屋に転職して激務に追われ、創作がしたいなと思った頃にはすっかりアラサーになっていました。
創作がしたい、そう思う傍らで働く人間は多いと思います。この文学フリマで出展している大多数の方がそうなのだろうなと。この本には私の労働の歴史のような物が積み重なって作られています。
 一生懸命働く事は時としてその人の枷となりますが、同時に大きな喜びとスキルになり、素敵なドラマを運んできてくれる物……かもしれないです。
そんな訳でこの世界ひとりひとりの労働に今日も感謝を。


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