#一歌談欒 vol.2 「理解できない人」とは

vol.1に引き続き、原井さん(@Ebisu_PaPa58 )の企画の参加原稿です。


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3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって/中澤系


 怖い。まるで喧嘩を売られているようだ。というのが、一読してまず感じたことだった。

 まず、電車が通過するとき白線の内側に下がる人は、接触して事故が起こる危険性が予想できる人だ。そういう人は、アナウンスがなくても自分で判断して下がることができるだろう。「下がって」と言われなければ下がらない人は、危険が「理解できない」から、わざわざ注意してあげなければいけないのだ。ただ、それは本当にその人のことを考えた行為なのか。駅員にしてみれば、事故が起こってしまったら業務に差し障りがあるから防ぎたいだけのではないか。つまり己の保身のためだ。誰もかれも、結局のところ自分のことしか考えてやしないんだよ。

 こんな風にひねくれた考え方をしてしまうのは、わたしの性格が曲がっているからと言われれば反論できないが、それだけではなく、この強い語調のせいもあるのではないかと思う。「理解できない人は下がって」という下の句の背後には冷たい視線を感じる。あなたはわたしに優しいけれど、どのくらいわたしのことを「理解」して、思いやってくれているのか、それを冷静に判断しようとしているような。通りいっぺんの同情やアドバイスに対して、一歩退いて対応しようとしている。それは誠実さ、本物の愛情を求めるからこそではないだろうか。人は、誰かに対して簡単に言葉をかける。たとえば「がんばってね」「大変だね」「わかるよ」。そのとき、どのくらいその人が「がんばって」いるか「大変」なのか「理解」しているだろうか? 少なくとも、より深く「理解」しようという努力をしているだろうか?

 中澤系は、他人を「理解」し自分を「理解」されたかった。もちろんそれは誰もが思うことだが、彼はそのとりわけ強く純度の高い欲求を、短歌を通して外へ表現しようとした。自分を、自分の短歌を「理解できない」人は読者にはならない。なりようもない。だから「下がって」くれていい。冷たいようだが、その陰には「理解できない」、しようとしない人がいることへの静かな怒りと悲しみがあるようにも感じられる。


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