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そのむかし人類に心はなかった…。『論語』の新解釈[P.4]

なぜこんなことを思うのかはわからないが、
「人類の心のアップデートが急務」という信号が繰り返し届く。

そのことを会社の女のコにぽろっとこぼしたら、
“チーフ、スピなひとですか?” とやや引き気味で言われた。
スピとは、スピリチュアルのことを指す。

その点については即、
“ ぼくは巷のスピはいただけないよ。 ” と返すと
“ じゃあ、何スピならいただけるんですか? ってか、なんかの宗教的な?”
と畳み掛けてくるので、

“ 何スピでもないし、無宗教だよ 。” ときっぱりこたえると
“へぇ〜、そうなんですね。” と軽く流された。

このコは、美大をやめてうちの会社に入ってきたコ。
相手が目上であろうと気負わずフランクに話し、引き際はいつもさっぱりしている。その後腐れがない感じがいいなと、近ごろの二十歳周辺の軽やかさに学ぶことも多い。

ちなみにうちの会社では、全員がチーフだ。
なぜそうしたかというと、ひとりひとりがリーダー意識を持つのに
ちょうど良い温度感の響きだと感じたから。
役職名にまとわりつくどこか偉そうなイメージもないし、
新入社員です、仕事できなくて当たり前です、という甘えた響きもない。

これが意外に功を奏している。
入社して間無しでも、初心者マークは外れてるからその意識で働ける。
率直な意見も、先輩後輩をそう意識しすぎずに活発にやりとりできる。

そして思わぬことも起こった。
みんなが自然に、ホワイトチーフとかレインボーチーフ、
超チーフちゃん、グルメチーフ…等等と、呼び方にバリエーションを
つけるようになったのだ。いつの間にか愛称のようにもなっている。

あえて上から仕切らなくても、自然と互いの間で認め合いが起こり、
その評価のしるしや能力の発揮の仕方、キャラなどが
呼び名に反映されているようだ。

・・・おっと、また余談に走ってしまった。

「人類の心のアップデートが急務」
うっかり公言すると、おかしな人だと思われかねないこのことを
ぼくは真摯に受け止め、考えてみることにした。
常識的ではないことを安易にスルーするより、探求する方が面白い。

単純に考えると、これから増々テクノロジーが進み、
その技術の力で人類は、従来なら想像の域を出なかったことを
容易に体感できるようになる。これはこれで必要なことだ。
だが一方で、この加速によって心が置いていかれ、
バランスを崩す人も増えるんじゃないか…との懸念がある。

そんなことを考えていた矢先、興味深い情報が入ってきた。
我が社きっての読書家であるブックスチーフくんが、
こんなことを教えてくれたのだ。

そのむかし人類に〈心〉はなかった…。


たとえば『論語』に、「四十而不惑」との著名なフレーズがあるが、
〈惑〉の字は当て字の可能性が高いという。

なぜなら、孔子の生きたのは今から約2500年ほど前。
この時代には〈心〉を用いた漢字はほとんどなく
〈惑〉の字も使われていなかったのだとか。
〈惑〉は本来、〈或〉だった可能性が高いと。

なのにどうして〈惑〉がついたか。

『論語』が編成されたのは、孔子の没後400年ほど後のこと。
この頃にはもう〈惑〉の字があった。
〈或〉と〈惑〉は、音韻が似ていたことから意味を取り違えて
使った可能性が高いとされている。

〈或〉は、右側に戈(ホコ)があり、これは線を引いて境界を
つけることを意味する。
このことから、左に土をつけると地域になり、口でかこむと国になる。
つまり〈或〉は、区切るという意味を持つ。

これを「四十にして惑わず」にあてはめると
「四十にして或らず」となる。

ということは孔子は、
「四十にもなれば、俺はこうだ、などと決めつけがちになるが、
 いやいやそうではない。決めつけずなんでもやってみんしゃい♪」

と、示したことになる。

そもそも『論語』には、孔子の時代には使われていなかった
漢字がわりと使われているという。
それはちょっと変…。とのことから、
孔子の生きた時代の漢字に置き換えて新たな解読がはじまった。

中でも『論語』で特に使われていないのが〈心〉が入っている漢字。

それもそのはず。
〈心〉という漢字が出来たのは、孔子が生きた時代から500年ほど前のこと。
この時代ではまだ、〈心〉は馴染みの薄い文字だったのだ。

さらに古代中国文字を3300年前まで遡ると、〈心〉というものを示す
文字さえないという。
場を変えて楔形文字でも、3000年ほど前は〈心〉を表す文字がなかった。

このことから、心理学者のジュリアン・ジェインズは、
それ以前の人類には心がなかった、とまで言っている。
(あっても認識されていなかったのではないか‥と。)

しかし近代になるにつれ、ある時から爆発的に〈心〉を使う漢字が増えていった。

先ほど、〈心〉の字の誕生が、孔子の生きた500年ほど前だと書いたが、
心が誕生するまでは、運命は決まっていてそれに従うよりない、とされていた。
ところが心が誕生して、運命は心の使い方次第で変えられるという時代になった。

しかし孔子が生きたその時代にはまだ、〈心〉はどう扱ってよいのもかわからない
非常にふわふわとした概念だった。

それゆえ孔子は、どうも心をうまく使えていないんじゃないか、
との考えから心の指南書として論語を語ったのではないか…
との見方ができると。。。

__ふむふむ。。。
  ブックスチーフくんのお陰で、ナゾの信号の解読も進みそうだ。


心によって運命は変えられる一方で、
その心の副作用として精神疾患も増加傾向の現代。

『論語』が誕生してから2000年近く経った今でも、
ぼくを含め多くの人が、心の可能性をうまく使えてるとは言えないだろう。

テクノロジーによる体感が加速し、極めて飛躍的な進歩を遂げる一方で、
取り扱い方を誤った心の余波が、社会の深層に渦巻いているように思う。
だがこれは、決してネガティブな現象ではなく、それだからこそ
心の可能性が新たに開示される時代になったのだと見ている。

ぼくは森海に落ちて、蓋をしていた感情と向き合うことになった。
あの体験は、心の使い方の何かのヒントになるのかもしれない。

使い方といっても、心をコントロールするとか、方向づけるといった
ことではなく、巷に飽和する啓発的な手法ではない、
〈知らない…〉が自ずとひらく方法。そこを、体験から書き留めておきたい。

が、ぼくの心は今、なんでもないことに引っ掛かっている…。
社内スタッフのほとんどについてる○○チーフ。
ぼくにはまだ、何もついていない。
ここにスピチーフ、なんてつけられたらなんかイヤだなw
もう社内で妙なこと口に出すのはやめておこ♪

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 『未来からの手紙 § エチカ 』~ 第二章 「覚え書き」P.4
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*参考図書:「身体感覚で『論語』を読みなおす。」安田登

本日も💛 最後までお読みいただきありがとうございます☺︎