大学生活が就職活動。

「大学生活そのものが就職活動」

大学のキャリア教育の講師の方の言葉だが、私の中でとてもしっくりくる言葉だった。

いわゆる「就職活動」とは、自己分析してES書いて面接受けてES書いて面接受けて…の繰り返しだという認識があると思う。
(私は就職活動をしたこともなければ周りに就活生もいないので、映画「何者」(2016年公開)の就活生のイメージが一般的なイメージだと思っています。)
しかし前述した講師の言葉の真意は、「大学で過ごしていることそのものが就職活動だと言える」ということだ。(文字通りの説明でしかない。)

この言葉が私にしっくりきたのは、私はなんとなく就職を目的と認識していなかったからだと思う。(就きたい仕事が決まっていないので当然かもしれないが。)
映画「何者」の登場人物たちにとっては、「就職=目的」だった。就職が決まることで自分が何者であるかが確定すると信じて就活をする、そんな内容だった。

私は文系の中でも人文系の大学生であり、特定の職に就職するためにこの進路を選んだわけではない。なんなら就きたい分野すら決まっていない。
もちろん、他の学生の中には就職することを目的として入学する人もいると思う。特に医学系、教育系などはそうだと思う。自分が望む就職先に就職するためのスキルを身に着けることを目的に入学しているのだと思う。
(決してそれが悪いことだと主張したいわけではない。むしろ将来の不確定要素多すぎて喘いでいる人間にとっては、少しでも確定しているものがあるのは羨ましい。)

私が大学で学ぶ目的は、格好つけて言うなら「生きる上での指針を見つける」ことだ。

私にとって就職はあくまで大学で得たことの一時的な答え合わせにすぎず、目的ではない。
大学で学ぶ目的を就職にすることは、私にとって本質的ではないからだ。
本質的ではないというのは、その目標の達成が私が精神的に満足して生きていくことを確実にはしてくれないということだ。

私が「生きる上での指針を見つけたい」というのは、それが私が生きる時に必要だからだ。
生きるということは、社会で生きるということだ。
社会で生きるということは、社会に必要とされることだ。
そして私は「社会に必要とされる人間=就職できる人間」ではないと思う。
就職できるということ、その人が社会に求められるに値する人間かということは別問題だと思う。
なぜなら「就職できない人間=社会に必要とされない人間」は成り立たないので、その対偶としての命題も成り立たないからである。(言いたいだけです)

就職は大学で生きていく指針を見つける途中の暫定的な答え合わせだと言ったが、つまり就職活動はその答えを導く要素を集める期間である。それはESを書いたり面接練習をしても得ることはできない。
よって就職活動は大学生活なのである。

こういうことを言えるのも切羽詰まっていない今だけかもしれないし、就活もしたことがない子供が言うので説得力がないのは承知しているが、現段階青二才学生が思うのはこんなんである。

正直、まだ十分に考えがまとまっているわけでもないし抽象的だし、今私が書いている文章とか論理に満足できているわけではないけど、これが今の私の考えられる全てです、という感じです。

何かアドバイスくださる方がいらっしゃいましたら、お気軽にご教授ください。私が喜びます。

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