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『走ることについて語るときに僕の語ること』村上春樹 著

第1章 誰にミック・ジャガーを笑うことができるだろう?

村上春樹さんは過去を思い出し微笑んだり、少し難しい顔をしたりしながら、このありきたりな出来事の堆積が今なんだと語り「自分は浜に打ち上げられた流木に過ぎない気がする」と語っている。
後半では「若い時に愚かだったろう僕にはミック・ジャガーを笑えない」としている。

僕からすると雲の上の存在のようにも感じる村上春樹さんがありきたりな日々を積み重ねた末に転がる流木だと感じるというのは意外な気がしたし、若いころはとしているが愚かな僕と大して変わらないんじゃないか?という気さえした。ここに書いてあることが本当だとするのなら、ありきたりな日々を積み重ね、愚かな日々の先に行くことしか出来ないし、その先に村上春樹さんはいる。

村上春樹さんは最後に走ることと人生についてのあれこれをクロスオーバーし、それは素敵なことなんだと締めくくっているのだと僕は感じた。

その最後の文は次のような締めくくりになっている。

川のことを考えようと思う。雲のことを考えようと思う。しかし本質のところでは、なんにも考えていない。僕はホームメードのこぢんまりとした空白の中を、懐かしい沈黙の中をただ走り続けている。それはなかなか素敵なことなのだ。誰がなんと言おうと。

『走ることについて語るときに僕の語ること』村上春樹 文春文庫


第2章 人はどのようにして走る小説家になるのか

初めての小説『羊をめぐる冒険』で自分なりのスタイルを見つけて小説家でやっていける見通しを得た、その工程はノミで岩盤をコツコツと割っていくような作業だったと語っている。

僕は不器用で何をするにもそれなりの努力が必要な人間なので、この章を読んで村上春樹さんでそうなら自分も岩盤にノミで向かうしかないと思えた。結果、村上春樹さんは水脈を掘り当てたと語っているし、続けていくうちに効率よくできるようになると語っている。これは心強いし、納得もできる。

努力をする必要なんてない。そういう人がたまにいる。しかし残念ながら僕はそういうタイプではない。自慢するわけではないが、まわりをどれだけ見わたしても、泉なんて見あたらない。鑿を手にこつこつと岩盤を割り、穴を深くうがっていかないと、創作の水源にたどり着くことができない。小説を書くためには、体力を酷使し、時間と手間をかけなくてはならない。作品を書こうとするたびに、いちいち新たに深い穴をあけていかなくてはならない。しかし、そのような生活を長い歳月にわたって続けているうちに、新たな水脈を掘り当て、固い岩盤に穴をあけていくことが、技術的にも体力的にもけっこう効率よくできるようになっていく。

『走ることについて語るときに僕の語ること』村上春樹 文春文庫


第3章 真夏のアテネで最初の42キロを走る

トレーニングすることで身体か変化していくのを感じとれるのは確かにいいことだ。僕も自宅で筋トレをしているので、とてもよくわかるし、継続するためのモチベーションにもなっている。その続きの若いときより変化に時間がかかるようになったというのは悲しいが本当なんだと思う。僕は若いときには何も運動していないし、筋トレもしていなかったので違いを感じることはできていないが、真実だと思う。だとしても村上春樹さんがいうように、それは仕方ないこととして手に入るものだけでやっていくしかない。それが自分なりの価値になるんだと感じた。

自分の身体がこうして変化していくのを感じとれるのは、いいことだ。ただし若いときよりは変化に時間がかかるようになった。一ヶ月でできたことが、三ヶ月かかるようになる。運動量と達成されたものごととの効率も、目に見えて悪くなってくる。しかしそれは仕方ない、あきらめて、手に入るものだけでやっていくしかない。それが人生の原則だし、それに効率の善し悪しだけが我々の生き方の価値を決する基準ではないのだ。

『走ることについて語るときに僕の語ること』村上春樹 文春文庫


第4章 僕は小説を書く方法の多くを、道路を毎日走ることから学んできた

努力して続けていることというのは確かにやめる理由を探せばいくらでも出てくる。しかし、村上春樹さんは、その「ほんの少しの続ける理由」を大切に磨き続けようと語っている。目標を持ち自分を最大限に有用に活用して、才能や気に入らないところも引き受けて乗り切っていく。

確かに無いものに執着してできないと思ってしまって、できていないことはないだろうか?と自分に問いかけてみたくなる。何かあるような気がしてくる。自分にあるものを使い、無いなら今興味があるものも在るものとカウントして使っていくくらいの意気込みで行こうと勇気をもらった。在るものにありがたいと感謝しながら。

顔や才能と同じで、気に入らないところがあっても、ほかに持ち合わせはないから、それで乗り切っていくしかない。年齢を重ねると、そういう按配が自然にできるようになってくる。冷蔵庫を開けて、そこに残っているものだけを使って、適当な(そして幾分は気の利いた)料理がすらすらと作れるようになる。リンゴとタマネギとチーズと梅干ししかなくても、文句は言わない。あるだけのもので我慢する。何かがあるだけでもありがたいのだと思う。そんな風に思えるのは、年を取ることの数少ないメリットのひとつだ。

『走ることについて語るときに僕の語ること』村上春樹 文春文庫


第5章 もしそのころの僕が、長いポニーテールを持っていたとしても

村上春樹さんも年齢を重ね次の世代へと受け継がれていく、いろんなものを達観してみている。僕もそうなれるだろうか?ただ、下の引用の文章をみると自分自身が次の世代に受け継ぐ何かを持っていなくても何かが受け継がれていくように思える。

もちろん僕は受け継いでもらうものは何も持っていないが、村上春樹さんも何も持っていないかのように書いてある。それでいいし受け継がれるべきと本人が思うものでは無いのかもしれないと感じた。
何も考える必要はなくただ毎日をしっかりやっていく。そのうえで受け継がれるものが受け継がれればそれでいいんだなと、素朴に実感した。

僕の人生にもそのような輝かしい日々が、かつては存在しただろうか?そうだな、ちょっとくらいはあったかもしれない。しかし、もし仮にそのころの僕が長いポニーテールを持っていたとしても、それは彼女たちのポニーテールほど誇らしげには揺れていなかっただろうという気がする。そして僕の当時の脚は、今の彼女たちの脚ほど力強く地面を蹴ってはいなかったはずだ。中略
でも彼女たちの走る姿を眺めているのは、それなりに素敵だ。このようにして世界は確実に受け継がれていくのだなと、素朴に実感する。

『走ることについて語るときに僕の語ること』村上春樹 文春文庫


第6章 もう誰もテーブルを叩かず、誰もコップを投げなかった

サロマ湖100キロウルトラマラソンについて書かれている章。
心の動きや身体の状態。最終盤でのランナーズハイについて書いてある。


第7章 ニューヨークの秋

BAA(Boston Athletic Assosiation)のハーフマラソンのこと。
その後の膝の痛みや違和感について書いてある。


第8章 死ぬまで18歳

下記の引用でも、順風満帆に思える村上春樹さんでもリアリティーってものは甘くないことの方が圧倒的に多いと語っている。良い想像をし、対策も作戦もないまま人生を進んできた僕とは大きな違いを感じた。ものごとは都合よく運ばないことを念頭にプランをたて、予想できる先の課題に少しづつ手をつけ対応策を考える必要がある。

パッと出てくる僕の将来の課題としては、年が上がれば上がるほどいつ解雇されてもおかしくないってこと、いつ会社がなくなってもおかしいことではないってこと。終身雇用なんてないから、いつか必ずくる課題だろう。

今は、こうやって文章を残すことで何か見つかれば良いなと思うのと同時に、実際メモを取りながら本を読んだのはコレが初めてでいつも以上に自分に残るし勉強にもなるなと感じているので、続けていこうと思っている。

現実の人生にあっては、ものごとはそう都合よくは運ばない。我々が人生のあるポイントで、必要に迫られて明快な結論のようなものを求めるとき、我々の家のドアをとんとんとノックするのはおおかたの場合、悪い知らせを手にした配達人である。「いつも」とまでは言わないけれど、経験的に言って、それが薄暗い報告である場合の方が、そうでない場合よりもはるかに多い。配達人は帽子をちょっと手をやり、なんだか申しわけなさそうな顔をしているが、彼が手渡してくれる報告の内容が、それで少し改善されることはない。しかしそれは配達人のせいではないのだ。配達人を責めるわけにはいかない。彼の襟首をつかんで揺さぶるわけにはいかない。気の毒な配達人は、ただ上から与えられた仕事を律義にこなしているだけなのだ。彼にその仕事を与えているのは、そう、おなじみのリアリティーである。

『走ることについて語るときに僕の語ること』村上春樹 文春文庫


第9章 少なくとも最後まで歩かなかった

最終章は全て良過ぎて引用だけで埋め尽くしたいくらい素晴らしい章だった。
絞りきれないので引用は最後の締めくくりだけにして、気になる方は最終章だけでも実際に読んでみてください。

最終章はランニングと人生をクロスオーバーし一歩一歩のスライドに意識を集中し自分なりの納得を掴みながら走る。それが不細工だろうがみっともなかろうが、それは大した問題ではない。尽くすべきを尽くし、耐えるべきを耐え、ただただ走っていく最後まで歩かない。

僕もそうありたいと思うし、忘れないようにしていきたいと思う。ついつい怠けてダラダラしてしまったり、仕方がないとやらなかったりするが、これを読んだら歩くほど遅くても、はたから見たらみっともなくても歩かないようにしたいと思った。
得心のいくように思える場所に近づくために。

もし僕の墓碑銘なんてものがあるとして、その文句を自分で選ぶことができるのなら、このように刻んでもらいたいと思う。

村上春樹
作家(そしてランナー)
1949ー20**
少なくとも最後まで歩かなかった

今のところ、それが僕の望んでいることだ。

『走ることについて語るときに僕の語ること』村上春樹 文春文庫

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