残滓

残滓
 思春期の残滓。あの幻聴と妄想、その他雑多な症状に横溢した恥と痛痒の日々。僕は15歳で統合失調症を発症した。病気のせいかどうかは分からないが複数の慙愧に堪えない事もしてきた。思春期と統合失調症は混合物となって僕の精神を好みの色に染めようとした。いつの間にか自分の個性を統合失調症のそれにしようとしていた。それ以外に僕が自分をアピールする方法はないように思われた。多くの人々から白眼視されていただろう。今では幻聴や被害妄想は一般的なレベルまで下がったのだが、思春期当時は頑是ない僕の脳髄ではどうして良いか分かりかねていた。自分の人生はどこに向かっているのだろう。非常に模糊とした現状を、疾患を抱えたまま生きる事。病気というのはどんな人々にも襲い来るものだ。僕の統合失調症以上の苦痛を伴う病気だってあるだろう。僕はいい加減甘えを捨てなければいけない。そして元気で明るく前向きに生きるしかない。ナルシシスト的な意味ではないが自分を愛する事も覚えなければいけない。自分を愛する事が出来ない人々は他人を愛する事が出来ないとは既に人口に膾炙した格言である。それは実際にその通りだ。

 僕はもう自分の身長に拘泥しなくなった。間違いなくチビではないし、変な自尊心をそこに集約させないようにしている。高かろうが低かろうが、僕は人として十分に尊重される。男として尊重されるかどうかは甚だ疑問ではあるが、それでも最低限人として扱ってくれている現実は非常に幸甚な事である。もう僕を嘲笑する人はいない、悪罵もない。僕はそもそも有名人ではないのだから外出する都度、毎回、悪口雑言や罵詈讒謗が聴こえるなんて事はないだろう。超自然よ、僕の魂は成長しただろうか。僕はとにかく不器用でも遮二無二生きている。超自然よ、この最大限の僕の実力に照覧あれ。まだまだ僕は強くなれる。

 僕はもう情報発信者としてのプロダクティブな生命を失ってしまった。懸命に頑張ってきた人間が燃え尽き症候群のようになってしまうのは古今にはしきりに見られるものである。また僕は最近朝散歩を始めた事は既に伝えたと思う。今日は9時頃に起きて朝散歩をしてきた。散歩後の睡眠は良くないので僕はまだベッドに仰臥していない。昨日までは早朝に起きて朝散歩に行ってきたが、それだと早起きしすぎて運動後に睡眠を取ってしまう。しかし樺沢先生によればそれはやってはいけない、行動の最たる例らしい。僕は精神的な健康についてはまだまだ寡聞であるから今後もっと勉強していかないといけない。

また最近はブログの記事内容はワードに書き、それをコピーしてアメブロやnoteに載せるというやり方が一般化している。こうすれば一旦自分の描いたものを客観的に鳥瞰出来るので自分にあっている。

 僕はもっと変わらないといけない。自分にとって心地よい生き方、力を抜いて生きていく事が25歳の焦眉の課題である。こうやって言っているだけでは駄目だ。自分を変えるにはまず行動から変えてゆくのが手っ取り早い。僕はありのままの自分を変革してゆく、誰に対しても居丈高にはならず、静謐に、鷹揚に、理想の自分は多くの人々の心の中にあると思う。僕は極端な強さなんていらない。僕は笑いを、諧謔精神を大切にしていきたい。僕は最近微々たるものだがお笑いの勉強もしている。僕は人々を楽しませたい、笑顔にさせたい。今の僕は対人恐怖があって、びくびくとしているが、勇気を出して行動してみるとその対人恐怖というものがきっと大した仇敵ではないと気づく事だろう。

 僕は平素から他人を軽蔑したりする思考は消そうと努めている。ネット上でもリアルでも、僕は多くの人々に聞くに堪えない悪辣な言辞で罵倒してきた。しかしもうそんなことはナンセンスだと思う。自分が大した存在でもないのに厚顔無恥に意見するなんておこがましい。重要なのは自分には華やかなものも、卓越した才能も何もないと思い込む事だ。何もなければ今あるものの素晴らしさに気づける。それは人生の醍醐味だろう。

 僕は15歳の時に何を考えていただろう。今のように相対的に爛熟した精神はなかったあの時代。寮生活において嫌な奴らとばかり一緒になった事。あの時代僕が抱いていた空理空論は如何にも年相応なものだっただろう。僕は当時ユーモアのあるクラスメイトに羨望の視線を送っていた。しかし同時に僕はそのクラスメイトの彼を高嶺の花のように感じていたのかもしれない。別にそれは彼が眉目秀麗だとか品行方正だからとかではない。そもそも彼を高嶺の花という修辞をあてがうのもおかしな話かもしれない。それでも僕は彼を尊敬していた。今だからこそ白状するが。凋落の限りを尽くしていた当時の僕にとって彼のような存在は本当に大事なものだった。しかし僕はその彼がいた高専と言う学校を退学した。学ぶ工学の内容が合わないと思い、これ以上その学校にはいられないと思ったからだ。周囲からは勿体ないと言われたり、辞めるなとクラスメイトから激昂されたりした。

 思春期の驕慢の残滓、僕はそれをずっと大事にしてきた。その残滓は僕に陶酔感や恍惚感をもたらし、キャラメイキングの源泉となった。しかし本来の自分は控えめで、自尊心の高い人間でもないし、傲岸不遜な人間でもない。しかし僕は得意の道化で他人に驕慢で、自尊心の高い人間と印象付ける事が出来るようになっていた。

 僕は文学を通して人を魅了するような絢爛豪華な技術を文豪たちから学ぼうと、殊に古典を読んだ。畢竟僕の思春期初期の読書は古典をひもときそこから学ぶ事に専心していた。

 僕の眷属は、僕と同じ苗字を持つ者は僕を除いて皆低身長である。その事に僕は優越感を感じている。僕はもしかしたらでかくて存在感があるから色んな幻聴や妄想があるのかも知れないと思っていた時さえあるほど、僕は子供時代より遥かに身長が伸びた。大学の入学式の時に着ていたスーツも4年後の卒業式の時には7分丈7分袖になっていたほど僕は20歳を超えてよく身長が伸びた。具体的には何センチからは健康診断で確認出来るだろう。

 僕は普段から体力をつけようと努力している。座るのが困難に思える時も少なくはないが今は全然それは大丈夫である。しかし僕はよく頑張っているよ、ここまで生きられた事がもう拍手喝采ものだ。色んな思想の右往左往はあったものの、生きているという初志貫徹の事柄を積み重ねてきた事は誇りに思う。高校も大学もきちんと留年や休学をすることなく卒業出来たしさ。

 もう僕は自分のでかい体が脳裡にインプットされている。見慣れた僕の姿、顔面を僕は携えている。そりゃ鏡やガラスによってでかく見えない時もあるがそんなの誰にだってある事だ。

 自尊心が高い事は理想が高く現実で生きづらさを抱える事だと過去、医者が言っていた。僕は自尊心が高いのだろうか、医者は事実無根にそう言っていた。狭窄した考えに縛られているからこそ精神医学は長足の進歩をしないのではないだろうか。というかそもそも周章狼狽し、必死の思いで臨時に精神病院に訪れた青年に普通そんな的外れで、にべもない事を言うか?ふざけるなよ。おっと、僕は過去を思い出して嫌な思いにならない事を誓っていながらも気づいたらまたそのルールを破っている。やはり僕にはもっと力強い統御、抑制が必要なのかもしれない。幻想と現実が渾然に入り乱れるこの僕の世界。僕はどれだけ恣意的に生きてきたか。まあでもそれでオッケーだ。今のままの僕で愛される。男としての魅力だって人としての魅力だって沢山ある。きっと僕は長身美人と付き合える。自分を信じろ、僕。今の僕には嫌な事なんて、悪口なんて、奸計なんて、邪知なんて馬耳東風である。僕は独立不羈に、強く生きるんだ、さらに、さらにと。対人恐怖も、社会恐怖も克服出来るよ、と言うか僕はこの文章を書いている間でも自己と対話しそれらを克服しかけている。ちょっとの心がけで視点は変わり、化膿したように思えていた毎日が楽しいものになる。

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