統合失調症当事者とシュルレアリスト

統合失調症当事者とシュルレアリスト
 シュルレアリスムというと20世紀以降に一時期流行した芸術上の運動であり、根幹にはフロイトの精神分析やマルクス思想が据え置かれている。シュルレアリスムは日本語で超現実主義というものでこれは普段抑圧している無意識上の産物や理性に関わらない自動筆記によって創造される。その創始者がアンドレブルトンという名の男である。僕は子細な全体像は置いておいて超現実主義的なものと言えば統合失調症の陽性症状を連想する。統合失調症当事者はもしかしたらシュルレアリストではないのかと僕は思うのである。統合失調症の幻聴は患者が思っている嫌な事、或いは稀には良い事が縦横無尽に患者の脳裡を疾駆する。統合失調症によって知情意の統合が失調すればどのような知悉の先達でも意気阻喪してしまう事は不可避であるだろう。そして重要なのは統合失調症というのはどんな人でも罹患してしまう可能性が常駐しているという事だ。これは人類にとっての懸念の一つであるだろう。まあとにかくシュルレアリスムである。仄聞するところによれば詩人のアルチュールランボーもシュルレアリスムと呼ばれているらしい。彼は現実に存在しないものを清冽で抒情的な詩的言辞を用い象徴的に表現した19世紀フランス詩壇のみならず、歴史上の大天才である。ランボーがシュルレアリスムではないかという疑義は別に僕が勝手に論断している訳ではなくアンドレブルトンがそういった、らしい。僕のブログは嘘八百や詭弁を饒舌に語る事も多いがこれも果たしてそうなのだろうか。今思えば僕は21世紀日本の統合失調症に対する偏見や先入観を払拭する事が全く出来ていない。それどころか僕は統合失調症の評判や病的さを不当に表現して憚っていないのではないだろうか。この僕の情報発信の中にこそ人間の持つ悲劇性が凝縮されているのではないかと思う。

 統失が寛解してからも憂悶の時間はある。どんなに欣喜雀躍したような日でも平気で失意のどん底に陥ったりするのである。まことに統合失調症という存在は畏怖すべきものであると思う。また、シュルレアリスムの話に戻るがこれは画業でも文学上でも行われた事であり、現在でもこの余波を受けた芸術作品が跳梁跋扈している例も世界にスケールを拡大すればそう珍奇なものではないのではないか。狂気というのは時折アートにおいて功を奏する事が多い。創作者の精神状態が必ずしも安定している必要はない、その結果、大傑作などを残す事が出来れば、だが。太宰治は人間失格を書き終えて入水自殺をしたというが彼は作品と著者が極めて深刻に癒着した実例であるのではないかと僕は思う。

 人は独立不羈に生きようとしても無意識下では憤懣や反感、呪詛、慙愧などが渦巻いている場合も多い。表現者はそのような無意識上の産物を嫌忌と言うか、否認する場合も相当数例が枚挙されているらしい。しかし統合失調症というのは自分の知覚している、或いは思索している事と現実の境界が非常に脆弱になっている場合が多く、そういった患者は支離滅裂な怪文書を書いたり、不可解な一挙一動、奇行などに至る例もあると聞いている。

 いわゆる僕のプログレッシブツイストも随所にシュルレアリスム的な要素が存在している。新たな分野と言うのは何かを刷新するのと同時に何かを継承したりするものだ。僕もそのご多分に漏れず、過去の産物からの影響を受けて、刷新、継承している。フロイトの理論やマルクス思想についてもここまで芸術的な側面において爆発する事があるとは、感動的である。現代数学上の金字塔であるガロア理論も現代科学のほぼ全てに応用されているらしい。豊かな応用性を秘めたものはたとえ単一であれ、甚だしい影響力を誇るものだ。

 僕は昔画家に憧れていた。僕は絵を描くのが好きな少年であった。しかし統合失調症になってからは絵画への情熱が萎びてしまい、今でも絵画創作に関心が持てずにいる。それでも無理矢理画業に没頭したりしていた事もあるのだが自分としてはその他の分野における僕の功績には著しく見劣りするものであると思う。その代り、僕は15歳の時から文学や音楽に没頭していた。音楽は特に洋楽を好んだ。今ではゲームのBGMだとか懐かしい、昔聴いていた邦楽も聞くようになったが15歳以後からしばらくの間は妙な拘りが発生して過去の自分を徹頭徹尾無視するかのように自分の小径を突き進んでいった。文学は文豪の作品などを読んだ。特に高校の羅生門で僕は近代文学の虜となった。学校の勉強には全く興味を示さなくなり、中学時代は眉目秀麗、優等生だったのだが学校内でも劣等生に位置づけられるようになった。排水の陣に陥っても僕は勉強に取り組もうとは思わなかった。そしてそんな僕を僕は嫌った、懲罰を与えるかの如く、悲運に対し甘受の姿勢を維持するしかなかった。それでも入学した高専という学校は退学した。色んな力学的なバランスがその決断に至らしめたのだと思う。

 圧倒的な実力、他の追随を許さない実力で観衆をどよめかせる事、それは芸術家にとってこの上ない栄光である。その積み重ねで芸術家は名声を得たり、富を得たりするのだろう。しかし時代にそぐわない、早すぎた作品の場合は人々から正当な評価が受けられずにいるケースも現代では珍しいものではないと思う。死後における名声は一見甘美な代物であるように思えるが、死んでしまえば喜ぶ自分も失うのだから一概に良いものであるとは言えない。

 勧善懲悪の作品は今の時代、どの世界にも存在している、綿密な重厚さを持つ文学史においてもやはり昔の流行として勧善懲悪が持て囃されたりするのも確かにあったし、それは現代においても重要なテーマの一つである。しかし勧善懲悪で皮肉なのが勝てば官軍と言うか、戦勝国によって敗戦国は苦汁を味合わされ、劣勢になってしまうという事である。

 僕はしんどくなっている中何とか書かないといけない事があるというある種の責任感を感じて今この文章を書いている。統合失調症はシュルレアリストだ。少なくとも僕はそうだ。しかし僕にはシュルレアリスト以外の顔も該当する。人間には複雑怪奇な内面がある事は古今東西言われてきた。

 今の僕はやはり依然として前向きである。前向きでない僕も僕は受け入れているが。よく笑い、よく生きる事。僕は認知行動療法や森田療法などを踏襲した上で色んな事をしている。変に自分の欠点をあげるとそれは際限もない。そうしている内に人間性も自分を卑下するようなものになり魅力も失ってしまう。確かに何かを考えて、戦慄したり不安になったりする事はあるだろうがいつまでもネガティブを気にしていても仕方がない。当然の事じゃないか。しかし僕はこう思えるまでに幾千万の時間を費やした。

 僕が生きる事は超現実を生きる事に等しい。迫りくる幻聴や妄想を無視するのは多大な労力を要するものである。のみならず精神疾患者は無理しやすく、易疲労感を伴う事も少なくはない。

 僕はシュルレアリスムを一時期自分の作品に導入すべく研究していた事もあるが、今回の記事はシュルレアリスムの本来の定義から逸脱しているかもしれない。僕は超現実主義という字面のみに従って、一義的には統合失調症患者はシュルレアリストではないかと思うようになったのである。これは荒唐無稽、奇想天外な着想かもしれない。しかし歴史上の功績というのは何の意味もなさそうなところから始まったりもするのである。慧眼を持つ読者はこの文章から何を感じるだろうか。

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