見出し画像

トイレ掃除とエゴ

大学卒業後、自分を含め男友達4人で一軒家をシェアして住んでいた時期があった。もう20年以上前の話だ。

その家は、とにかくトイレが汚かった。

2年余り住んでいたが、トイレの掃除など、ほぼ1度もしなかったのではないか。そもそも掃除道具すらなかったような気がする。

若く怠惰な生活を送っていたこともあるが、親しい友人程度の間柄では、トイレ掃除をすすんで行うには至らない。他人が使うトイレの掃除は嫌なものなのだ。

またこれも20代の頃だが、バイト先のカラオケ店の店長から「舐められるくらいキレイにしておけ」と横柄にトイレ掃除を命じられ、腹を立てた記憶がある。

「それを上の立場の人間がやってみせてこそ賞賛すべき振る舞いではないのか!?」と内心では反論したが、当方気が弱いので大人しく従うほかなかった。自分に範馬勇次郎の武力があれば、その場で店長に便器を舐めさせていたかもしれない。

たとえお金をもらったとて本音ではやりたくないのがトイレ掃除だ。

小林正観さんは著書『ありがとうの神様』のなかで、トイレ掃除が富につながるという話をしている。新幹線のトイレの汚れた便器をカリカリ爪を立てて素手で掃除したら、億単位のビジネスが次々に舞い込んできたと体験談を語っていた。

この話を自分はまだ消化できていない。

じゃあ駅でトイレ掃除の仕事をしている人は、みんな裕福なのだろうか。

億単位で裕福な方は極めて少ないように思われる。それは従事している人の心掛けが悪いから?いや、そういうことでもないだろう。真摯に仕事に向き合っている方もいるはずだ。

結局小林正観さんのような、他人が汚したトイレを嬉々と素手で掃除するほど強烈な他者貢献メンタルの持ち主に対しては、何らかの法則が働き、仕事においても世の中が放っておかないよということだろうか。

少なくとも、完全にエゴを捨てないと、小林正観さんの境地に達することはできないだろう。

だとしても便器を爪でカリカリできるようにならなくても、エゴは乗り越えることができるものであって欲しい。「トイレ掃除はあくまでエゴ捨て度を測る指標の一つですから。」という大らかなシステムでありますように。何卒何卒。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?