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読まれない小説に意味があるはなし

みんなのフォトギャラリーより、山凪悠斗様からイラストをお借りしました。閉じた本がおいてあるイラストを探しており、みつけたときは歓喜しました。色合いも素敵で、ひじをついているポーズも好きです。
ありがとうございます。


では、さて。


またお会いした方は、ご縁がありましたね。
初対面の方は、よろしければこれからよろしくお願いします。
喋々(ちょうちょう)ともうします。

今回の記事は、人によっては賛否両論かもしれません。
読まれなければ意味がない。
私は強くそう思っていましたが、その意識が根本的に変わってしまったおはなしです。





小説家志望の喋々(ちょうちょう)のがんばっていた過去


私なりに真面目に小説の勉強をしていた頃、某小説の書き方の本に紹介されていた、筒井康隆さんの「大いなる助走」という作品に登場する編集長の言葉を真に受けていました。

だいたいこんな内容でしたね。


小説とは、誰かに読まれるためにあって、書いた作品を個人で楽しんでいるのは、小説家ではない。


というような内容でした。

これを読んだ私は、プロって大変なんだな、がんばってなれるようにいっぱい書こう。
と、二年間奮闘していました。
で、勝手に絶望して、筆をおっておりましたね。


今、思えば二年間って、めっちゃ短かったなと。
私の敬愛する柄刀一(つかとうはじめ)さんは、作家になるまで二十年かかっていますし。
ちょっと遠回りをしようと、今は考えています。

ただ、二年間で書きすぎるくらい書きすぎているなと、最近、気づきました。なにを焦っていたのやら。

それで、昔はどのくらい書いていたのかなと思いまして、記録をさかのぼると、あら? こんなところにこんな記事が…。


まあ、上の記事からも確認できますが。
簡単に言えば、長編短編あわせて約20編くらい書いていました。

今、思えば、意固地になっていたのだなーと思いますね。
まず、好きではじめたはずなのに、どんどんわからなくなっていきました。


まあ、そもそものスタートが間違っていた可能性が高い。

承認欲求ですね。
誰かに認められたい。
バカにしてきた人を見返してやりたい。
だから、がんばる。

でも、これって、自分のためになるのか?
私は、ならなかったです。
だって、これは他人に人生を手渡しているようなものですから。


まあ、頑張る起爆剤としては、人によってはいいのかもしれません。
これで頑張れる人もいるでしょうし。
闘争心が強い人は、火に油を注ぐかのように、頑張りますからね。
いわゆる、ライバルという存在。
呪いともいえるかもしれない。
支えにもなるかもしれない。

まあ、でも。
私は、とにかく小説家になりたいって必死でした。
理由は忘れたのですが、たぶん、当時の私はそれくらいしかできないと、思い込んでいたのでしょうね。
今も、そう思っているのかもしれない。
まあ、いいか。

当時は、小説家になるには? みたいな本を買って、読んで、小説書いて、を永遠にしていました。

それで、気づいたことがありました。
他人の「~すべき」とかは、私にはあってなかったんですね。
こう、変に我を通そうとするところがあるので、間違えてしまうんですよ。


本に書いてある内容を全部やろう!
できない!
自分はだめだ…。
というようなことをくり返していました。


いわゆる「魂」とか「心」とか「業」が、私には、たりなかったんだろうな。

そんなことを思っていました。

でも、本当にたりなかったのは、こういう「情熱」とも言いかえられるであろう、上の三つではなかったんです。

私にたりてなかったのは「楽しむ」こと。

音楽って、音を楽しむと書きますよね。
それと同じ。
やはり、どんなにうまくても、楽しんでいる人には勝てないんです。
熱量が違うので。

間違っても、カッコ悪くても、どう思われようと、とにかく伝えたい!

これがなかった。
体裁だけ取り繕っても、ボロが出るんですよ。
私の場合は。

で、読まれない小説に意味はあるかという話にもどります。
こうやって、すぐ脱線するんですよね。
ははは。



ようやく、救われたはなし


ヘンリー・ダーカーさんを知って、変わりました。

ヘンリー・ダーカーさんを知らない方にご説明するなら、死後に評価されたアウトサイダー・アートで一番有名な方でしょうね。

アウトサイダー・アートは、アールブリュットともいいますが、私は響きがカッコいいなという感想しか浮かびませんので、違いがまるでわかっていません。

私の認識では、アウトサイダーアートも、アールブリュットも、他人にみせることを考えていない、自分が所有するためだけの作品をつくるという感じですかね。そういう経緯でつくられた作品を全部ひっくるめた言葉だと思っています。
たぶん、違う。

で、件のヘンリー・ダーカーさんですが。
「奇書の世界史」にわかりやすく書いているので、参考になさってください。YouTubeも本も最高ですよ。
大好きです。
いつか、「奇書の世界史」についても、おはなししたいです。


はい、さて。
ヘンリー・ダーカーさんについて。

ヘンリー・ダーカーさんの特筆すべき点としてあげられるのは、小説が先行したということですね。

わかりやすく大雑把に、私の適当な感覚でもうしあげると、


※これは喋々さんのだいたいのイメージで、人生を語るヘンリー・ダーカーさんです。

小説を書いた。
挿絵もほしいから、絵も書こう。
一つの作品に人生を全部かけたなあ。
どこにも、出版していないけど。
捨てることができないから、大家に後の処理はまかせよう。


が、ヘンリー・ダーカーさんのすべてです。
これ、すごいことですよ。
たった一つの作品に人生をつかって、しかも、自分のためだけにしか書いていないということ。

これ、できそうでできない。
だって、自分のために書いた小説って、誰にも読まれない小説ってことです。

それが、死後に芸術作品としてあつかわれている。
たまたま、住んでいた家の大家さんが芸術に理解があった人だったからでしょうね。
ヘンリー・ダーカーさんの作品は残りました。
で、様々なクリエイターたちに影響を与えています。

ヘンリー・ダーカーさんは、創作とはなにかを問う芸術家です。

たぶん、最初に絵だけをみたら、なぜ評価されているかという大きな疑問を感じるでしょう。

でも、ダーカーさんの人生とセットになった途端に、作品が輝きをもつという、不思議なことがおこります。

私は、死後、評価されたいというわけではありません。
「書きたいから書いた」という熱量を私はもっていなかったなと、おおいに反省するきっかけになりました。


おわりに


私には「大いなる助走」があわなくて「ヘンリー・ダーカー」さんがあうというだけのおはなしでした。

「大いなる助走」の編集さんについては、作家としてプロとして食べていく覚悟みたいなものが説かれています。

編集さんが求める作家の理想像なのかもしれませんね。
これくらいの覚悟でのぞんでほしいというような。

現に、私は、ものすごく書いていたし。

だから、両方無駄じゃなかった。


私は、人生に絶望するときって、今までやってきたことが報われないと感じるときだと思います。
でも、報われないなかでも、ふとしたことで救われることがある。

それが、なにであるかはわかりません。
けど、それを信じて現実をのりきっていきたいなあと思っております。

私の体感では、かなり切羽つまったときでなければ救われるものは、みつけられませんね。
そういうのは。

あと、しんどいときに手をさしいのべてくる知らない人は、たいがい警戒します。
相手が私に手をさしのべて、はたしてなんのメリットがあるのやら。
私は、かなり警戒心が強いですからね。
あまり、よくない傾向ではある。
いい出会いを潰すことにもなりかねませんからね。
が、それで命拾いをしたことも多いのでもある。
どっちがいいのだろうか?

まあ、読んだ作品は血肉になるということです。
適当な私のはなしにしては、少し真面目になったなあ。

長くなったので、このくらいで。
ご縁があれば、またお会いしましょう。