北インドの生霊 その② 【旅のこぼれ話】
翌日僕は、アーグラーという街に向かう列車に乗っていました。
前夜。
部屋を離れた隙に、全ての貴重品を紛失してしまった同室のトオルは。
夜中の内に警察に行き。
未明に、疲れ切った顔で宿に戻って来ると。
朝一番日本大使館へ向かう、と僕に告げました。
パスポートやトラベラーズチェック、クレジットカード、航空券の再発行など、様々な手続きが待ち受けている、と小声で言います。
僕と同様、乏しい英会話能力と乏しい人生経験しか持たない彼は。
よりによって、旅の初日に全てを盗まれたことの衝撃と、その後一人でやらねばならない後処理の大変さに。
完全に憔悴しきっていました。
――でも、全部自分のミスですから。
――貴重品を置いて部屋を離れてしまった自分が馬鹿だっただけですから。
そんなことを、ボソボソと口にします。
そんな彼に、僕は同情し。
けれども、同時に、自分でなくてよかったな、と思います。
そもそも不注意型のADHD、人生において、財布を失くした回数は両手の指でも足りないぐらいの人間なのに。
あの急な停電の際も、貴重品を身に着けたまま部屋を出ていたという事実に、深く安堵を覚え。
――インド旅行なんて危険に決まっているんだから。
――気を抜いた奴が悪いんだよ。
口にはせずとも、そう思い。
さらに。
――そもそも、昨日会ったばかりの、良く知らない相手だし。
――せっかくの海外旅行、期限もあるし、一日も無駄に出来ない。
そう、自分に言い聞かせて。
縋るような眼をしてくるトオルに、別れを告げて。
予定通り、隣町に向かう列車に乗り込んだのでした。
アーグラーという街には、タージマハルなる、至極有名な建築物がありました。
それは、確かに壮麗な建物ではありましたが。
もし僕が、十七世紀の旅行者で、長年の苦しい旅の果てにそこに辿り着いたのであれば、その建物に激しく心を動かされたでしょうが。
様々な映像を見て来た二十世紀の旅行者で、飛行機と列車に座って来ただけの僕は、それに対して特殊な感慨を抱くこともなく。
数枚の写真を撮ることで十分満足をし、宿へと向かいます。
そしてその宿で。
ロビーで、従業員に話しかけていた時。
突然、背後から英語で話しかけられました。
――すみません、ライターを貸してくれませんか?
咄嗟に英語が出てこず、それでも急いでポケットを探りながら振り返ります。
そこには、細身の白人男性がいて。
――ん?
僕は首を傾げます。
――見覚えがある。
けれども、そもそも記憶力が悪い上に。
人の顔、ましてや外国人の顔など、ちゃんと覚えられる筈もない僕は。
ポケットからライターを取り出し、それを差し出しますが。
その途端――その白人男性の表情が変わったかと思うと。
何も言わずにくるりと背後を向き、客室の方へとすたすたと歩いて行くのです。
何が起こったか理解出来ず、首を傾げてその背中を見つめている内に。
ようやく僕は、思い出します。
――昨夜の宿の、隣のベッドの奴だ。
僕の為に隣の部屋からシーツを持ってきてくれた、親切な。
大麻が大好きで、三年もインドを旅していて、もうお金がないとこぼす、少し怖い、ドイツ人。
同じような時間にニューデリーを離れて、同じ街に来て、同じ宿になったのか。
凄い偶然だな、と思いつつ。
僕が誰であるか気付いたらしい彼は、どうして何も言わずに去って行ったのだろう、と不思議に感じ。
ただ首を傾げていると。
その金髪男性が、また現れて。
僕の背後をすたすたと歩いて行きます。
大きなバッグを背負って、宿の出口に向かって。
どうやら、この宿を出て行くらしい。
忙しい奴だな、そんなことを思っていた僕も。
その姿が扉の向こう消えたあたりの所で。
ようやく気付きます。
――もしかしたら。
――あいつが、トオルの物を盗んだ犯人だったのではないか。
そう言えば。
停電が終わり、部屋に戻り、そして貴重品の紛失に気付いたトオルが、騒ぎ出した頃。
そのドイツ人がいた隣のベッドは、空っぽだった気がする。
停電で、部屋が無人になったのを機に。
彼が、他の旅行者の荷物を漁り。
まんまとトオルの貴重品を手に入れて。
そのまま、ニューデリーから逃げ出して。
この街にやって来た。
そう考えると。
そこで、昨夜同じ部屋だった――つまり、彼の犯行に気付いている可能性のある日本人を見つけて。
慌てて宿から逃げ出した。
そんな彼の行動は、十分に説明がつきます。
と、言うよりも。
それ以外には考えられない。
僕は急いで、宿の従業員に向かい、口を開きます。
――あいつは、泥棒で。
――あいつは、僕の友人の貴重品を盗んだ。
そんな内容のことを懸命に告げます。
ふぅん、と。
従業員は頷きます。
――今あいつはこの宿から逃げ出した。
――だから、遠くに行く前に、急いで、警察を。
たどたどしい英語で、そう告げます。
ふぅん、と頷く従業員。
――警察を呼んでくれ!
少し語気を強めて、そういうと。
従業員は頷いて、部屋の隅を指さします。
そこには、電話機がある。
――使っていいよ。
――国内電話は一分十ルピー、国際電話は一分百ルピーな。
僕は、しばし唖然とし。
代わりに警察に連絡してくれないなんて、何て不親切なんだ、と。
何て非協力的なんだ、と。
怒りの感情が浮かんできますが。
従業員は、平気な顔をしたまま。
もう、こんな奴に任せてられない。
僕は意を決して、電話機に近づきます。
――けれでも。
電話機を上げることが、出来ない。
――何を、どう話せばいい?
英語に不慣れな僕が。
友人が――というか、昨日会ったばかりで、トオルという下の名前しか知らない人物が、ニューデリーの宿で、財布やパスポートを盗まれた話をして。
状況証拠以外に犯行の証拠など一切ない、名前すら知らないドイツ人を、その事件の犯人だと指摘して。
警察を――やる気のないインド警察を動かすことなど、出来るのだろうか?
――出来る筈もない。
それに。
もし仮に、それがうまく行ったとして。
取り調べや、手続きなどで――間違いなく、時間が取られてしまう。
忙しい旅行者である、僕の。
僕は、受話器に伸ばした手を引っ込め。
すごすごと、自分の部屋に帰って行ったのでした。
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