『ミスばかりのADHD』だからこそ、ミスをしない。 【ADHDは高学歴を目指せ】
6.
授業も聴けない、集中も出来ない、計画も立てられない。
そんなADHDの僕が、独学で京都大学に合格出来た理由として。
ここまで、とにかく『幼児期の環境』が良かった、という要素を挙げて来ました。
娯楽のない、他と隔絶されたような環境で。
ただ勉強をする毎日に。
不満はおろか、疑問すら抱かず育ったお陰で。
小学校入学の時点で、僕はかなり優秀な能力を持っていました。
ただし。
幼児期の能力など、所詮『芸』と大差のないようなもの。
ないよりは、ある方が良い、その程度のもので。
その後の『学力』には直結しません。
幼少期に優秀であっても、その後伸び悩む生徒の話は、多く聞きます。
『十歳で神童、十五歳で才子、二十歳過ぎれたただ人』なんて言葉もあるぐらい。
けれども僕は、その後も伸び続けました。
灘中学に入って以降、まるで勉強をしなくなりましたが。
二十二歳で勉強をし直すと、京都大学に合格出来るだけの学力を取り戻すことが出来た。
僕が『ただの人』以下の存在であるのは、日常生活や、仕事に関しての話だけで。
勉強に関しては、ある程度以上のレベルになれました。
では、幼児教育の時期以降の僕は、一体どこが良かったのでしょうか?
その疑問に対して、『義務教育の範囲内』限定で考えた場合。
僕の良かった点は、すぐに答えられます。
それは、僕が『ミスをしない』から。
逆に言えば。
長年の指導者としての経験から、断言できることですが。
義務教育の範囲内での話ですが。
ある程度勉強をした生徒が、それにも関わらず、優秀な成績が取れない原因は、大概、『ミスが多い』だけです。
『理解が出来ていない』ことなんて、殆どありません。
特に、算数・数学に関しては、その殆どの原因が、『ミス』です。
それは、単純な計算ミスだけに止まらず。
題意の読み違い、公式の覚え違い等も含みますが。
とにかく皆、検算等のチェックを多少行うだけで簡単に防げるような、軽いミスを頻発させている。
それに対して。
このレベルのテストであれば、僕は、殆どミスをしません。
義務教育の範囲内であれば、少なくとも数学は、ほぼ間違いなく満点の答案を作り上げます。
おかしな話です。
生徒の多くは、きちんと授業も聴けるし、宿題もするし、遅刻もしない、ミスの少ない子供達なのに。
僕自身は、不注意優勢型の、つまりミスばかりをする、典型的なADHDなのに。
完全に逆転現象が起こっています。
これは奇妙な現象ですが。
指導者になってすぐに。
彼らが問題を解いている時の姿を見るだけで、その原因は理解出来ました。
彼らは『チェック』をしないのです。
計算ミスをしていないか、題意の読み違いをしていないか、公式の覚え違いをしていないか――そういう意識を持って、チェックをしながら慎重に問題を解く。
僕が常に、そうして問題を解いています。
だから僕は、『ミスをしない』のです。
しかし、彼らはそうしない。
結果。
沢山のミスをしながらも、それを確実に修正して行く僕は、高得点になり。
ミスは少数であっても、それを修正しないで進む彼らは、大きく失点してしまう。
そこに気付いた僕は、当然、『チェックをするよう』指導します。
しかし、驚くほどに、彼らはその指示を守れない。
授業を聴くこと、ノートをとること、宿題をすること――僕が一切出来ないそれらのことを、簡単にやってのけるのに。
チェックをすることが、ほとんど出来ないのです。
どれだけ言い聞かせても、どれだけ叱っても。
そして、悪い点を取り続け。
挙句の果てに、『自分は算数・数学が苦手なのだ』と考えるようになり。
算数・数学が嫌いになってしまう。
そんな子供を、無数に見て来たのです。
何故、こんなことが起こるのか。
本当に理解が出来ず、指導に苦労をし続けたのですが。
ふと、どうして僕は、徹底したチェックを行うようになったのだろう、と考えた時に。
気付いたのです。
僕は、誰からも指導を受けていない、と。
勿論僕は、日常生活同様、テストにおいても、非常にミスの多い子供でした。
そのせいで大量に失点を続けました。
その間、例えば、『字を丁寧に書け』『問題に下線を引け』『公式を完璧に覚えろ』等々の指示を受けましたが。
人の話が聴けない、ADHDなのです。
そんな指示を、一切聞き入れませんでした。
しかし、その代わりに僕は。
計算一つ一つ、徹底的に検算をしながら進める。
出題の重要な部分のみを大きくマークする。
簡単な問題を自作して、公式の覚え違いがないか確認する。
尚且つ、テスト中にそういうことをしても時間切れにならないよう、計算や読解のスピードをとにかく上げる。
そう言った対策を。
自分自身で考え。
自分自身で試行錯誤し。
そして、完璧に身に着けたのです。
誰かに指導などされていない。
自発的に導き出したテクニック。
自転車の運転方法のように。
誰かに、言葉で指示されて習得したものではなく。
自分自身の体を使って、何度も痛い思いをしながら、体得したものであるために。
一生抜けることのない、そんな技術を得ることが出来たのです。
では。
何故子供時代の僕に、そんなことが出来たのか。
何故生徒達には、そんなことが出来ないのか。
勿論、答えの一つは、点数への『執着心』の差でしょう。
僕はとにかく点が取りたかったが、そこまでの気持ちがない子供は多い。
だから僕は自分を改め、彼らは改めない。
という面は、確かにあるでしょうが。
とはいえ、義務教育の年齢当時の僕は、自分が劣っているという意識=『コンプレックス』は、さほど強いものではなく。
『勉強しか武器はない』という意識は、そこまで強くはなかった。
だから、何を犠牲にしても点を取る、というほどの意識はなかった。
やはり、その年代の、僕と普通の子供達との、決定的な差は。
『自分は絶対にミスをする』という意識の有無、ではないでしょうか。
僕は、幼児期から既に、多くのテストを受けました。
そして、その全てで、完璧に優秀な兄と比べられていた。
そんな環境に置かれた僕は、間違いなく、自分自身のミスを多さを自覚し、それを改善しようと意識していたのだと思います。
物心のつく前から。
『ミスをするという自覚』に関しては、神童中の神童であると言っても過言ではない。
その結果。
僕は、常にチェックを怠らない、そんな子供になり。
ミスの殆どない答案を仕上げられる生徒になれたのです。
なお。
この性質は勿論、テストに関しては、良いことではあるのですが。
ただ、人生を通してみれば、副作用も色々あったとは思います。
何といっても、常に、『自分はミスをしている』と思ってしまうのです。
これでは、中々思い切った行動が出来ません。
ことが、『行動したあとでチェックし、改善する』ことが可能なもの――テストのような物だったら、良いのですが。
他人と共同してやる仕事など、失敗してしまえば、誰かに迷惑をかけてしまうような類のことだったり。
女性への告白など、一度失敗すると、もう取り返しがつかないようなことだったり。
仕事や高度な研究など、問題が余りに複雑で、チェック方法も改善方法もまるで分からないようなことだったりすれば。
『自分は絶対ミスをする』という意識が脳裏を占めてしまい。
恐怖心にとらわれ、動けなくなり――逃げ出してしまうのです。
だから、僕は。
旅や起業など、自分自身の責任の範囲内で出来るようなことであれば、驚くほど大胆に動けますが。
組織の一員としての行動だったり、女性との関係だったりするようなことでは、驚くほど臆病になってしまうのです。
この臆病さのせいで、失ってしまったものは無数にあります。
ただ、それでも。
『テストならミスなく出来る』という能力は、やはり貴重なものだし。
かつ、その臆病さのお陰で、他人に迷惑をかけることはまだ少なくて済む分。
この『自分は常にミスをする』という意識は、本当に有難いものであったと思います。
けれども。
肝心のテストに関しても。
『ミスを防ぐ意識』だけで通用するのは、所詮、義務教育の範囲内での話。
そこから先、高校生の範囲になってしまえば、ただ『ミスをしない』だけでは、良い点など望めない。
ADHDの僕が高得点を取るには、もっともっと他の要素が必要になってきます。
その要素とは、何なのでしょうか?
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