茨城2区 ~第一話~

祖父、大崎駒三の死を知ったのは、5日前の6月3日、異様なほど早く始まった梅雨と、大荒れの国会に国民が疲れ始めていた頃だった。祖父の父は太平洋戦争で戦死し、1人残された祖父は、「これからの時代は世界的な関わりが必須になる。地球上の陸地はいくつかの島に分かれているのだから、海運業が発達するに違いない。」という考えで、船舶関係の仕事を始めた。それは数十年後に「大崎海運」として正式に企業となり、日本有数の海運会社となるわけだが、当時の祖父はそんなことは露知らず、実家であった茨城県神栖市で郵便物の運送をしていた。
しかしある時、最大の顧客であった川崎財閥傘下のある企業が郵送から撤退してからというもの、仕事が激減し、ほぼなかった貯金も底をついた。借金をしてなんとか会社経営を続けようとするが、その借金を返せないので、ついに経営破綻し、祖父は路頭に迷った。自分の人生に絶望した祖父は、2人の子と共に死のうと思い、残った数千円を全てギャンブルで溶かそうと考えた。しかし、こんな時に限って大当たりしてしまい、逆に所持金が増えてしまった。しかし、このくらいで諦めない彼は、競馬で溶かそうと考え、全額を最弱と言われた馬に賭けた。金を使えればそれでよかったのである。しかし、またもや大当たり。それも1位から3位全員を当ててしまったのである。当たって欲しい時に当たらない癖に、こんな時には大当たりである。無くすつもりだった金達は魔法のように増幅して帰ってきた。既に心はあの世に登りつつあった祖父をすぐに現実へ連れ戻し、仕事を再開する流れになったのも無理はない。また誠心誠意働き始めた祖父に、おのずと人も集まって、いつの間にか「神栖に大崎あり」と言われるほどの企業に成長しつつあった。そして、いつからかこの会社は「大崎海運」と呼ばれるようになり、その呼称を今も使っているのはおかしな話である。
そして祖父が引退し、今の会長である父の大崎敏夫が新たな社長になった後は、海運業以外にも手を出し始めた。しかもそのほぼ全てが成功するのだからおかしな話である。いつのまにか売上高が5000億を超えていた大崎海運グループは、創業から40年足らずで三大財閥と並ぶほどの大企業と化しており、「大崎財閥」は最早日本有数の巨大グループとしての地位を確立しつつあった。最近では金融などにも手を出しつつあり、ますますの発展が見込まれている。
そんな大崎海運グループの御曹司が、僕、大崎弘樹である。自分で言うのもなんだが成績優秀で、各方面から将来を期待されている。父も多分後継は僕にするだろう。多分。言い切れない理由の一番大きな所以は、祖父にあまり好かれていなかったことだ。正月などに顔を合わせるときには、いつも最低限の会話で終わっている。
その祖父が死んだ。今葬式の最中だが、そんなことに興味は無かった。親族が死んだという悲しみもあることにはあるものの、これで自分の未来に確信が持てたという感情が大きく勝っていた。梅雨には珍しく、雲一つない晴天の日だった。
「もう年だったか。」火葬後の暗い空気の中で最初に聞こえた言葉は、父のこの言葉だった。真新しい墓石の前では祖父の弟の幾夫おじさんがへたり込んで泣いており、その子でいとこの祐介も後ろで佇んでいた。「お兄ちゃん、大丈夫?」突然聞かれて我に返った。振り返ると、妹の陽子が心配そうな目でこちらを見ている。「お、おう」曖昧な返事をしつつ、考える。これで僕は確実に大崎財閥会長の座を継げるのか。僕の将来は本当に安泰なのか。


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