【小説】ネガイバナ・外伝(という名の二次創作)

 学校の空き教室、それは私たちの憩いの場である。
 高校生になってからたまたま二年連続で同じクラスになった私たち三人組だけの、秘密基地に等しい場所だ。
 他の生徒たちは私たち三人がいることを知ってか、ロクに寄り付きもしない。

「はぁ……親から叱られたり何しろかにしろって言われるのも、もううんざりだよ……二人が羨ましいなぁ」

「今日は一段と激しいね、アヤメ。今日はどうしたの? お茶でもこぼした?」

「いや、所作間違えたとかじゃないんだけど……こないだのテストの点数が下がったの、通知表が返ってきて三日経ってからネッチネチ言われてさ」

 私の親友でありクラスの中でも特に目立つお嬢様、アヤメ。
 紫色のストレートロングヘアをなびかせ、高身長で凹凸のハッキリしたナイスなスタイルをお持ちな彼女はクラスでも憧れや好意を持った目で見つめられる──
 けれど、家は茶道の家元の厳しい厳しいお母さまと、厳格な噺家のお父さんがいるみたいで、家では家族からの期待、クラスでは他の生徒からの勝手なイメージを持たれた目で見られていて、この空き教室以外では息が詰まるみたいだ。

「兄さんもお父様に『こんな出来で客を満足させられるか! 今のお前は俺のおかげで二つ目になれただけで、実力は前座どころか前座見習いにも劣るわ!』なんて怒鳴られててさ、兄妹揃って落ち込みまくりだよ、今日」

「お兄さんも大変だねー、まったく……アヤメの家ってお金持ちで羨ましいって思ったことが何回かあったけど、その話聞いてるとゾッとするよ」

「うん。いくらお金がある家だとか、名門の下に生まれたとかもてはやされたって嬉しいことなんて何一つないよ。
親にあれをしなさい、これをしなさい、将来はこの道に進んでこんな人と結婚しろ、だとか四六時中言われてさ……髪を短くすることも出来ないし、娯楽なんかに手を出す暇もない。
だから、私にとっては自由のあるスミレが羨ましい……私だって、スミレみたいにボブヘアーとかにしたいよ」

「ハハ。そんなにいいもんでもないよ。私ん家は両親共働きで、お姉ちゃんは自立しちゃってて、私は一人っきりだから、家族と関わることがなくて寂しいんだ」

 私──スミレは、お嬢様のアヤメとは対照的にどこまでも平凡な家庭だし、私自身もアヤメとは真逆に、短い髪に中肉中背で凹凸はハッキリしてない。
 アヤメにも言った通り、両親は夜遅くまで働いていて、昔は一緒にいた姉も二年ほど前に彼氏を作ってどっかに行って、連絡もロクにとっちゃいない。
 おかげで、いつも家では家事をやるか一人寂しく過ごすかのどっちかだし、人肌が恋しい。

「だからさ、同じ庶民としても私はこっちのが羨ましいよ」

「え、私?」

 アヤメと私のやり取りを優しく見守っていた、私たちのもう一人の親友──オダマキを指さして言う。
 彼女の家は私から見たら理想的な家で、時々オダマキの家にお邪魔することもあったけれど、感動で泣きそうになったくらいだ。

「そういえばオダマキも私の家みたいに何かしらの系譜の家系だけど、何をしろアレをしろって強要されたりしないんだっけ」

「それでいて家族団らんの機会も多いってのがいいよね、ご飯食べる時に家族とお喋りなんてめったにないもん、私」

「うーん、二人が思ってるほど凄いってものでもないよ。確かに家族の皆は凄いけれど、私自身はダメダメだから……さ」

 薄紫色な三つ編みの髪をいじくりながら、オダマキは自虐気味に笑う。
 まぁ、そう自虐的になるのも無理はない話で……オダマキは出会った時からまさにダメな人と言える子だった。
 実際、体系もちょっとぷにぷに気味でダメっぽそうな感じにも見えるんだけど。

「今朝もさ、道路に飛び出した子供がいるから突き飛ばして助けられた、と思ったらぶつかりそうだった車がオートブレーキのある車だったんだ。
おかげで、私はただ子供に怪我させただけって酷いことになっちゃって」

「あー、ホントにオダマキってば、志や想いは立派だけど結果が伴ってくれない不運に見舞われるよね……」

 ハァ、とため息を吐いて嘆くオダマキに、私たち二人そろって同情する。
 オダマキは悪意なんて言葉とは縁遠いほどに善意だけで出来てるような人間で、常に誰かの助けになろうと頑張っている子だ。
 けれどそんな立派な志に結果は伴わず、いつも空回りして人に迷惑をかけてしまうことが多い。
 私たちも何度も被害に遭ったけれど、オダマキに純粋な善意しかなかったことを考えると怒るに怒れないものだ。

「お父さんたちは間違いなく立派なんだけど、私だけはそうじゃないからさ……私は一人で立派なスミレや、家族に期待されてるアヤメがちょっとうらやましいよ」

「……きっと、今はそうやって苦悩する期間なんだよ。私がいつか寂しくなくなったり、アヤメも家族との付き合いに窮屈でなくなったり、オダマキも立派な人助けが出来るようになる時が、いつかは来るんじゃないかな」

 オダマキのお父さんは警察官、お母さんは看護師、お兄さんは消防士の訓練生。
 だから、オダマキ自身も家族に誇れるような人助けの出来る人間になりたかったんだろう。
 その気持ちは凄く立派だし、私としてはオダマキを応援したいものだ。

「結局のところ、隣の芝生は青いってことね。お互い羨ましいように思っていても、実際は皆悩みを抱えてるってワケで」

「そうだね。羨ましがるところも悩むところも違うけれど、三人とも似たり寄ったりでさ」

「でも、それがなんだかんだ幸せなものだよね……なんていうかさ、私、この空き教室で三人揃って愚痴を言ったり、笑い合ったりする日々が一番幸せだと思うよ」

 そう。なんだかんだで、こうやって小さい幸せを語り合える今こそが私にとって幸せだ。
 アヤメにとっては良いガス抜きになるだろうし、オダマキにとっても応援相手がいるから、それぞれが欲しいものを得られているってことだ。
 だから、この空き教室での時間がずっと続くといいな……。

 そう思っていた矢先に事が起こったのは、翌日。
 昨日、アヤメは両親にこっぴどく叱られたらしく、今日はずーっと落ち込みっぱなしで空き教室でも机に突っ伏しているほどだった。

「なんていうかさー……親ってさー……子供の頃の苦悩とかを覚えてないのか、って感じだよね」

「あー……うん、確かにそういうところあるよね」

「そもそもさ、私さ、茶道とかよりもやりたいことあるのにさ……親が家元だからソレ継ぐのが当たり前ー、って……マジふざけんなって感じだよ」

「わ、私は将来的にお父さんかお母さんのコネでどっちかの職に就くことになるかもだから、ちょっとわかんないかな……」

 荒んだアヤメの愚痴に返答しつつ、いつも以上に愚痴が激しいアヤメを前にしているというプレッシャーで身を寄せ合っていた。
 いつもは『ははは、わかるー』って感じに返答出来てはいたけれど、今回は返答が苦しくなってくる。
 アヤメがすごーく怖く感じる。

「っ、あー……もう家帰んなきゃ、今日私の愚痴ばっかでごめん」

「いいよ。アヤメだって大変なのわかるしさ、頑張ってね、アヤメ」

「……うん」

 何とか絞り出した言葉でアヤメを空き教室から送ったけれど……結構息が詰まった。
 こういう重圧みたいなものと、日常的に戦っているんだろうか、アヤメ。

「どうにかアヤメを元気づけられたりしないかな」

「そうだね……何かあるといいなぁ」

 そう言いながら、私とオダマキも空き教室を出て、帰り道についていた。
 三人いない状態で語り合うのも、あんまり面白くないからね。

 ────

「はぁ……アヤメ、大丈夫かなぁ。どうやったら元気になるか、調べないと……」

 ため息を吐きながら肩を落とし、帰り道を歩くのは私──オダマキだ。
 親友の苦悩があるなら、それをどうにか解決してあげたいけれど……そんな方法、私は全然知らない。

「うーん……どうすればいいんだろう、はぁ……あたっ」

 下ばっかり見ていたせいで、前を見てなかったから人とぶつかって転んでしまった。

「ご、ごめんなさい! 大丈夫ですか?」

「おぉ、大丈夫大丈夫。こちらこそ良く見てなくてすまないね……それよりも君、大丈夫かい?」

「へっ、だ、大丈夫って?」

 私がぶつかってしまった人──スーツ姿の高身長の男の人は、どこか心配そうな目だった。
 怪我とかしていてはないんだけどな……と思っていたら。

「君、何か悩み事があるんじゃないか? 随分深刻そうな顔をしてるよ」

「え、あ、はい……結構、大きく悩んでます。その、友達のことで……」

「友達? 喧嘩とか、何かしたのかい?」

「いや、そういうのじゃなくて……」

 気づけば、私はアヤメの悩んでいる話などを、名前も知らない初対面の人にべらべら喋ってしまっていた。
 後から思えばおかしなことだけれど……何故か、今はこの人が凄く信頼できるように感じ取れたから。
 なんていうのか、凄腕の占い師の放つオーラみたいに、無条件で信じてしまいそうな雰囲気があったから。

「うーむ。それは確かに大変な悩みだね……じゃあ、これを差し上げよう」

「……なんですか、これ」

 小さな小瓶の半分ほどまでに、薄い緑色の液体が入っているものを見せられた。
 栄養ドリンクとかお薬みたいだけれど、悩みを抱えている人に対して差し出すものなんだろうか。

「これを飲むと、元気ややる気が満ち溢れて来るんだよ。僕もよくお世話になっていてね。
ほら、今の世の中は老いも若きも男も女も心に隙間が出来てしまっている人がいる──なんて、言うだろう?
だから、これはそういう心の隙間を埋めるようなお薬ってワケなんだ」

「えー……と、なんか、胡散臭い……」

「ハハ。確かにコレ自体は胡散臭いかもしれないね。けれど、これを渡した僕自身を信じてくれはしないかい?
君は勇気を出して初対面の僕にも悩みを打ち明けてくれたワケだろう? なら、物は試しでいいんだ、騙されたと思ってこれをそのお友達にあげてみてくれ。
それが、大切な友情を守る第一歩だと思うからね」

 彼はそう言うと、私の手に二本の小瓶と一枚の紙きれを握らせてきた。
 いらないです、と言おうとする前に去って行ってしまったので、私はその瓶と紙きれを持って呆然と立っていた。
 ……これ、本当に大丈夫なものなのかなぁ。

 翌日。

「また怒られまくった……もうやだ、家帰りたくないよ……」

「こりゃあ重症だね、オダマキ。カフェにでも連れてく?」

 放課後の空き教室、アヤメはもう愚痴を言う元気すらないみたいで、教室でも凛とした態度を保つのが限界だったみたい。
 ……アヤメの心にも、隙間が沢山出来てしまっているのかな。
 もし、この瓶でそれを解決してあげることが出来るのなら……その確率が1%でもあるなら、私は。

「大丈夫、スミレ。カフェよりもアヤメの元気が出るものはあるよ、はいっ」

「……何これ」
 
 鞄から小瓶を取り出して、机に置いて見せた。
 スミレとアヤメの目線はその瓶の方へと注がれる。

「これ、飲んでみると元気とやる気が満ち溢れて来るものなんだって」

「へー……見たことないドリンクだけど、どこのメーカーなの? コレ」

「えーと……貰い物だからちょっとわかんない、かな。ラベルもないし」

「危険なにおいがプンプンすんだけど、ソレ」

 私だって危険だって思ってるよ──と、スミレに心の中で突っ込みを返しながら私は瓶をアヤメの前に持っていく。
 ……確かに危険で、コレが毒物だとか、健康被害を出すものかもしれない可能性はある。
 けれど、もしももしもで。これが本当に元気ややる気の満ち溢れるものだとするなら。
 私はアヤメのことを助けたい、家族みたいに、誰かを助けられるようになりたいから。

「これ、どうするの?」

「アヤメが飲むんだよ」

「……大丈夫なの? オダマキ。これが有害物質だったりとかして、アヤメ倒れたりとかしない?」

 確かにアヤメは重症なくらい落ち込みっぱなしだけど、それでよくわからない飲み物を飲ませて元気にするのも変かもしれない。
 けれど、このまま落ち込みっぱなしのアヤメなんか見ていたくないし、どうせなら皆が元気な方がいいじゃないか……と、私は思う。
 スミレも言っていたように、この空き教室は三人で程よく愚痴を言い合う場所なんだから。

「別にいいよ。毒なら毒で、入院でもしてしばらく親から離れられるし……元気になれたら嬉しいし。はは」

「……出来れば毒じゃないこと祈るよ、アヤメ」

 スミレは瓶のフタを空けながら力なく笑うアヤメに向けて親指を立ててから、祈るように手を組んだ。
 きっと大丈夫だろう、わざわざ猛毒を渡してくる人間なんていないはず……多分!

「んっ……うぇ、なんか苦いし青臭い……青汁みたい、後味も最悪だし……まっずいよ」

 結構不味かったらしい、普段は気品の漂うアヤメの顔も台無しなくらい歪んでいる。
 で、でも良薬口に苦しとは言うし、むしろその苦さが良いものの証なのかもしれない。

「で、どう? 効果出た? やる気とか溢れて来た?」

「うぇ……でも、なんだろ……ちょっと、体がポカポカしてきたかも……」

「即効性なんだ、ソレ……」

 アヤメは自分の胸に手を当てて、少しの間目を瞑ってから、一気にカッと開いた。
 こんな漫画みたいにわかりやすい効果なんだ、凄いなぁ。

「アヤメ? 大丈夫?」

「……大丈夫、むしろ凄い元気。なんか、今からでも何かしたくなってきちゃった」

 アヤメの目つきは変わっていて、いつも空き教室にいる時の『ここだけが頼りだ』ってちょっと弱々しい目ではなくなっている。
 普段、授業を受けている時みたいな凛とした目……っていうか、ちょっと鋭くなっている。

「何かするって、いったい何するの?」

「うーん……せっかくだし、家に帰ってみるよ」

 アヤメはそう言いながら、荷物をテキパキとまとめて鞄を肩に背負って空き教室を出て行ってしまった。
 私たちはその様子をただ黙ってみることしか出来ず、お互い顔を見合わせることしか出来なかった。
 
「これ、そんなに効いたのかな」

「って言うか、なんなのよソレ」

「いや、さっき言った通りホントにわかんなくて」

「ラベルすらないし……誰かの手作りなのかな」

 本当に透明な瓶で、成分表示も何も書いてやいない。
 不気味ではあるけれども、アヤメは元気になってたみたいだし、悪いものではないんだろう。
 愚痴を言い合うのも良いけれど、やっぱり皆が笑顔でいられるのが一番いいよね。
 
「深く考えたら、負けなのかも」

「……そうだね。アヤメが元気になったのなら、それでいいじゃんってことなのかな」

「うんうん。じゃ、私たちも帰ろっか。ほら、駅前にあるコーヒーショップ寄ってこ、バンスターってお店」

「うん、行く行くー」

 私たちも荷物をまとめ、空き教室を出ていく。
 明日は、誰も愚痴を言わないような日になるといいなぁ。

 翌日、アヤメは昨日私たちに見せたキリッとした表情のまま『今日は真っすぐ帰って稽古することにしたんだ、ごめんね』と言って、空き教室にも寄らず帰ろうとした──が。
 何故か、昇降口へと向かう足をUターンさせて空き教室に飛び込んできた。
 そしてすぐに椅子に座り、机の上に突っ伏した。

「……ぁぁぁ、辛い。世界なんて滅んじゃえ」

「今の一瞬で何があったのよ!?」

 アヤメは昨日のお薬を飲む前のように元気をなくし、生気が失われた顔をしている。これにはスミレもびっくりだ。
 ……あの薬、そんなに長続きしないものだったのかな。

「どうする? アヤメ、もう一本あるけど飲んでみる?」

「なんで持って来てんのよ、ソレ」

「いやぁ、まぁ、二本貰ったから……」

「そうなんだ、でもそれ飲んだらなくなるのね」

「あ、もしかしてスミレが飲みたかった?」

「いらないわよ、私苦いの嫌いだし」

 スミレは私が差し出した瓶をすぐにアヤメの前に置く。
 なんだか風邪薬の用法用量を守らず使ってる人みたいだけれど、これはアレと違うだろうし……大丈夫だよね、多分。

「んっ、くっ、ふぅ……よし、元気充填! それじゃ二人ともさよならっ!」

「切り替えはっや」

「一回飲んだ分、元気になっていく感覚とかわかるのかな?」

 それにしても、もう二本使っちゃったけれど……明日や明後日も、スミレは電池が切れたようになっちゃうのかな。
 だとするとそれは深刻な問題だし、早いところあのスーツの人と会わないと。
 三人揃ってなきゃ、空き教室にいてもあんまり楽しくないし、三人元気でなきゃ空き教室に集まる意味もなくなっちゃう。

「スミレ、今日はどこか寄ってくの?」

「いや、私も真っすぐ帰るよ。今日金曜日だから、早く帰って寝たい」

「そっか。じゃあ私は私で用事済ませて来るよ」

「何の用事か知らないけど、早く終わるといいね」

 何事もなかった日常が、少しずつ変わり始めた。
 それが良い方向なのか悪い方向なのか。今の私にはわからないけれど、明日の私なら、きっとわかるだろう。
 ……少なくとも、今の私は良い方向だと信じたい。

 ──翌日。

「やぁ、よく来てくれたね。お兄さん嬉しいよ」

「それはありがとうございます」

 二本の瓶と一緒に渡された紙切れ……それは、このスーツの人──ヤグルマさんの連絡先が書かれていたものだった。
 あのお薬を新しく手に入れるためには、持っていた彼に尋ねるのが当然。
 なので私は彼と連絡を取って、休日の朝から喫茶店で顔を合わせていた。

「にしても、随分早かったね」

「そうですか? 指定時間の五分前についたくらいだから、そんなに早くないと思うんですけど……」

「あぁ。いやいやいや、そういうことじゃなくてね。連絡が、ってことだよ」

「連絡が?」

「そう。アレを使った人は遅かれ早かれ追加で欲しくなるものだけれど、まさか渡して二日で連絡が来るとは思わなかったよ。
普通なら一週間くらい待っているものだから、びっくりしちゃった」

 ヤグルマさんはハハ、と笑いながらコーヒーカップに手を付けた。
 カップに指をかけている手についている時計は、有名なブランドものの時計だ。
 ……お金持ちなのかな、この人は。

「それじゃあ、本題に入ろうか。僕に連絡してきたってことは、追加で欲しいんだよね?」

「はい。あれがあったら、アヤメ──私の友達が、元気になるから」

「そっかそっか。なら、僕のやれることはこれだけだね」

「……これは?」

 ヤグルマさんは胸ポケットに入っていた手帳から一枚の紙を抜くと、私の前に置いた。
 そこにあったのはQRコードだ、スマホとかで読み込むような小さいサイズ。

「これをスキャンすれば、君が友達のために求めているもの──『ネガイノエキス』が購入できるサイトへ行ける」

「これ、一つで……」

「そう。このサイトは普通にはアクセス出来ないようになっていてね。このQRコードを通さないとダメなんだ。
それに加えてね……よいしょ」

 ヤグルマさんが持ってきた鞄からバインダーと、それに挟まれた紙を私に見せて来た。
 一番最初に目に入ったのは『契約書』の三文字だ。

「この契約に従うことで、そのQRコードへのアクセスを許すことになる。
まぁ、契約と言っても凄く簡単なものでね。『このQRコード及びサイトのURLをインターネットや第三者の目につくようなところにアップしない』。
ただそれだけを守ってくれればいい、破れば然るべき処罰を取るってだけさ」

「……もしかして、このサイトとか、扱ってるその『ネガイノエキス』って──」

「言いたいことはわかるよ。けれど、そんなことを言っている場合なのかな、君は」

 違法なものなんじゃないか、そう言おうとした私の言葉を、彼は強い眼差しで遮ってきた。
 人助けや法律を守ることをモットーにしている私は、こういった物を見過ごす……ましてや、使ったりなんて考えたくはない。

「友達のために、ただその想いで連絡して来たんだろう? なに、そう気にすることじゃないよ。
僕だって家族のために定期的にコレを買って、妻に元気を与えて貰っているんだ。
誰かのためにこれを使ったり、買うってのは悪いことじゃない、むしろそこに人を愛する気持ちがあるからこその行いだ。
それを『規則だから』『法律だから』と、否定してしまえば、人の心はたちまち砕けてしまう」

「……人の、心」

「そう。今の世の中は人の心が苦しくなることだらけで、挫けそうになることがある。
そんな時に人同士が支え合わなければならないというのに、少し隙があればマウントを取って潰したがる。
これは法では裁けない悪ってもので、対処する方法なんて全くない」

 SNSの書き込みだけじゃなく、現実でもそういう光景があることは私も知っている。
 クラスメイトたちが上辺を取り繕ったかのように仲良くして、実際は相手を蹴落とそうと必死になっていることも見たことがある。
 ヤグルマさんの言葉は、私の経験してきた記憶にピタリとハマる言葉だった。

「だからこそ、例え周りから悪だなんだと言われても、これに縋ることで生きていける人たちがいる。
君のお友達も、きっとそうなのかもしれないんじゃないかな」

「アヤメが……これに、縋る人……」

 ヤグルマさんの言葉を反芻しながら、私は昨日や一昨日のアヤメを思い出し……つい先ほどのヤグルマさんの言葉も思い出す。
 アヤメは『ネガイノエキス』を飲んだだけで絶望的だった顔が希望に満ち溢れていた。
 けれど、どこかそれに縋っているところもあって、ヤグルマさん曰くアヤメは『早い方』だって言っていた。

「これはお金を取りたいからとかそういう問題じゃなく、単純に僕個人のオススメなんだ。
友達のことを想うのなら、買った方がいい」

「……わかりました。私、買ってみます」

 元々、誰かを助けるためにお金を貯められたらって思ってアルバイトをやっていたんだ。
 だから……その分のお金を使うチャンスが、今巡ってきたってことだ。

「そっか。ならこの契約書にサインしてね。そしたら僕がこれをサイトの本部の方に送るから」

「わかりました、えーと……ここですね」

 私は渡されたボールペンで自分の名前を書き、ヤグルマさんにバインダーを渡す。
 彼はそれを鞄に入れて、私はQRコードの描かれた紙を受け取って──

 二日後。

「ねぇオダマキ、これって相当まずい状況じゃないかしら」

「そうだね……アヤメ、更に元気なくしてる」

 空き教室にやってきたアヤメは机に突っ伏するどころか、床に寝っ転がっていて、全身の力を抜いていた。
 やる気をなくすどころか生気すらなくしていて授業は気合いで受け、クラスメイトとのやり取りもどうにか頑張ってこなしたみたいだけど。
 ここに来て、緊張の糸みたいなのが切れたのか彼女は溶けたアイスのようにぐでーっとしている。
 その様子を見ながら、私──スミレと、オダマキの二人はひそひそと話していた。

「オダマキ、アレ頂戴」

「あ、アレって……」

「あの、飲み物……あれないと、私死ぬ……」

「し、死なないでアヤメーっ! ほら、あるから! 新しく買ったやつあるから! ほら!」

 オダマキが慌てて鞄から先週もアヤメに飲ませていた薬を取り出して、アヤメの口に突っ込んだ。
 その飲ませ方で死ぬ確率の方が高そうなんだけどなー! と、私はいつでもアヤメが吐いても大丈夫なように準備をしておく。

「んっ、ぐ……ふぅ、ありがとう、オダマキ! これで完全復活、パーフェクトな私が戻ってきたわ!」

 スクッ、とアヤメが立ちながら言う。
 ……これは、余計なお世話でも一言言わないと。

「情緒不安定にもほどがないかな、アヤメ」

「……これでやる気が出る感覚も、これがなくて周りからのプレッシャーに潰されそうになる苦しい気持ちも、スミレにはわかんないでしょ」

「確かにわからないよ。けれど、それに頼り続けるのは良くないってことだけはわかるよ、アヤメ。だからさ、もう少し私たちと一緒にいる時間の尊さってものを信じてよ」

 私は、目の前にいるアヤメを強く見る。
 確かに、オダマキが持ってきたその薬は人を幸せにする立派な飲み物なんだろう。
 けれど、アヤメの反応を見るにそれは依存性の強いものだというのがわかる。
 だからこそ、ソレは本当に耐えられないくらい辛い目に遭ってから使って欲しい。

「スミレさ……いつも外側から『わかるよ、大変だね』って、自分は関係ありませんって顔して話すよね。
人の苦労とか辛さとか何一つ知らないで、善悪を自分の物差しで測って偉そうなことばっかり言ってさ……!」

「違う! 私はただ、アヤメが心配で……!」

「じゃあ! スミレはアヤメがこのまま元気なくしてもいいって言うの!? 心配に思うなら、確かなものに頼るべきじゃないの!?」

「う……」

 オダマキの言うことは確かにごもっともだし、これに対する反論は水掛け論になる。
 何よりも、このままだと三人の関係に亀裂が入ってしまう、二人が私の友達でなくなってしまう。
 亀裂を入れずに、アヤメにこの薬の服用を止めさせる方法はないのか。
 ──でもそんな理想的なことなんて出来っこない。だから、今私が出来ることは……!

「わかったよ、ごめん……私が悪かった。もっとアヤメの気持ちに寄り添って話せばよかった。自分勝手なこと言ってごめん……!」

「いや、こっちも言い過ぎたよ。ごめんね、スミレ」

「スミレもわかってくれたならよかった。うんうん、やっぱり三人仲良くが一番だね!」

 わからない。わかってなんてたまるか……こんなの、ただの違法薬物に頼る弱い人と同じだ。
 けれど、私はこの三人が家で一緒にいることが大切で、寂しくない時間を過ごせる二人と絶交なんてしたくない。
 そのためには、我を通せないような事でも我慢するしかない、あの薬にはノータッチでいるしかない。

「……これで、いいんだよね」

 誰にも聞こえないくらいの声で、私は小さく呟いた。
 涙を飲んで、怒りを耐えて、我を殺すしかない……そうでなきゃ、この三人の関係は壊れてしまうから。
 私が我慢したら、オダマキはアヤメを助けられて、アヤメはやる気にも溢れて親の言うことに苦しむ必要だってなくなる。
 これで、これでいいはず。
 

 けれど、事はそんな単純なものなんかじゃなかった。
 私の考えは、至極甘いものだった。

「はい、アヤメ。これが今月の分」

「ありがとう、オダマキ。最近じゃ二本でも効かなくなってきて……私のお小遣いじゃちょっとしか買えないから」

 あれから、三ヶ月も経ってしまった。
 私はとんでもない後悔と、口を開くに開けない葛藤を抱えて生きる日々を過ごしていた。
 アヤメが例の薬──『ネガイノエキス』を使用する頻度は更に更に上がっていき、今では一日に三本も服用している。
 それを購入するための資金の殆どはオダマキのバイト代で賄っているみたいだ。

「オダマキ、そんなにバイトして大丈夫なの? 今日だって、授業中にいきなり倒れたじゃん」

「大丈夫だよ。これは私がしたくてしてることだし、アヤメもこれで元気になるなら安いものだよ」

「うん。私もオダマキもやりたいことがやれて幸せだし、体の不調なんて問題ないよ。
それともスミレ……何か、言いたいの? 文句? いちゃもん? 言いたいことあるなら言ってみてよ。 私たち友達でしょ? ほら、ねえ」

「っ、い、いや……なん、でもないよ……」

 ここ最近、アヤメは光を失ったようなうつろな目で私を見つめて来る。
 その目で見つめられると、私は言葉に詰まって喋れなくなってしまう。
 なんだか、この目の前で自分の気持ちを吐き出そうとすると、何もかもを飲み込まれてしまいそうだから。

「それじゃ、またバイト行かなきゃ」

「行ってらっしゃい。私もお稽古頑張るよ」

 歪んでる、これ以上ないほど歪んでる……。
 けれど、私は何も言うことが出来ない、手も足も口も動かせない。

「が、頑張ってね、二人とも……」

 それしか言えない。もう三人で空き教室に集まってお喋りをする時間は返ってこない。
 けれど、まだ三人で一緒にいることが出来る……その小さな幸せが、私にとっての最後の希望。
 だから……だから、耐えなきゃ……!

「っ……はぁ、はぁっ……! くっ、ふっ、ぅっ、う……!」

 私──アヤメは、訪れる苦痛を耐えるために胸をギュッと握り、乱れる呼吸を無理矢理にでも整えて『ネガイノエキス』を一瓶飲み干す。
 定期的に与えられるお小遣いを全額使って買って、得られるのは私の摂取量一週間分程度──二十七本だ。
 オダマキが身を粉にして働いて買ってくれる分も合わせて、ようやく足りている。
 この先、また『ネガイノエキス』の摂取量が増えてしまうようなことがあれば、私のお小遣いやオダマキの給料では足りなくなってしまう。
 
「怖い……これが、なくなったら……! いやだ、いやだ……!」

 『ネガイノエキス』の瓶を抱きしめるように握り、私は手の震えを握って止める。
 効果時間が切れると、それまで得ていた落ち着きややる気が失われる……だけでなく、それまで抑え込んできた虚無感や絶望感が一気に押し寄せて来る。
 だから、その予兆が来た時に合わせて私は自分に痛みを与えてから『ネガイノエキス』を飲み干して耐えている。
 もう、前みたいにやる気や希望に満ち溢れるような喜びを感じるための道具じゃなく、自分の不安を押し殺すための道具としてこれを使うことが出来ない。
 お願いだ、私の体……どうか、これからは摂取量が増えることにならないように持って──!

 そう願ったところで、現実は思うようにはいってくれなかった。
 ちゃんと三本で済ませるはずだった……なのに、四本目の瓶を飲み干してしまった。
 これからは四本飲まないと足りない、その現実が頭を支配してきた。

「は、はははは……お金足りない……どうしよう……私、どうなっちゃうのかな……」

 自分のお小遣いも、オダマキの給料もこれ以上は増えっこない。
 使う瓶の量は増えたのに、ソレを得るためのお金は増えない……そんな残酷な現実。
 もうどうすればいいかわからない、自分が何をすればこれも必要なくなるのか……そんな風に思っていたら。

「アヤメ、入るぞ?」

「っあ、兄さん……どしたの?」

 私の部屋の扉が開き、 私の兄さん──シオンが着物姿のままで部屋に入ってきた。
 疲れているその体で今すぐにでも眠りたいはずなのに、わざわざ私の部屋に来るなんて。
 いったい、何があったのか。

「最近、アヤメが貰ったお小遣いをすぐに使い切ってしまうような買い物をしてるって母さんから聞いたんだ」

「そ、そうなの? し、知ってたんだ……」

「何を買っているかわからないけれど……それだけ買い続けるってことは、ないとよっぽど困るものなのかなって」

「……うん、それがないと、私が私でいられなくなるもので、すっごい大切で……なかったら、茶道のお稽古も出来ないかもしれない……それくらい、大事」

「そっか。なら、こないだ兄弟子から『二つ目祝いだ、これで美味いもんでも食え』って貰ったから、これで少しでも足しにして」

 兄さんは、懐からシワのない綺麗なお札を取り出して私の手に握らせてきた。
 1万円札……私の月々のお小遣いには全然満たないけれど、十分高額だ。

「え、こ、これ……兄さんのじゃ」

「アヤメのでいいんだよ。僕はお金を使う用事もないし、アヤメがアヤメらしくいるなら使いなよ。
ほら、それに僕も二つ目になってから落語での収入も増えて来たからさ、お金には余裕があるんだ。
まぁ、金に余裕があっても父さんからは叱られてばかりで、心にそんな余裕はないんだけどね」

 そう言って、兄さんはハハハと笑ってみせた。
 ……そっか。兄さん、お金稼いでるんだ。

「……でも、僕はいつも父さんじゃなくて兄弟子から見て貰ったりするわけだから、余裕のある日はある。
けれど、アヤメは毎日母さんから直接指導を受けてるから、心も体も凄い疲れるだろ? なら、僕よりも辛いはずだろうからさ。
それに本当に辛かったら、父さんも母さんも何か助けてくれることはあるはずだから、困ったら家族を頼ってよ」

「家族を……頼る……」

「そう。家族は誰かが困っていたら、支え合うものなんだ」

 ……なんだ。お金を増やす方法、まだあったんだ。なんで気付かなかったんだろう。
 こんな簡単なこと、どうして思いつかなかったんだろう、私。

 ──イヤ、気付いてはいた。こうすればもっとお金が入って、もっと『ネガイノエキス』を買えるんだ、って。
 けれど家族を相手にそんなことをしてはならない、そんな汚い手段でお金を手に入れてはならない。
 そういう理性が私を止めていてくれたのに、兄さんの慈悲がそれを壊した。
 家族を頼ってくれっていったのは、兄さんの方なんだから……私は、悪くない。

「あ、アヤメ……! 君は、なんてことをしてくれたんだ……」

「ごめんなさい……」

「ごっ、ごめんなさいって……その一言で済むものじゃないだろう。
君のやったことは立派な犯罪だよ、家族間とは言えど、お金を盗むなんて真似はしちゃダメだ。
いや、僕のお金ならまだ許そう。君にどうしても必要なものだったんだって、相談は受けていたから。
けれど、けれど……! 父さんや母さんのお金まで盗むのは、絶対にダメだろう!」

 ──そう、私は兄さんだけじゃなく両親の財布にまで手をつけてしまった。
 『ネガイノエキス』を摂取する量は日に日に増えて行ってしまって、最初に飲んでからたった半年で、一日に七本も必要になっていた。
 オダマキのバイト代、私のお小遣い、兄さんのお金を足しても足りない額になっていったから、お父さんやお母さんの財布に手を付けていたことが、今日バレてしまったのだ。 
 でも、私は。

「……家族を頼れって言ったのは……兄さんでしょ」

「……は?」

「困ったら家族を頼れって、兄さんが言ったんじゃん! 私だってこんなことしようなんて思わなかったよ! でも、兄さんのせいで、兄さんのせいで私は、私は……!」

「──ッ、それは、責任転嫁にもほどがあるだろう!」

 とうとう本当に怒った兄さんが、私の頬をバチンと平手打ちした。
 突然の一撃で私の視界は大きく動き、いつの間にか床や壁に近い目線になっていた。
 ……何もかも私が悪い。覆しようのない事実を前にどう言い訳しようかとか、どうやって自分のせいじゃないようにしようかと考えていた。
 『ネガイノエキス』を買い続けることが出来なくなってしまったら、私は私でいられなくなってしまう。
 この半年間、あれを飲み続けたことが影響して私はあれがなければ、この【アヤメ】という人格が保てなくなる。
 私はどんな性格で、どんなことを喋って、どんなことで笑って、どんなことを好むのかも、全部『ネガイノエキス』がないと覚えていられない。

「アヤメ……! 僕は、僕はもう君を気遣えないし、庇えない……絶対にやっちゃダメなことを、君はしたんだ!」

「……っ、ぁ……だ、って……だって……」

 口の中を切って、唾液と共に血を吐いた私は、まだどうにか出来るかもしれないと、被害者の立場になれるかもしれないと思って口を開いた。
 『ごめんなさい』って言っても許して貰えないなら、こうやって言い訳するしかないから。
 けれど、言い訳なんて今までしたことなかったから、私の口からは言葉が出てこなくて。

「もういい、もう何も言わなくていい。君に反省する気持ちが芽生えるまで、僕は君と話さないよ」

「っ、ぁ、待……っ、て……」

 兄さんの強い怒りが込められた目が私に向いてきて、私は何も言えなかった。
 それで、私に対してのお説教は、兄さんに一任されていたらしい。
 目の前で無様に転がる私を見て、父さんたちはただ一言だけ、冷静に、冷酷に告げた。

「あなたの部屋にあった、あのくだらない薬。まとめて処分しましたからね」

「お前は家の恥さらし、末代までの恥だ。成人までの面倒は見てやるが、成人したらすぐに縁を切ってやる。これ以上俺の一門に迷惑をかけるな」

 二人はどこまでも冷たい目を、家族とも何とも思わない目を私に向けて来た。
 ──あぁ、もう私、誰にも必要とされてないんだ、もう、いらない子なんだ……。

「オダマキ、助けて……!」

 部屋に戻って、すぐにオダマキに電話をかける。
 人助けが大好きなあの子なら、まだ私を見捨てずにいてくれるかもしれない──!

『もしもし?』

 電話の向こうに出て来たのは、聴きなれたオダマキの声ではなかった。
 けれど、オダマキの声に似ている……彼女のお母さんだろうか。
 
「もしもし、あの、私、えと、オダマキさんと、同じクラスメイトのアヤメです」

『あぁ。あなたが例の子ね』

「れ、例の……?」

『あなたのために、って言ってうちの娘が休む日もなくずーっと働き続けていたのよ。
おかげでまだ若いのに過労なんかで倒れて……挙句、あなたは娘の稼いだ給料の全部を使って、変なもの買ってたそうじゃない。
人の娘を何だと思ってるのよ。もう金輪際、うちの娘に関わらないで頂戴』

「ぁ、ぇ、ま、待っ、て……!」

 私が喉の奥から声を絞り出そうとすると、電話が切れたことを知らせるようにツー、ツーと電子音が鳴る。
 その場にへたり込んで、私は体中の力を抜いた。
 そして、頭の中も、お腹の中も、胸も……皆、何もかもを失ったような虚無感が支配してきた。
 『ネガイノエキス』で抑え込んできた絶望が、瞬く間に私の体を支配してきた。

「誰か、私を……殺して……」

「二人とも、大丈夫かな……」

 私──スミレは、雨の降る外を教室の窓越しに眺めながらつぶやく。
 今は授業も終わった休み時間、ちょっと前までならアヤメやオダマキと一緒に三人で仲良くお喋りをしていたはずだ。
 けれど、今はもう三人で会話をすることも空き教室に集まることすらなくなった。
 アヤメが『ネガイノエキス』を使用する頻度は増えていって、最初の頃は『元気になるため』に使っていたのに、今はあれがなければ『普通』のアヤメらしくなることもない。

「オダマキ、アヤメ……どうか、元の関係に戻れないかな……」

 バイトを連日増やしていたどころではなく、バイトをいくつも掛け持ちして内職までして……ロクに睡眠もとれずに働いていたオダマキは、とうとう倒れて入院してしまった。
 アヤメは『ネガイノエキス』を摂取し続けて、段々と情緒が不安定になってくることが多くなって、急に怒ったりネガティブになったりするのは、空き教室どころか授業を受けている時ですらそれが多く見られて、今は三日ほど学校を休んでいる。
 だから、そんな二人と会うこともなく、一人ぼっちな私はセンチな気分になって窓を眺めていた。

「ん……アヤメ……?」

 スカートのポケットの中に入れていたスマホが、突然ブーブーと振動を鳴らし、何かの通知を出してきた。
 ソレを見ると、アヤメから一通のメールが届いていた……件名は──『バイバイ』。

「ッ!」

「スミレさん!? もう授業始ま──」

「ごめん、ちょっと急がないと!」

 私は跳び跳ねるように立ち上がり、駆け足で教室から飛び出していた。
 他の生徒たちが止めに来るのもおかまいなく、私は真っすぐ空き教室に向かった。
 どうか、間に合いますように!

「アヤメ……アヤメッ!」

 空き教室の引き戸を強く開け放ち、彼女の名を叫ぶ。
 そして私は、直視したくない現実と対面してしまった。

「あ、アヤメ……? な、なにしてるの……? なんで、なんでそんな危ない真似してるの……? ねぇ、なんで……アヤメ、ねぇ、アヤメってば……」

 首に縄を巻き、宙吊りになった彼女は私の言葉に応えてくれない。
 健康的で肉付きの良かった体は細くなっていて、明るい肌色は青白くなっていて。
 彼女の体重に耐えきれるほど強くなかった縄がブツリと千切れると、アヤメは受け身も取らずに床に投げ出された。

「が、学校休んだはずなのに、なんでいるの? ねぇ、アヤメ……寝てちゃダメでしょ……アヤメ、ねぇってば……こんな痩せて、しばらく音沙汰なくて……ねぇ、アヤメってば」

 彼女の体をゆすろうと、声をかけようと、叩こうと……もう、彼女は応えてくれない。
 その現実を認めたくない、これが事実であるはずがないと私の脳が必死に抵抗する。
 けれど、世界は私一人の抵抗を無慈悲にも押しのけて……アヤメが、もう物言わぬ体になってしまったのだと伝えて来た。

「あぁ、あああああ……! あああああああ……! うぅぅぅっ、くっ、っ、あ……あああああああああああああああ──ッ!」

 涙と嗚咽の交じった私の叫びが、空き教室中──いや、校舎中に響いた。
 すぐに異常を察知した先生方や、野次馬のような生徒たちが次々に空き教室に集まって来る。
 彼らの悲鳴が次々に発されるが、私の耳にはそんなもの届いていなかった。
 私の大切な日常を彩るアヤメが死んでしまった、私はその出来事を受け入れたくなくて。
 アヤメから私を引き剥がそうとする先生たちの手を押しのけようと暴れて、必死にアヤメの体を抱きしめようとしていた。
 そこからの記憶は、よく覚えていない。

「……私、何がしたいんだろ」

 ガタン、ゴトンと揺れ、人のいないガラガラな電車の中で、小さく呟く。
 肩にかけた鞄の中から取り出した財布には、たった2万円しか入っていない。
 家にあった私のお小遣いを全部出して、私はどことも知れぬ地に逃げていた。

「警察や先生も、ここまでは来ないかなぁ……」

 警察の事情聴取も、先生たちからの質問責めも、マスコミのインタビューも嫌になった私は、家から飛び出していた。
 町のネットカフェを転々として、お金を稼ぐ手段も持たない私は、出来るだけお金を節約しながら旅をしていた。
 もう、制服を着て空き教室で三人のお喋りをすることも何もない、空虚な日々だ。
 今もこうして電車でテキトーな駅まで時間を潰していて、なんとなく降りたくなったら電車を降り、適当な街をフラフラと歩いている。
 今度は結構人の多い街で、巨大な交差点と巨大なモニターが駅のすぐ近くにあったので、私はそこでぼーっとしていた。

「ハハッ、幸せそうだなぁ。あの人……」

 私と大体同い年くらいか、女子高生二人が大きなモニターに映っているアイドルを見てはしゃいでいる。
 いや、正確には片方がはしゃいでいて、もう片方が『あんたも好きだね』ってちょっぴり呆れている感じだ。
 ……けれど、友達同士って感じで楽しくしてて、羨ましいな。

『僕は家族──妹の事情とかで、ライブを欠席してしまうことが多くって、それがグループの迷惑になってるってことはわかるんです。
でもやっぱり、家族一つ大切に出来なきゃ、大勢のファンも大切にするも何もないよなって思います』

「何が家族を大切にだよ、バーカ」

 二人の女子高生たちが見上げていたモニターに映っていた、どこかのアイドルグループの男の言葉にそう返していた。
 何て名前だか知らないけれど……ただ、そんな綺麗事に対して私はムキになりやすかった。
 綺麗事でどうにもならなかったから、アヤメは……私の友達は、死んだんだ。

『それでは続いてのニュースです。先日報道された青少年行方不明事件の被害者、オダマキさんが昨晩遺体で発見されました。なお、遺体に外傷はなく──』

「……え?」

 もう一度モニターを見上げた時には、オダマキが顔写真が名前と一緒にテロップで表示されていた。
 なんで、オダマキまで。

「なんで、なんで……!」

 私はすぐにスマホを開いて、オダマキからのメールやチャットの文章を遡る。
 アヤメが死んだ日から、私はオダマキからの連絡も家族からの連絡も全て無視していた。
 だから、三週間以上皆から鬼のように届いていたメールや電話の欄をかき分けて、オダマキのメールなどをチェックしていく。

『私のせいで、アヤメが命を絶つようなことになってしまった。
だから、私は私でケジメをつけるために、ネガイノエキスの製造元の【メイアングループ】ってところに抗議しに行ってみる。
もしスミレがこのメールを読んでるなら、出来れば協力して欲しい。お願い。メイアングループの場所は突き止めてるから』

「っ、え、お、オダマキ……うそでしょ……?」

 オダマキが、遺体で発見されていた。
 それで外傷がないっていうのは、まさか……この、メイアングループっていうところに抗議しに行った結果なのか。
 そういう証拠があるわけでもないのに、私の中ではその図式が出来上がっていて。

「っ、うあああああああああああああああっ! あああああああああっ!」

 両手で髪の毛を強く握りしめて、私は叫んだ。
 通行人たちが振り返って一斉に私を見つめだすけれど、私は視線を気にしている暇なんてなかった。
 膝から崩れ落ち、その場で地面に伏していた。

「なんで……! なんで、私ばっかり、こんな目に……!」

 理不尽なんてものじゃない、なんで私の大切な人が二人も死んでしまうんだ。
 二人とも、大切な私の日常に欠かせない人なのに……替えなんてない存在なのに。
 私の人生を彩る、大切な友達だったのに……!

「なぁお」

「……っ、ぁ……なに……?」

 涙を流して伏していると、さっきまでそこら辺にはいなかった──と思う猫が、私の頬を伝う涙を舐めていた。
 涙を舐め終わって満足したと思うと、猫は私の顎を頭でどつき始めた。

「っ、ぅぇ、な、なに、た、立てばいいの?」

「なぁ」

 猫がそう言っている気がして、私はなんとか立ち上がった。
 すると、猫は『こっち来い』と言わんばかりに歩き始めた。
 私はただ、もう失う時間もなにも惜しいものはない──と、そう割り切って猫の後ろを歩き始める。

「にゃぁ」

「……人に優しい道を歩いてくれるんだね、君は」

 猫というものは猫専用の道を歩いていくものなのに、この猫は人の私が通るための道を歩いてくれている。
 ……どこかの飼い猫で、調教でもされているんだろうか。

「なぁ、にゃぁ、ふにゃっ」

「……ここ?」

 しばらく歩いたと思うと、猫はどこかコーヒーの香りのする建物──よく見ると喫茶店だった。
 そこでぴょんぴょんと跳び跳ね、ドアを開けろと示すように鳴き始めた。
 ……なんだか不思議な雰囲気で、見ようによっては怪しさも感じ取れるようなお店だ。

「……ま、いいか」

 お金はまだあるし、何より惜しいわけでもないし、水一杯で千円取られるようなお店だったとしても、別にいいか。
 と、私はドアのノブに手をかけて、扉を引く。
 カランコロン、と鈴の音が私を祝福するかのように鳴る。

「いらっしゃい。さぁ、どうぞ座って。今の泣き腫らした顔をする君に合うコーヒーはこれだ」

「……あなたは」

「私はこの喫茶店のマスターさ。特に、君みたいな人物に縁のある、ね」

 何を言っているかよくわからない人だったけれど──この人は、なんだか不思議な雰囲気の人だった。
 『喫茶・ブルーベル』。このお店のマスターだというこの人は……なんだか、全てを見通すような目をしている……と思った。
 猫と花とコーヒーの香りが充満するこのお店は、なんだかいるだけで少しポカポカしてきたから。

「『ネガイノエキス』って、知っていますか」

 思わず、その質問を投げかけていた。

「あぁ、それなら……知っているよ。多分、君の知りたいこととも、一緒にね」

「……なら、教えてください。私の友達を、二人も奪った……それについて」

 彼が『ネガイノエキス』について知っているのならば、私は全てを話すことを決意した。
 正体のわからないあの薬が原因で私たち三人の運命が大きく狂わされた、この話を。


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