芥川龍之介「蜘蛛の糸」を読んで 残酷な現実を表す蓮の花

自分が今、どんなに苦しくても、それとは関係なく世界は周り続ける。

芥川龍之介 「蜘蛛の糸」を読んでこの感覚を思い出しました。

「蜘蛛の糸」は地獄で生活する主人公の男の元に、一本の糸が天から降りてくるお話です。この糸を登り切れば地獄から逃れることができる。男は自分一人だけでも逃れようと必死に糸を登ります。しかし途中で下から他の罪人もぞろぞろと登ってきてしまい、結局糸はその重みで切れてしまいます。

 最初から、他の罪人に声をかけて、一人ずつ糸を登っていけば、全員がこの苦しい地獄から逃れられました。それを主人公は自分だけ逃れようとしたために、逃れることができませんでした。「蜘蛛の糸」は、独りよがりになることは良くないという教訓が描かれている小説だと感じます。

ここまでが主な内容ですが、
実はこのお話は、お釈迦様が上から地獄を見ているという設定で描かれています。事実、お釈迦様が蜘蛛の糸を上から地獄に垂らしています。

 お釈迦様が井戸の下を覗き込むかのように、下に広がる地獄を見ていました。また、その時、お釈迦様の周りには蓮の花が良い匂いを発しながら煌びやかに咲いていたそうです。この蓮の花は、地獄とは反対に、煌びやかな極楽を表現するために描かれているように感じます。

 お釈迦様は蜘蛛の糸を蓮の花の間から垂らし、主人公の一部始終を見ていました。

 「蜘蛛の糸」では、主人公の男の浅ましい行動を見て呆れるお釈迦様の様子が描かれているのですが、それだけでなく実は周囲に咲く蓮の花についても描写が描かれています。以下、その一部抜粋です 。

しかし蓮は、少しもそんな事には頓着致しません。その玉のような白い花は、御釈迦様の御足のまわりに、ゆらゆら蕚を動かして、そのまん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好い匂いが、絶間なくあたりへ溢れております。」

 教訓にはさして関係のない蓮の花がなぜ描写されているのか。筆者はここに少しの疑問を感じました。 

 主人公はせっかくのチャンスをもらえたのにそれを活かせず、
また地獄へ戻ってしまいました。
しかしそんなことを意にも解さずに蓮の花はキレイに咲き続けています。

自分がどれほど苦しくても、世界はまるでそれはどうでもよいかのように回り続ける。お釈迦様の周りに咲く蓮の花はそれを表現しているのではないかと思いました。

 苦しい自分に寄り添ってもくれず、蓮の花はキレイに咲き続ける。
当たり前だと言われればそれまでなのですが、現実は残酷であると感じる瞬間でもあると思います。

みなさんもこのような感情を抱かれたことはあるのではないでしょうか。

ただ、暗くなっているだけにもいきません。発想を転換させればよいのではないかと思います。

蓮の花は蓮の花で勝手に咲いています。
ならばよい意味で投げやりになって、自分も自分で
好きなことを前向きにやっていけばいいのかもしれません。

そうすれば今度は自分が、
蓮の花のようにキレイに咲きほこっているかもしれません。

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