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田園風景と農地の未来 〜農業エトセトラ〜

以前の投稿でも、農作業をしている自分自身が風景の一部になっている事について触れました。
特に都市部にお住まいの方々が田舎に来ると、農村の風景について言及されることが多いかな、と思います。
私が他地域の農村を通りかかったときなどは、
「よく管理された畦だな」
「あの機械は何の作業をしているのかな」
「何を作付けしているのかな」
といったようなことに目が向きがちです。
職歴のせいで、ホテルや観光バスや学校などなどを見かけても色々思いを馳せがちですが。。。

四季折々に田畑で作業がされていて、色々な作物がパッチワークのように景色を彩っている風景、とても好きです。
北海道の美瑛町に行ったとき、丘陵地に麦やら芋やらさまざまに作付けされている景色を見て、感動したのを覚えています。
同時に、雄大な農地を見て、「北海道の作付けを真似するのは不可能だなぁ」とも思いました。
農地のありようが違い過ぎるのですね。
それにしても、その農地を維持管理している農家の努力は、北海道でも私の暮らしている地域でも同じです。
旅人である通りすがりの方々は、その景色に感動するだけでなく、維持管理している居住者の方々へのリスペクト、敬意を忘れてもらっては困りますね。
美瑛町では田畑への無断侵入やゴミ投棄が問題になっているそうで、農家の方々の観光地化への賛同のあるなしに関わらず、観光地化された田園地帯というのも良いことばかりではないようです。

『日本の原風景』ともいわれたりする農村の田畑について思うのは、今、田畑を維持管理している多くの高齢農業者が去ったとき、相続人は田畑をどうするのかな?ということです。
空き家問題が取り沙汰されていますが、同時に農村では耕作放棄地問題を抱えています。
耕作放棄の原因の一つには、相続問題もあるわけです。
農家をしない相続人にとって、農地を相続しても宅地より安価とはいえ固定資産税が増えるだけです。
2024年4月1日から相続登記が義務化されますが、そうしたとき、相続人にとって不要な農地はどうなるのだろう、と度々思いを馳せています。
太陽光パネル設置で不労所得を狙う方向に舵が切られなければいいのだけれど、と自分ではどうにもならないことを懸念していたりします。
相続人の都合に他人が口出しできないのは承知なので。

山間部の農地などは捨てる、とか、農地の利活用の方法を変えて、といった意見も見られます。
山間部の農地は、農地としてだけでなく熊などの山の生き物との境界線も担っていたわけで、山間部の農地が無くなることは、山の生き物と都市との境界線がもっと近づくことになるのではないでしょうか。
稲作に偏向してきたかも知れませんが、田んぼは河川の維持管理に一役買っていたのではないかと思いますし、稲作農家は水利費を税金として支払ってきたので、その税負担がなくなったときに河川の維持管理費は誰が担うのか、など考えることがたくさん出てきます。

今はただ、考えては途方に暮れの繰り返しですが、高齢農家が田畑から去る日は遠くない未来のことで、だからといって農家の大規模化だけが解決策ではないように思ったりするのです。
田園風景が田園風景として、旅人の心に触れるのであれば、それは地域の共助の賜物なのではないかと思うのです。
その共助の努力は、農地の大規模化で失われはしないかな?
農家だけでなく地域の後継者がいなければ共助のしようもないのですが、そこに住まう人たちで風景というのは維持されているのだよね、と思うのです。
そこに住まう方々で維持されてる風景、農村であれ漁村であれ都市であれ、敬意を持って大切にしたいと思います。

答えのない問いかけになってしまいましたが、そんなことを考えている今日この頃です。
最後までお読みいただきありがとうございました。

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