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私の仕事

はじめはシンプルにお金が欲しかった。
幼馴染Kの家は、小さくて自分の家と大差ない感じで、左官屋さんだったおじさんは昼間うちにいる時は顔が赤くてお酒の匂いもしてた。
だから、有名大学をストレートに出て大企業で働く自分の父親はなんかKの父親より偉いみたいな気がしてた。だからなんなのかはよくわからなかったけど。
そんなKは月末辺りとかに、父親の軽トラの荷台に兄弟で楽しそうに揺られながら、「焼肉バンバン(?)に行くの!」とよく言っていた。そしてKの家にはエアコンがあった。
家だってうちは建て替えもして新しいのに、Kはなんかいつも楽しそうに思われて、そしてうちにはエアコンはなかった。
ただそれだけのことだったんだけど、芸能界のオーディションを受けた理由は、Kの家のエアコンを頭に浮かべて、賞金でエアコンを買おうということだった。
当時から39年後の自分がこんな事を書いているのは、肝心のエアコンを日常的に使うようになれたのは、本当に最近のことじゃんと気付いたから。コロナ禍になってからのことなんじゃんと。エアコン買うためだったのに、当時はそんな事全く思い出さなかったんだ。
オーディションの用紙を持ってきたのはそもそも姉だったのだけど、その姉もエアコン買わないのかとは1度も言ってこなかった。
その事を1ミリも思い出さないうちに実家はまた建て替えをして、エアコンは当たり前のように設置されていた。

出会う人の思いや感情、思考、それらに感化されたりして、それで興味の向くままに迷う事なくお金を使っていた。そうして形になった仕事から、更に新しい発想や価値観に出会ったりした。芸能界だったから可能だったんだと思う。言いたい事を言えたのは。
あそこにいた自分にとっては、仕事=プロフェッショナルだった。
仕事の何かに"ノー"と言うには、代わりに差し出せる何かが必要だと言う事を教えられた。

こういう風にいつの間にか楽しいような厳しいような事を始めていたので、みんなどうやって就職したり、やりたい仕事に出会うんだろうと思ってた。

芸能界の人々、特に楽曲を作るような方々は本当に魅力的な方ばかりで、そういう方々に負けない自分を作る事に毎日必死だった。
でも、そういう方々はみんな、そもそもベースが違ってた。
当時の自分は勉強なんか嫌いで、芸能界のような煌びやかな世界の人々も、勉強なんて堅っ苦しいことよりもっと楽しい事ばかりやっているのだろうと、勝手に勘違いしていた。
魅力的な方々は意外な事に、しっかり大学を出ていたり、何かについて職人並みに詳しかったり、人の事なんて気にならないくらい好きな何かを持っていたりした。
なら私には何があるんだ?と自問自答し続けた結果、何にもないからこれから一つのことだけ、誰にも負けないくらい一生懸命取り組んでみようと思い、「お芝居のお仕事だけさせて下さい」とマネージャーにお願いしてみた。マネージャーは協力してくださった。
だから余計に焦る気持ちもあったけど、こうして一生懸命やって何も結果が出なかったらもうやめようと心の中で決めてた。
色んな小劇場にお芝居を1人で観に行っていたので、舞台のお仕事を入れてもらえた。
そうして出会った役者さん方も、やっぱり自分とは何かが違うと感じられ、どうしたらあんな風にバーンと全身全霊で役に飛び込めるんだろうと、もどかしくて仕方なかった。38度以上の熱があっても稽古に行って笑われたりした事もあったのに!
それでも賞をいただいたことがきっかけで、ドラマや映画のお仕事に集中できるようにはなっていた。
一つ一つ、演出家の力を借りながら乗り越えて行ったけれど、納得出来たことなど1度もなかった。
そんなつもりなかったのに結婚した元夫もお芝居をしていた。
だから元夫には、人に相談できない色んなこと、お芝居の悩みを、気の済むまで言葉にすることが出来た。
結婚したことが、逃げたようにも感じられて、逃げたと思われてるんじゃないかって、いや逃げたんじゃない、今はこれが必要なんだと、またまた自問自答ばかりしていた。
頭の中が"仕事仕事仕事仕事仕事♾️"ってなっていたのはなんでだろうか?
結果的に、"元夫との共同生活"に、初めてバーンと飛び込めたんだと思う。
そこでは全て自分の感じるままに判断して動いて毎日を紡いでいたわけだから。
失ったものも多かったけど、新しい経験も山程あった。
思うように芸能界のお仕事が出来なくなり、兎に角何でもいいから働いてないと落ち着かず、近所の工場でパートをしたり、出来る仕事をあれこれ探しては試した。面接の時に、同じ定時制高校を出たという面接官の方に会った時には、思わず時がワープしたりして、ほんのひと時心が温められたりして。それは先に進む元気を足してくれたりして。
そうして試した中にはヘルパーの仕事もあった。無資格で出来るお手伝いさん的なものだったけど。
それでもどうしても気持ちが「ここじゃない」と訴えてきた。試した中では1番心が動いていたのに。
この間に出産もしていたから、利用する側で登録していた有償ボランティアのベビーシッターに、改めて登録もした。

震災後、当時の私たちは地方に越したので(それには多くの葛藤があったのだけど)、仕事しなきゃともがいてた時の引越しで、土地勘も知り合いもない中、一旦そういう仕事探しは中断みたいになった。
ご近所のお母さんがバトミントンに誘って下さり、そこで出会ったお母さんが品物に絵を描く内職を紹介してくださった。
絵を描くのは好きだったし、以前から描いたりしてたので夢中になっていた。内職でも単価が高く、家計の足しにもなったのだけど、これだけをずっとやって行く自分は想像つかなくて、楽しかったのにどん詰まりな気がして。
マネージャーには仕事で生じた感情はその仕事場に返すと教えられ、確かにそうだよなと思っていたので、夫に生じた感情は夫に返すのも当然だと思っていた。実際その通りなのだろうし、多くの"妻"がそうしているであろう、そのまま夫に返しては家庭がうまく回らないので、行き詰まった自分はそれを元義母に返していた。
そうしたら元義母はヘルパーの資格を取ることを勧めてくれたのだった。資金援助付きでのお勧めだったのは、経済的に余裕のある元義母に内心助けを求めていたからだと思う。求めよさらば与えられんとは本当のことだと思った。
それから10年近く経った現在、夫は元夫になり、義母も元がつくわけだけど、今となっては全てのことを有難く感じている。
芸能界には感謝と不甲斐なさ。
同時代からずっと活躍されてる方々や、若い才能には尊敬と応援の気持ち。
今は敢えて積極的に芸能界の仕事に拘らず、ヘルパーの仕事を楽しんでいる。
「ヘルパーは女優なのよ!」との先輩ヘルパーの言葉には思わず笑ったけど、当たらずとも遠からずの部分も感じてる。負け惜しみみたいだけど!
キッザニアが出来た時や、13歳のハローワークという本が出版された時には、"やっぱりそうだよね!必要だよね、そういうの!"なんて、訳知りな気持ちになったけど、結局は『人』なんだな、と心底感じている日々なのだ。

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