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思い出したのはあの風景だった

先日、とうとう自分にもその時が来た!と思うことがあった。
"その時"とは、「あともって3ヶ月ですね」と、ドラマなどで目にするあの場面の"その時"です。
生まれた時から皮膚科にはお世話になっていたようで、成人してから以降、そこの受付に行く時には病院へ来ている感じがしない。買い物しにスーパーに行ってるのと同じような感覚だ。
それでいつものように、手の薬を出して頂きたく先生に見て頂くと、血液検査をしていいかと言われたので、「はい」と答えた。
次回手の様子を見せに行きつつ結果を聞いた。
先生が、手の様子なんかそっちのけで、検査の結果を務めて冷静に伝えようとされる感じで、ある数値が高いので、専門の病院紹介するので、診てもらった方がいいと思うと言われた。
"こうげんびょう"って、漢字で"抗原病"だと思った。先生の口からそれを聞いた時に。"膠原病"は知っていたけど。
数値だけ見ると、確かにバカ高いので、二つ返事で病院を紹介していただいた。
うちに帰ってから、こうげんびょうって、あの膠原病かぁ、とわかり、突然わーっと泣いてしまった。
その時に浮かんだのが、子どもの頃、毎年母が連れて行ってくれた母方の叔父さんの家がある大洗海岸の風景だった。

叔父さんの家を出ると、目の前には広くて長ーい坂道が、海岸までばーんと伸びている。
行きは下の坂道なので、初めからずっと海を見下ろしながら、でも陽炎立つアスファルトに沢山張り付いてる干からびたミミズにも気を取られながら、ずんずん降りていくのだ。
自分は4姉妹の3番目なのだけど、2番目の姉とは、一緒に色んなことをしてきている。
ある夏にはその海で遊び過ぎたのか、2番目の姉と同時に高熱を出して、2人で病院に連れて行かれた。でっかいブドウ糖の注射器を見て、2番目の姉は泣き叫んで抵抗したので、それを打たれたのは自分だけだったのだけど。当時10歳くらいの少女としては、パンツ下ろされてお尻丸出しでうつ伏せでスタンバイさせられるのは屈辱的だった思い出なんだけど、2番目の姉は後で大笑いしていた。
台風の後に海岸に行くのが楽しみだった。必ず綺麗な貝殻が沢山拾えたから。
叔父さん宅から海岸へ行く道はもう一つあって、坂を下らずに、坂上の方から海岸へ出る行き方もあり、入り口辺りには鳥居があった。綺麗な貝殻が沢山拾えるのはそちら側の海岸で、近くにはどこかの企業の?保養所なんかもあった。キャンプ場もそちら側にあったけれど、そういう事柄は自分の知らない世界だった。
自分は膠原病でとうとうその時がやってきたんだ!と思った時、自分にとって一番輝いていた風景は、沢山の面白おかしい思い出を作ってくれたあの大洗海岸だったのかーと、意外ではあるが、納得もいく。あんなに無心で自然と戯れていられたのは、あの海岸であり、あの環境だったんだなぁと、しみじみ思った。
専門の病院で検査した結果、すぐに命に別状あるってわけではなくて、ガクッとしたんだけど!
当たり前のように、自分のベースになっていたあの風景に、これからはより一層感謝しつつ、他の沢山の大事な出会いや思い出にも恥じないよう、残りの人生しっかり楽しもうと思います。

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