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離婚道#14 第2章「般若と小面」

第2章 離婚ずっと前

般若と小面

 入籍後の平成15(2003)年3月、桜が開花したころ、近くの八幡神社で、雪之丞と私は地味に結婚式を挙げた。新婚旅行などなかったから、神前式での三々九度の夫婦盃――これが唯一の結婚の儀式だった。
 儀式といえば挙式後まもなく、私たち夫婦は「いってらっしゃい」の儀式をするようになった。
 きっかけは、新宿のデパートで開催された「熊崎光雲能面展」。案内状が届き、夫婦で初日に出かけたのである。
 会場に着くと、主催した美術商の小野崎がササっと雪之丞のもとにやってきて、来場の謝辞を述べた。小野崎とは、すでに何度も会っていたし、デパートのレストランで一緒に食事もしている。小野崎は一度見たら絶対に忘れない顔で、寅さんのような四角い輪郭、一重の目は指で左右に引っ張ったようにひきつれ、いつもにやけた表情を見せる。能面でいえば、「生成なまなり」という般若になる前のまだ強くない、中途半端な鬼の形相に似ていた。
 重要無形文化財保持者の能面師、熊崎光雲は生前、全作品を小野崎に預けたため、「熊崎光雲能面展」を開催できるのは小野崎の特権らしい。雪之丞の「猩々」も、小野崎から譲ってもらったものだった。
 会場には20点ほどの能面がかけられ、それぞれの下に、小野崎が筆書きした解説が貼られていた。
 私は「小面こおもて」に強く惹かれた。
 解説文には「能の女面の代表。あどけなさを残した可憐で美しい若い女性のお面です」とある。価格は250万円。
 さすが、人間国宝の「小面」である。
 熊崎光雲作の「小面」は、これまで見てきたものとは別物で、野暮ったさが全くなく、いっそう高貴で清らかな顔をしていた。
 私が「小面」に関心を示していると見定めた小野崎は、すぐに雪之丞にすり寄った。
「先生、こちらは熊崎先生の『小面』の中で最後の1点なんです。今日は火曜で展示会の初日ですが、間違いなく、土日で買い手がつきますし、ひょっとすると土日を待たずに売却済になるかもしれません。『小面』は若くて賢い女性の象徴です。長く独身でいらした先生が、若くて賢いまどかさんのような女性と結婚された記念に、この『小面』をお持ちになったらいかがでしょうか」
「小面」の説明として、本来なら「若くて美しい・・・」というところ、「若くて賢い・・」と美貌を省いたところが巧妙で、見え透いたお世辞のいやらしさを軽減していた。さすが商売人だ。
「そうですか。最後の1点ですか。これ、いただきましょう」
「ありがとうございます。先生が『熊崎光雲展』の初日に、若い奥様といらっしゃったというのも意味がありますね。熊崎先生の最後の『小面』は、吉良先生のところにたどりつくことになっていたのでしょう。ご縁ですね」
「まったくその通り。私にはよくそういうことがありますよ」
 2人の会話を横目に、私は雪之丞が高価な能面を即買したことに言葉を失っていると、商売人の小野崎は、黙っている私を気づかう話題に変えた。
「しかし先生は、素晴らしい女性と結婚しましたね。奥様が吉良先生を尊敬していることはよく分かります。夫婦喧嘩なんてしないでしょう?」
「ええ、まどかは私よりも20歳も年が下ですから。それに記者として社会で活躍した経験もあり、わきまえていますから、喧嘩にはなりません」
 雪之丞に外で少し褒められると嬉しい。自由がなくても頑張ろうと思えた。
 小野崎はよほど羨ましいと思ったのか、この話題を続けた。
「うちは夫婦喧嘩をすると、毎朝、家を出る時に仕返しされるんですよ。いつも出勤する際は玄関先で奥さんが火打ち石をして、背中をポンと叩くのですが、喧嘩をした後は、切り火をした後の背中ポンが強烈でしてね。痛いのなんの」
「そうですか、小野崎さんの奥さんは、毎日火打ち石で送り出してくれるんですか」
「ええ、そうですよ。結婚して30年間、毎日」
「それはいい習慣ですね」
 雪之丞は、私に向かって言った。
「まどか、いい火打ち石を調べてごらん」
 小野崎の横で、私は「はい」と返事した。
 
 1週間後、「熊崎光雲展」が終了し、小野崎が雪之丞の事務所「雪花堂」にやってきた。購入した「小面」の納品である。私も雪花堂に呼ばれた。
「『小面』と、面を貼り付けて飾るための能面額を持参いたしました」
 小野崎は、うやうやしく持参した風呂敷包みを開いた。桐の箱には「無形文化財保持者 熊崎光雲作」と書かれ、落款らっかんが押されていた。小野崎が箱の中から有職ゆうそく文様もんよう(※⑰)の袋に入った「小面」を取り出して見せると、私たちはしばらく鑑賞した。
「それとですね、奥様、これを」
 小野崎はデパートの紙袋に入った小さい包装を私に差し出した。
「え? なんですか?」
「奥様、どうぞ開けてみてください」
 包装紙を開くと、木箱に中に「メノウ」と書かれた石と火打ち鎌が入っていた。
 あぁ、これが火打ち石か……。
「吉良先生が先日、まどかさんに火打ち石を買うように指示されていましたから、これは私から奥様へのプレゼントです」
 商売人としての抜け目のなさに恐れ入った。
 小野崎に教わり、左手に火打ち鎌を水平に持ち、右手の火打ち石を鎌のエッジ部分を削るように向こう側へ打ち滑らせてみた。すると〝カチ〟と音がなり、火花が前方に飛んだ。
「へぇ~、これが火打ち石ですか……面白いですね」
 雪之丞も満足そうにしていた。
 それ以来、
「先生、いってらっしゃい」
〝カチ、カチ〟
 私は毎朝、玄関先で切り火を打って雪之丞を見送ることになったのである。
 
 私たちは毎年、「熊崎光雲展」に行き、小野崎のすすめで能面を買った。追加購入したものは、「般若」と「獅子口ししぐち」。
「般若」は高貴な女性が憤怒と嫉妬に狂った時をあらわすもので、2本の角と大きく裂けた口をもつ鬼女の面。小面よりも高く、300万円だった。
「獅子口」は、獅子が全身を使って舞い踊るおめでたい能の『石橋しゃっきょう』で用いる面で、大きく口を開き、牙をむき出しにした迫力ある面相をしている。彫が精緻で勢いがあり、作者熊崎光雲の優れた技巧が堪能できる面で、350万円の高級品であった。
 その後、雪之丞が「獅子口」にも「般若」にもなる日がくるとは、買った時は考えもしなかった。そして、このような高価な美術品が、離婚時の財産分与として争点になるなんて、露ほども思わなかったのである。
 
※注釈
有職ゆうそく文様もんよう 平安時代以降、公家の装束や調度、建築などに使われてきた伝統的文様。連続文様や定型文様が多く、優美で格調高く、日本の文様の基本となっている。小葵こあおい幸菱さいわいびし、亀甲文、唐草文、立涌たてわく窠文かもんなどがある。

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