見出し画像

離婚道#31 第4章「相談その3 別居計画」

第4章 離婚へ

相談その3 別居計画

「久郷先生、良きアドバイスをありがとうございました。先生に代理人をお願いします」
「わかりました。一緒にがんばりましょう」
 相談時間は1時間を超え、午後3時を過ぎた。
 前日のうちに「小あじの南蛮漬け」を作り、家を出る前に「餃子」の餡を作ってきてよかった。あとはデパートで刺身や野菜を買って帰り、チャチャッと2、3品加えればいい。久郷弁護士はあと少し話せるという。だが、5時までに買い物をして帰宅するためには、少し急がなければならない。
「さきほど暴力の件では裁判したら慰謝料がとれるという話が出ましたが、吉良の仕事柄、スキャンダルは避けたいです。私が調停をちらつかせた時、吉良は協議離婚で決着しようとすると思うのですが、どのように離婚協議をすすめればいいですか?」
 私のこの質問を、久郷弁護士はずいぶんとんちんかんに感じたらしい。憐憫れんびんの情というより、今度は呆れるような表情になった。
「まどかさん、ご主人のような人とは協議不可能だと思いますよ」
「はぁ・・・・・」
「まず、ご主人から何度も離婚話をされ、いつもまどかさんの意見をきかず、話し合いになりませんでしたよね。まどかさんから離婚話をしたら、ご主人は激怒すると思いますよ」
「・・・・・そうですね」
 それは容易に想像できた。
「まどかさんがご主人に『代理人弁護士を立てましたから協議しましょう』と言っても、同じです。まどかさんが同居して夫婦生活を続けていれば、協議はできないと思います。ご主人がまどかさんを窃盗犯だと決めつけ、理不尽な条件で離婚を迫っている今、家を出るチャンスなんですよ」
「ということは、協議のことも、久郷先生のことも言わず、まず、黙って家を出るということですか?」
「モラハラやDVから身を守るというのは、そういうことなんです。突然、予告もなく家を出るしかありません」
 夫が帰宅すると、家財道具とともに妻が消えていたなんてドラマの場面を見たことがある。
(怖い・・・・・)
 想像しただけで、怖気づいていた。
 私が突然、家出したら、気位の高い雪之丞は、これ以上ない侮蔑と捉えるだろう。「般若」の面が浮かび、背筋が凍った。
「先生……あのう、ものすごく怖いんですけど、突然家を出ることのほかに方法はないでしょうか?」
「そうしないと、身を守れないし、解決しないと思います。まどかさん、結婚前は、新聞記者だったことを思い出してください。何度も言うようですが、結婚前の自信と勇気を取り戻してください」
「そうなんです、先生。私は、本当はこうじゃなかったんです。誰からも束縛されず、自由だったんです。男の嫉妬ってものすごく陰湿ですが、会社でどんなに意地悪されても、紙面で勝負してやると思って、自信を持って仕事していたんです。私の企画連載が書籍化されたこともあるんです。先生・・・・・私は、本当は、もう一度、書く仕事がやりたいんです」
「できますよ。いまの生活から抜け出して、自由に書けばいいじゃないですか」
「私、もう50歳になるんですけど、まだ書けますか?」
 弁護士にするような質問じゃないが、恐怖心の連鎖が止まらない。思わずそんな不安まで吐露してしまう心境だった。
「まどかさんのお話を伺っていて、ずっと思っていたんですけどね、ご主人との辛い結婚生活は、まどかさんにとって意味があったと思いますよ。それは、まどかさんが書く人だからです。お話を伺う限り、かなり特異な人物との結婚生活でしたが、辛いことばかりじゃなくて、だれもができない貴重な経験もして、身に着けた教養もあるじゃないですか。それらを全部材料にして、書けばいいじゃないですか」
 心が動いた。
 久郷弁護士は低いトーンで話し続けた。
「私の座右の銘は『転んでもただで起きない』です。一生懸命に生きていれば、失敗しますよ。転びますよ。そんな時、どう立ち上がるかが大事だと思っています。転べば痛いですし、ぶざまで恥ずかしいですが、痛みを知るのは貴重な経験だと思います。問題は、転んでいることに気づかない、あるいはそれを認めずにいることです。実は転んでいるんですから、立ち上がらないと。現実をしっかり受け止めて、どう立ち上がり、どう転んだ経験を活かすのか、です。結果的に、転んでよかったと言えるような生き方をするしかないと思います」
 ――その通りだ。
 久郷弁護士の言葉が身に沁み、体中を血液のように流れ、心身が熱くなった。
 弁護士の熱弁は続いた。
「私自身、結婚に失敗して、いま本当に大変ですが、転んだ経験は必ず離婚弁護士としての仕事に活かせると信じています。実際にいま、まどかさんの苦悩に共感しながらアドバイスできて、『転んでもただで起きない』を実践中です。まどかさんは、将来の作家として、すべての経験を『いただきました』の精神で受け入れてください。マーガレット・ミッチェルはちょっとわからんですけど、夢は大きく、山崎豊子を目指しましょうよ」
 思わず笑みが出た。
 結婚の失敗を再認識すると心が痛むが、弁護士の言葉に励まされ、心の中は泣き笑いである。
「先生、ありがとうございます。私、がんばります。今度こそ本当に、自分が夫に支配されていたこと、よく理解しました。まずは納得できる離婚。その後はできるかどうかわかりませんが、遅咲きの作家デビューを目指して、がんばります」
「ここにきて、初めての笑顔ですね。よかったです。笑えない人に笑ってもらうのが、弁護士やっていると、本当に嬉しいんですよね」
 もう般若になる雪之丞を怖がってなどいられない――と心を強く持った。
 私は久郷弁護士に、具体的にどのように動くべきか尋ねた。
「家を出るXデーを決めて、それまでにやるべきことをやりましょう。まずは、住む場所を決める。実家じゃダメです。モラハラ夫は『出て行け』と怒鳴り散らすくせに、本当に妻に出て行かれると『勝手に出て行った』と大騒ぎします。連れ戻しに来たり、何度も電話したりして、妻に上手いこと言いますから、妻が家に戻ってしまうパターン、結構あるんですよ。自宅からも離れた場所で部屋を決めてください」
 来月、家を出よう。
 そういえば3日前に雪之丞に離婚を迫られた時、「1カ月間で家を出る準備をする」と話題にしている。ひと月後に私が家を出ても、道理に外れた行為ではない。
「Xデーは来月10日にします。母の誕生日なんです。結婚に猛反対し、ずっと離婚をすすめている母親もこれで安心すると思います。20日が私の誕生日なので、50歳の誕生日は次の人生のスタートにしようと思います。あと1、2週間で、住む場所は決めたいと思います」
 ひと月の間に、何をすればいいのか――。久郷弁護士の指示をひとつひとつ箇条書きにして手帳に記した。
 
<家出までにすべきこと>
○新居を決める
○必要書類のコピー → 久郷弁護士の事務所に送る
 雪之丞と雪花堂の通帳(できれば全部)/雪花堂の決算書や会計資料/京都マンションの権利書、契約書/純金購入時の領収書/雪之丞が自費で買った商品の領収書
○写真撮影
 金庫(サイズも測定)/婚姻中に購入した美術品
○大事なものを実家または新居に移動する(バレないように少しずつ)
〇Xデー時の簡単な置手紙を用意
 
 これらの作業を計画的に実行しなければならない。財産分与という妻としての権利を主張するため、離婚後の自分の人生の基盤を作るため――である。
 また久郷弁護士は、今後、雪之丞との会話は全部録音するように指示した。
「暴言を吐かれても、怖がらず、『いただきました』と思えばいいんです」
 と、「いただきました」のところで右手を小さくガッツポーズしてみせた。
「会話を録音してるわけですから、ご主人が髪を掴んできたり、物を投げたりした時は、必ず大きな声で『痛い!』と叫んでみてください。今日からXデーまでは、暴言も暴力も『いただきました』の気持ちで乗り切りましょう」
「わかりました。方向性がはっきり見えてきましたから、もう大丈夫です。不自然にならない程度に、暴言や暴力をもらえるようにしてみます」と言ってみたら、自然と片方の口角が上がった。
「いま、まどかさん、悪い顔しましたね~。その調子です。その意気込みで、乗り切ってください。そして、度を超えた暴力を受けたら、すぐに警察に連絡してくださいね。警察に届けることも裁判では有利になりますから」
 そうして、弁護士との代理人契約書と委任状を作成した。
 久郷弁護士への支払いについては、
「初回相談料は無料。着手金として30万円+消費税、成功報酬は離婚成立後の財産分与額など経済的利益が300万円以下なら16%、300万円を超え3000万円以下なら10%+18万円、3000万円を超え3億円以下なら6%+138万円、3億円を超える場合は4%+738万円」
 とのことだった。
 人生に関わる離婚の指南を受けるのだから、納得の金額である。弁護士の成功報酬が増えるように、久郷弁護士にはできだけ財産分与を頑張ってもらいたい。
 気分よく相談を終えようとした時、またも、ふと、心にさざ波が立った。
「先生、私が突然いなくなったら、夫は困るでしょうね。食事のことも、着物の手入れも、全部私がやっていますから」
「お気持ちはわかりますが、モラハラ夫に情をかける必要はないんです。まどかさんが作り置きのおかずを冷蔵庫に入れて旅行に行った時、ご主人は藤田と葉山に行って、ずっと外食してたんでしょ?」
「はい。せっかく作ったカレーも煮物も捨てました」
「ご主人はお金もあるし、なんとかやりますよ。いまは自分を守ることが最優先です。まどかさんに出て行かれて苦労するとしても、それはご主人の自業自得です」
「はい、そうでした。でも、これからは、夫が仕事に出る時、家で火打ち石を打つ人がいなくなるんだなと思ったりして・・・・・」
「火打ち石? 何ですか、それ?」
「『行ってらっしゃい』の儀式です。吉良家では毎朝、私が玄関先で、火打ち石を〝カチカチ〟と打って、夫を送り出すのが習慣ですので」
「へぇ~、今どき、そんな家、あるんですか。まるで時代劇ですね……あ、それですよ! まどかさんの場合、自分に火打ち石を打って再出発です。『転んでもただで起きぬ』ならぬ『こけたところで火打ち石』ですよ!」
「ハハハ・・・・・。先生、面白いですね~」
「あ、まどかさん、ここに来て、初めて声を出して笑いましたね。その調子です。新居が決まったら、連絡ください。あ、ここの事務所ですが、私が引き取って、夫には出て行ってもらう方向で協議しています。私が離婚しても事務所は変わりませんから、安心してください。『上野さくら』という事務所名は、上野公園がさくらの名所だから付けた名前ですが、私の桜子という名前にもちなんだ名前なんで。なにか困ったことがあったら、遠慮せずに事務所に連絡くださいね。がんばって!」
 約90分の相談を終え、久郷弁護士とはかたく握手をして別れた。
 まさか、これほど心が軽くなって法律事務所を出ることになるとは思わなかった。良い離婚弁護士というのは、優秀な心理カウンセラーなのだろう。
 外に出ると、太陽がまぶしい。上野駅近くの花屋の店先には、ゴッホの絵のような派手なヒマワリの束がバケツに入れられていた。なんだかおかしくて励まされた。
 すぐ隣の不動産屋で立ち止まった。私は少し胸を弾ませながら、物件情報をチェックしていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?