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離婚道#26 第3章「惜別」

第3章 離婚前

惜別

 吉良まどか、お前に女として、人としてのプライドはないのか!
 ――読者の方は、藤田奈緒が登場した時に、私が雪之丞に見切りをつけるべきだったと思われるかもしれない。あるいは、その後の雪之丞の非情で非人道的な振る舞いに対して、耐えるなんてどうかしているとの感情を抱くかもしれない。
 私も当然、納得できない思いに駆られた。
 シンプルな嫉妬の感情も湧いた。私より20歳も若く、美人でもない女に夫が夢中になっているわけだから、47歳、中年女になった私へのひどい仕打ちではないか。
 しかも、藤田が登場する前の2年間、私をさんざん浮気女として扱い、虐め続けた。私の浮気の相手というのは、全く実態のない雪之丞の妄想の中の男に過ぎなかった。
 対して雪之丞の場合、浮気と呼べるかどうかはウラを取ってないから不明だが、具体的に相手がいる。40歳も年下の弟子に夢中になっているなんて、納得できなかった。
 そして、結婚14年――自分の人生を振り返った時のなんともいえない残念な気持ち。・・・・・私はバカみたいに無私の精神で雪之丞に尽くしてしまった。
 雪之丞と出会い、新聞記者の仕事を捨て、雪之丞を精一杯支えた。その選択は、いったい・・・・・。私は自分自身をもっと大切にすべきなのではないか、そのためにどうすればいいのか・・・・・。
 現実的なことを考えれば、47歳で仕事を始めるのは厳しい。仕事をする場合、書く仕事しか思いつかない。それしかできない。しかし雪之丞のゴーストライターとしての執筆以外、何年もしていない。年齢も大きなハンデである。全く自信がない。
 子供のいない人生だから身軽かもしれない。その半面、離婚しても、経済力のある夫から養育費がもらえないわけで、経済的にはやはり厳しい。
 さまざまな葛藤が交差し、思い悩んだ。嫌になるほど悩みぬいて、やはりもう雪之丞とは一緒に生きていけない、もっと自分を大切にすべきだ――次第にそう思うようになった時、それどころではない出来事が起こったのである。
 父、進の病気であった。
 
 父のがん罹患りかん歴は長い。
 最初は平成14(2002)年の暮れ、私が雪之丞と結婚した直後だった。定期健診で初期の食道がんが見つかった。
 父は、経営する「アキバ電工」から近いお茶の水の大学病院に入院し、食道がんは内視鏡手術で切除した。その後、リンパ節転移が判明したが、約1センチ大のがんを経過観察したまま、何年も過ぎた。すると原発がんの切除手術から12年後の平成28(2016)年秋、定期健診で、長い間1センチ大だった転移がんが4センチまで急拡大したことが判明したのだ。
 父に自覚症状はとくになかったが、主治医のすすめで、翌29年1月に腹腔鏡手術でリンパ節がんは除去した。
「完全に取りましたから、放射線も抗がん剤も必要ありません」
 医者は自信をみせていたが、数カ月後、リンパ節のがんが再発し、すでに4センチに大きくなっているという。
 医師のすすめで抗がん剤治療を行った。お茶の水の大学病院に入院し、シスプラチンと5-FU併用療法(FP療法)を2クール行ったが、下痢の副作用がひどく、全く効果がなかった。そのため、抗がん剤を変更。ドセタキセルとネダプラチン併用療法を3クール行ったところ、わずかにがんが縮小したものの、副作用で味覚障害がひどくなった。
「まったく味がしねぇ。何を食べても、泥を食ってるようだ」
 父は食欲がなくなり、苦痛を訴えた。
 主治医は「少し縮小したがんを叩くため、放射線を併用しましょう」と提案したが、父は嫌がった。
 父は入院する度に、明らかに体力が衰えていった。抗がん剤の副作用で免疫力も低下している。効果より副作用が大きい治療のために、ただ入院して生きているより、生活の質を重視したいとして、父は「もう治療をやめたい」と言った。食べることが好きな父にとっては、薬の副作用で食の喜びを失ったことは、この上なく辛いことだったようだ。
「父は長くないから、親孝行させてもらいたい」という私に、雪之丞も「その方がいい。私は昼、外食するようにするから」と理解を示してくれた。
 そのため私は、週に3回は船橋の実家に帰り、父の入院中は毎日のようにお茶の水の病院に通った。私がこれほど外出できたのは結婚後初めてのことで、好きに親の面倒をみさせてもらえたのは、皮肉なことだが、藤田のおかげかもしれなかった。
「家族で旅行に行こうか。ちょうど金婚式だからさ」と父が提案した。
 父と母は昭和42年に結婚し、平成29(2017)年が結婚50周年だった。
 雪之丞に相談すると、「旅行してこい」という。
 父は抗がん剤治療を中止し、平成29年10月、父と母、兄と私の家族4人で北海道旅行に行った。家族旅行は子供のころ以来で、30数年ぶりだった。
 父は痩せて体力はなかったが、本当に楽しそうで、満足そうだった。
 
 平成30(2018)年2月、医師から「余命3カ月」と告げられた。
 私が父にできる親孝行は何かを考え、父の個人史を作成することにした。
 ネット検索し、「親ブック」という個人史作成会社を見つけた。通常、専属スタッフが取材執筆を行って親の個人史を完成させるようだが、父には残された時間が短いこと、また私自身が取材執筆したいことを告げ、レイアウトと製本だけをやってもらう契約をした。
 私は猛スピードで、父の生い立ち、サラリーマン人生、50歳から全力投球した「アキバ電工」について取材した。
 すると、この取材の中で、私は初めて「アキバ電工」に3億円もの借金があることを知ったのである。あろうことか、自宅が抵当に入っていることも!
 家族全員、会社の借金の存在は知っていたが、父は家族に心配させないよう、その額を話していなかった。会社の景気が良かった時、父は同業者を助けるため、借金をして知人の会社を買収した。だが、買収した会社が利益を生むことはなく、その時の借入金が残ったままになっているという。
 余命というタイムリミットがあるから、急いで父の個人史を執筆しなければならない。
 それと並行して、私は急ピッチで「アキバ電工」の借金問題、後継者問題にも取り組んだ。父や会社の役員たち、税理士との協議を重ねた。父が面倒をみた役員たちの中に、3億の借金のある会社を継いでもいいという者はひとりもいない。だが、会社の経営は毎年わずかに黒字だから、会社を維持して、社員たちの生活を守らなければならない。結局、父の死後は、兄が形だけの社長となって借金を背負う話をまとめた。
 ただ、その間も、前述したように、雪之丞は不安定で、不機嫌な時は私にあたる。
「千葉へ帰れ」「お前はいらない」という暴言、そして暴力的な行動。この時期は、本当に辛かった。
 父の個人史が完成したのがその年の8月、「余命3カ月」の宣告から半年後であった。タイトルは「アキバ電工に捧げた人生 寺尾進の76年」――。
 もう父はほとんど食べ物が食道を通らなくなり、がんは肺や肝臓、腰の骨にも転移し、歩くものままならない状態だった。それでもなんとか出来上がった個人史を父は満足そうに手にした。
「いいじゃん、よく書けてるよ。まどか、これをお父さんの葬式で配ってくれ」
 最期は自宅で――と父は希望していたが、自宅で立とうとして転倒、頭を打ってケガをしたため、10月、御茶ノ水の大学病院に入院した。
 緩和病棟が空き、「明日、病室の引っ越しだよ」と言っていた前日の10月27日、父はいよいよがんの痛みに耐えられず、もがき苦しみ、医療用麻薬を打つことになった。
 とたんに意識が落ち、医師から「明日までもたないだろう」と聞かされた。
 夜は病院にいないといけないと判断した私は、一旦帰宅して雪之丞の夕食を作った。というのも、その日は土曜日で、雪之丞は翌日のゴルフのため、千葉で泊まりの予定だったからだ。泊まりのゴルフの際は、自宅で夕食を摂ってから、タクシーと電車でゴルフ場近くのホテルに向かうというスケジュールだった。
 私は雪之丞に夕食を食べさせながら、父の意識がなくなったことを説明し、今夜が山だからこれから病院に向かうと告げた。父の入院中、一度も見舞いに行っていない雪之丞は、そのような緊急時でも「ゴルフはやめようか」などとおくびにも出さず、夕食後、いつも通りホテルへ向かった。
 そうして父は、翌28日朝、逝ってしまった。
「まどかは泥棒なんかする人間じゃない」――。無条件に私を信じてくれる人が、ついにこの世を去ってしまった。悲しくてどうしようもなかった。
 余命宣告後、父とはいつも「アキバ電工」の今後のことばかりを話してきた。その中で父は、「お前、離婚して、アキバ電工の社長やるか?」と一度だけ言ったことがあった。私が答えに窮したため、この話は終わったが、多額の借金を遺し、私の結婚生活を心配したまま、父はあの世に逝ってしまったのだ。
 父が亡くなった日、携帯電話を持たない雪之丞からは、一切連絡はなかった。ゴルフ場に電話することを禁止されていたから、私から雪之丞に伝えるすべはない。雪之丞は、私の父が危ないと知っていながら、通常通りゴルフをして帰宅した。父の死を告げると、「そうか、寺尾さんは亡くなったか・・・・・」。これで話は終わった。
 通夜と告別式は、実家近くの船橋の斎場で行った。父と最後の別れに、約300人もの人が来て、涙を流してくれた。小松政男をもっと好々爺こうこうやにした笑顔で写る父の遺影の横には、父の遺言に従い、個人史を山積みにした。
 雪之丞は通夜にだけ顔を出した。
 雪之丞が入院中の進を一度も見舞わなかったこと、進が息を引き取った日もゴルフをしていたことを、寺尾家の面々は知っている。それでも母妙子は「本日はわざわざありがとうございました」と雪之丞に頭を下げた。雪之丞は遺族席に姿勢よく座った。終始近寄りがたいオーラを発し、まるで貴賓のような態度だった。

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