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小説無題 #16 行方知れず


 柳の弁護士である奥村唯人は頭を抱えていた。

 実際のところ仕事用のデスクに座って肘をつき、左の拳を眉間に押し当てているだけなので物理的には頭を抱えていない事になる。『頭を抱えていた』というのはつまり奥村にとって吐き気がするような出来事が起こったという意味である。

 奥村弁護士の個人事務所は高田馬場にあり、一階に焼き肉屋を構えているビル三階の、八畳ワンルームのオフィスだ。
 現在オフィス内に居るのは奥村一人だけだった。本来であれば三十代半ばの女性事務員がいる事もあるのだが、その事務員は先週から産休をとっていて居ない。すべての業務を奥村一人でこなしている状態なのである。

 だが奥村が頭を抱える理由は『一人で仕事をこなすのは大変だ』とか『誰も居なくて寂しい』だとかその程度のことでは無かった。これまでも事務員が休みの日は一人で全ての業務をこなしてきたし、以前居た法学部志望の男子浪人生が辞めて今の事務員が入るまでの三ヶ月もの間(一年ほど前のことだ。繁忙期と奇しくも重なってしまった)は睡眠時間を削りながらも遅滞なく服務を全うした(しかし最近では仕事ひとつひとつのクオリティや健康面を考慮して抱える案件自体を少なくしている)。これまでそうだったようにこれからもそうなのだろう。一人で仕事をする事はできるが、キャパシティに余裕をもつ為に事務や経理業務の一部をフリーエージェントに委託し、成果報酬を支払う。事務員は週二日だけ出勤し、のこりはリモートワークで成果物をクラウドに飛ばす。
 これまでの事務員達は出勤日を振り替えて推し活をしたり、旅行に行ったり、オンラインゲームのイベントに集中したりしていた。そんな自由気ままな人達に対して奥村は特に干渉も否定も肯定もしなかった。彼等には彼等の人生があり奥村には自分のすべき事がある。
 そして今、『奥村のすべき事』が奥村に頭痛とストレス性胃腸炎を引き起こそうとしていたのである。

 奥村が今すぐすべきこと。それは被告である柳とコンタクトを取ることだった。
 北海道へ出発すると羽田空港からの柳の電話連絡から一週間経ち、事前に聞いていた予定では既に帰宅しているはずなのに柳からの連絡は一切無かった。今しがた柳に電話をかけたが繋がらず、三度かけ直したが結果は同じことだった。この現状こそ奥村が頭を抱える原因なのだ。

 奥村は別件の仕事もしていたし、柳の事を全面的に信用していたからこそ柳の旅行を容認し、定期連絡を要求せずこちらからもむやみに電話を掛けなかった。なので完全に油断していたと誰かに避難されても奥村は何も言い返す事が出来ないだろう。
 心配事の九十一パーセントは実際には起こらないからあまり心配する必要がないとはよく言うが、想定外のトラブルは人を最悪な気分にさせる。
 いったい何が起こっているというのだ? 柳はどこで何をしている? 奥村は柳の行動を推測する為、ここ最近の柳の様子を思い返してみた。彼の表情、言動、生活習慣や身なりについて出来るだけ詳細に。 
 確かに最近、柳の様子がおかしくはあった。だが彼の事情を勘案すれば致し方なく、妥当であるとしか言いようがなかった。だからこそ一時的にでも世俗から離れる必要性を奥村は感じていたのだ。

 だいいち柳が失踪したと確定した訳では無い。携帯電話を道に落として交番に届けられ、遺失物として警察本庁のロッカーに整然と陳列されているのかも知れないし、充電が切れているだけかも知れない。もし何がしかの理由で携帯が使えないのであれば、その旨を如何なる手段を使ってでもこちらまで伝えてくれよとは思う。
 あるいは事件や事故に巻き込まれている可能性もある。その場合、結果的に死亡しているという可能性も。

 もし事件や事故であるならば… もしそうであるならばどれだけ気が楽になるだろう、あくまで不可抗力であって『自らの意志で逃げた』ので無ければ。奥村はそう思うと同時に依頼人の不幸を望む弁護人としての自分に嫌気がさした。しかしこれは仕方の無い事だ。人間は法の下の平等を目指しており、法を犯したり、逃げたりする者を赦す事は出来ない(ただし法も完全とは言えないので悪法からは被告を守らなければならないと奥村は考えている)。

 奥村はデスクの上でしばらく頭を抱えていたが、何か思い立ったように急に立ち上がりそそくさと洗面台へと向かった。
 洗面台の鏡を覗くと、ややあどけなさが残る青年の顔が不安そうにこちらを見ている。奥村はその意気地の無い青年の顔に両手でビンタを食らわせ、冷水でざぶざぶと顔を洗った。

「俺は絶対に負けない。俺なら出来る。俺は優秀な人間だ」

 奥村は目を閉じたまま独り言を三度呪文のように繰り返した。そして浅くなっていた呼吸を深く、ゆっくりとした呼吸に意識的に戻した。高鳴っていた心拍が落ち着きを取り戻していく。そのさまをじっくりと観察してみる。それからゆっくりと目を開け鏡を見ると、冷静で自信家な青年の顔が涼しげな微笑みをうかべていた。
 決して嘘偽りではない。奥村は優秀な人間だったし、これまで困難を何度も乗り越えて来た。その事を脳に再認識させ、身体を正常な状態に戻しただけのことだ。子供の頃から過呼吸症候群に悩まされてきた奥村だが、この独自のケア方法を編み出してからは発作を抑える事に成功している。『自分を律することが出来ている』という成功体験が、さらなる自信と強いメンタルの源泉となり奥村という人間をより優秀な人間たらしめている。兎にも角にも行動あるのみだ。

 奥村はタオルでごしごしと顔を拭き、コートを着てスマートフォンのアプリでタクシーを呼んだ。

 まずは柳の家に行って状況を確認しなければならない。

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