小説無題#9真っ白な空間
気がつくと柳は真っ白な空間に居た。その空間がどの程度の広さなのか全く検討もつかない。なんせ見渡す限り真っ白であり、かつ満遍なく光が行き届いているのか陰影も見当たらないのだ。見下ろすと自分の肉体はしっかりと確認出来る。しかし足は着地している感覚は無く身体は軽かった。試しに手足を動かすと何かしらの抵抗があり動きづらい。それはまるで水の中で動いている様だった。けれど息苦しくは無い(意識的に呼吸をしてみたが息が出来ない訳では無かった)。柳は平泳ぎの要領でくうを泳いだがその事によって前に進んだのか後退したのか、はたまた上昇したのか下降したのか全く分からなかった。そもそも頭上が上で足元が下なのか検討もつかない。位置や方角なんてのは相対的な情報に過ぎないのだ。自分ひとりだけの世界にそのような情報は必要ない。柳は何だか馬鹿らしくなって動くのを辞めた。有名な話ではあるが昆虫のノミを容器に入れて蓋をするとやがてノミは容器の高さ迄しか跳べなくなると言う。本来は高く跳べる能力があるのにこれ以上高く跳べないと諦めてしまう。ネズミだって同じだ。水槽にネズミを落とすと、ネズミはしばらく脱出を試みるがある時点からぱったりと動きを止めてしまう。それは柳も例外では無い。
『まるで俺の人生みたいだ』
柳は途方に暮れながら思った。みんな必死に足掻いたり藻掻いたりしてるけれど一体何処に向かっているというのだ?
しばらくすると巨大な手が迫ってきた。その手は手首から先しか無く白い手袋を嵌めている。なのでかなり接近して来るまでその存在に気付く事が出来なかった。その手は素早く柳の上に被さりすっぽりと手の内に包んだ。勿論抵抗など到底出来ない程の巨大な手だ。宙を漂う柳にとっては尚のことだった。巨大な手の内は白一色だった柳の視界を深い闇に変えた。ここには一切の光が届かないようだ。柳は一度目を閉じ、そして開けたがどちらも真っ暗な事に変わりなかった。ただ自分が目を閉じ、そして開けたと感じただけだ。根拠を問われたら答えるまでに少し時間がかかっただろう。指でまぶたの動きを確かめてみたがどうやら正常に動作しているらしい。
柳は暗闇の中で状況を整理してみた。自宅のソファで眠りにつこうとしていたが、気づいた時には真っ白な空間に居た。しばらく宙を泳いでみたものの、何の変化も見られなかった。それから巨大な手が迫ってきて柳を包んでしまった。
これらの状況を客観的に観れば柳はソファで眠りに落ち夢を見ているという結論に至るだろう。しかしその結論に至るのは早いと柳は思った。いや恐らくこれは夢なのだろう。だがロシア帽の男は現実世界で柳を追ってきたと言うのか? 現実世界──即ち皆んなが現実と認知している世界──に虚構が紛れ込んでいる事は柳も理解しているつもりだ。だが視覚情報として受け取ったロシア帽の男の姿はとても虚構だとは考えられなかった。もしくは今も夢の中にいて現実世界も実は夢なのかも知れない。出来ればそうであって欲しかった。
目の前は真っ暗なままだ。色を持っているはずの自分の身体も闇の中では色は有って無い様なものだ。幾ら目を凝らした所で完全なる闇の前では色を見分けることなんて出来ない。そんな絶対的な暗闇のなかで色彩を与えることが出来るのは想像力だけだった。柳は昼過ぎに訪れた喫茶店とその店主を思い浮かべた。年季の入った一枚板のカウンターテーブル、店内に落ち着いた光を届けるシャンデリア電球、棚に飾られ、首を傾げたままのルイ・アームストロングの首振り人形、いつも無愛想な中年親父の店主。柳はいつもの席で煙草を吹かしながら熱々のブラックコーヒーを啜っている。ちょうどその時、入り口の鈴が激しく鳴った。誰かが乱暴にドアを開けたのだ。柳は反射的に振り返ってその人物の姿を捉えた。それと同時に柳は息を呑んだ。入り口に立っていたのはロシア帽の男だったのだ。しかもそれだけでは無い。男は軍服を身にまといカラシニコフの自動小銃を構えている。
「ちょっと待て!」
柳は両手を挙げながら叫んだが、既に遅かった。激しいマズルフラッシュと連続した破裂音が鳴り、ほぼ同時に銃弾が空を裂きながら柳のすぐ近くを通過した。柳は素早くカウンターの下に身を伏せた。早い連射速度でばらまかれた銃弾は木製のカウンターテーブルを幾度となく貫通した。しかし反動を制御出来ていないのか狙いが定まってない様だ。飛んできた銃弾の幾つかがシャンデリア電球を破壊し、食器を割る。その連続した破壊音の中で店主が悲鳴を上げた。撃たれたのか? しかし柳も危機的状況にあって店主の事を気にしてる場合では無い。だが直ぐに銃撃は止んだ。ロシア帽の男は排莢口を覗き込みながら乱暴に銃を揺らしている。弾づまりを起こした様だ。柳はその隙にカウンターを飛び越え店主のもとへ向かった。
店主はキッチンへ逃げようとしたのか背を向けたままうつ伏せに倒れていた。一見無傷だったが、よく見ると頭から血を流している。柳にはそれが何を意味するのかが分かった。店主は死んだのだ。柳は医者という職業柄死と言うものを深く理解していた。勿論死と断定するあらゆる手順をすっ飛ばしてはいたが、柳はその霊的な死の予感をひしひしと感じ取る事が出来た。事実、店主の後頭部を撃ち抜いた弾丸はほぼ間違いなく脳幹を破壊している。
柳が店主のもとへ寄る暇も無くカウンターの向こう側では自動小銃を投げ捨てる様な荒々しい物音が聴こえた。そして足音が近づいて来る。冷静さを取り戻したのか足取りから苛立ちは感じられない。柳は息を殺しながらカウンターに身を寄せて丸まった。隠れる場所なんて無い。足音はカウンターのすぐ側まで来てぴたりと止んだ。それは不気味な沈黙だった。柳は恐る恐る顔を上げるとカウンター越しに男の上半身が見えた。細やかなファーに覆われたロシア帽、鷲の様に鋭い鼻、冷酷な蒼い目、たくましい右腕にはカラシニコフの自動小銃に変わりマカロフ製の拳銃が握られている。
次の瞬間、視界がホワイトアウトし、胸の辺りに強い衝撃が走った。まるで金属バットで力いっぱい小突かれたかの様だ。柳は胸を抑えると温かい血が吹き出しているのがわかった。──痛い──柳は痛みに耐えるかのように床に丸まった。
今の柳は余りにも無力だった。非情な銃弾の前に生身の人間は芋虫のように丸くなる事しか出来ないのだ。息も絶え絶えの柳の様子をロシア帽の男はただじっと見ていた。男の表情からはどんな感情をも感じ取れない。この殺人者には感情なんてものは無いのだ。──とその時、男の頬に一筋の涙が光った。それは薄暗い店内でシャンデリア電球を光源とする光だった。しかし男の表情に変化は見られ無かった。けれど確かに男の頬を伝った涙に間違いは無さそうだ。こんなしょうもない自分のしょうもない顛末を悲しんでくれているのだろうか? もしくはただ単に目にゴミが入っただけかもしれない。
「おやすみ」ロシア帽の男は言った。
銃声が鳴りもう一度胸に衝撃が走る。──誰か助けて──遠のく意識の中で柳は強く願った。
突如響いた機械的なベルの音で柳は目を覚ました。重い瞼をゆっくりと開けるとそこは何時もの自分の部屋だった。壁掛け時計は六時ぴったりを示している。柳は携帯のアラームを止めてゆっくりと身体を伸ばした。夢だと自覚していた筈なのにいつの間にか現実だと錯覚を起こしていた。安堵のため息をつくと同時に胸の奥に残ったわだかまりが柳を不安にさせた。きっと疲れているせいなのだと自分に言い聞かせ、柳は旅に出る支度を始めるのだった。
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