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小説無題#6入学式の日


 柳は九州でそこそこ名の知れた高校を卒業した後、上京して都内にある私立大学の医学部に入った。実家は決して貧乏では無かったし柳自身、学校の成績も悪くなかった。そんな柳は親の強い勧めもあり、医者になることが何時からか自身にとって夢と形容出来るものになっていた。
 大学の入学式の日、遅咲きの桜を横目に母親とキャンパスを跨いだ。せっかくのハレの日にも関わらず母は終始不機嫌そうに眉を寄せていた。後から聞いた話ではこの時、両親は離婚協議中だったらしい。柳は歳の離れた兄との二人兄弟で、柳が物心ついた時には既に両親の仲は冷えきっていた。もしかすると末っ子である自分が独り立ちするまではお互いに、いわゆる普通の家庭を演出してくれていたのかも知れない。
 入学式の会場に入ると、老眼鏡越しに母の神経質な視線が柳に注がれた。柳はそんな時いつも、自分が何か悪い事をしてしまったのかと身構えてしまう。しかし今回は違った。母は柳の曲がったネクタイを正し、髪のセッティングを直そうと手を加えた。今朝、鏡を見ながら自分で髪をセッティングしたのだが詰めが甘かったようだ。母はしばらく柳の髪をいじくり回していたが、鼻でため息をつき手を離した。何かが納得いってないらしい。それから『あんたしゃきっとしとくんよ』と言って軽く背中を叩いた。柳は小さく『はい』とだけ返事をした。
 柳は母と別れ、新入生の席に向かった。新入生の区画は学部もばらばらの自由席になっていて自分と同じ新入生とおぼしき一群は、真新しいスーツに身を包み、派手な髪色の人もちらほら居たが、皆一様に緊張した面持ちだった。既に席は殆ど埋まっていて、柳が一番最初に目についた空席に座った時、後ろの方でくすくすと笑う声が聞こえた。振り返ると、真後ろの席にボブカットの女の子が座っていた。どうやらその子が柳の方を見て笑っているのだ。何事かと思い柳は後頭部を触ってみたが原因はすぐ察しがついた。寝癖が残っていたのだ。柳の頭髪の一部が反乱を起こし、あらぬ方向に跳ね散らかしている。柳はさり気ない仕草で寝癖を直そうとしたが、癖が強すぎてこの場でどうにか出来る状態では無かった。もう一度その子の方を見るとさぞ嬉しそうに満面を笑みを浮かべている。その無礼者は髪をライトブラウンに染め、軽めの前髪を眉より上で切りそろえ、襟足をヨーロッパ貴族のように外ハネにしておきながら、柳の外ハネを笑っていたのだ。
「なんが可笑しいと?」
 柳はむっとして聞いたが、彼女は堪えきれないといったふうに噴き出すと、ひいひいと声を上げ笑い転げてしまった。
「寝癖、大変な事になってるよ」彼女が言う。
「知ってる、でもどうしようもない」
柳が言い終わるより先に彼女はけらけらと笑いながらパイプ椅子ごと後ろに仰け反った。まるで『忍たま乱太郎』に出てくる稗田八方斎のような笑い方だ。
「ごめんね、私笑いのつぼが浅いってよく言われるの」
 彼女はお腹を抱えたまま体勢を起こして言った。本物の稗田八方斎であればそのまま後ろに倒れて自力で起き上がれなくなっていたはずだ。彼女は言葉でこそ詫びたものの悪びれてるようには見えなかった。柳は煮え切らない感情のまま何度か小さく頷いた。するとその子はまたひいひいと笑った。柳はまたむっと来たがそこは割り切るしかない。今の彼女は箸が転げても可笑しいのだろう。
 そんなやり取りの間もなく入学式が始まったのだが、柳は全く式に集中する事が出来なかった。学長やら誰彼の話の間中、これからの学校生活に対する不安ばかりを考えていた。柳のような田舎から出てきた鈍臭い奴は、都会っ子の笑いものにされたままなのだ。そうなると夢に見た楽しい大学生活なんて夢のまた夢だ。いっその事地元の大学を選ぶべきだったのだ。しかし時計の針は時計回りにしか回ってくれない。

 式が終わった後、先程のボブカットの子が柳に話しかけてくれた。さっきの態度はさすがに悪かったと思っていたのかも知れない。その事で柳の不安は幾らか和らいだ。出身を聞かれ柳が答えると、彼女の母親と同じ地元だという。
「そういえば自己紹介まだだよね。私、清水美幸。よろしくね」
 彼女は簡潔に自己紹介をした。柳も手短に自己紹介を済ませた。
「清水さんは出身何処なん?」
「私東京。大学も実家から通うの」
 なるほどと柳は思った。どうりで笑っていられるのだ。生活環境の変化や独り立ちの不安ともあまり縁が無いのだろう。もちろん彼女自身悪気は無いようだ。専攻を聞くと看護学科だと言う。その日以降彼女とは学科は違えど関わっていくことになる。
 これが美幸との出会いだった。

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