「当たり前」の魔力
「これは人として当たり前のこと。」
なんだか最近、「当たり前」という言葉をよく聞く。
子どものころ、宿題を忘れるとか、何かいたずらをしたら、
「期限を守ることは人として当たり前だ。」
「人の気持ちを考えて行動することは、当たり前のことだ。」
何てよく言われたものだ。
私は、「当たり前」が大嫌いだ。
どんなに共感できる意見であっても、この「当たり前」の一言で、
なんだか急激に冷めてしまうのだ。
一方で、「当たり前」には恐ろしい魔力があるとも思う。
どんなに理不尽で非合理的な意見であっても、この一言でよりスタンダードで普遍的な事実のように感じさせられる力があるのではないか。
この「当たり前」にさえ従っていれば、人として最低限であることができるような、そんな甘い魅力もあるように感じるのだ。
そんなことを考えるようになったのは、ある動画を観たからだ。
都市伝説で有名な関暁夫氏。
彼は田母神俊雄氏の支持者らしく、先の東京都知事選挙に立候補した田母神氏の応援演説を行っていた。これはその時の動画である。
YouTubeを漁っていたときに、たまたま流れてきた動画。
普段の都市伝説を熱く語る様子をそのままに、応援演説をする関氏に面食らったが、
動画後半、取材に応じる関氏の口から「当たり前」という表現が実に5回も語られた。
関暁夫氏にかかわらず、最近、政治的発言をする場面にてこの「当たり前」という表現がよく使われている気がする。
「日本人として当たり前。」「家族として当たり前。」「公務員として当たり前。」
あらゆる意見はある個人または集団に不寛容でない限り、意見として自由に語られるべきであると思う。
しかし、どんなに自明性のあるように感じる意見でも、絶対的に信じつくされている意見であっても、それは「意見」なのだ。
私自身、政治的かそれにかかわらずあらゆる信条は、私が固く信じていようが、社会にとってそれは「意見」に過ぎないと自覚している。
この「意見」に「人として当たり前」なんて付くと、この世のすべての人間が当然に従わなければいけない要件になってしまう。急激に不寛容化するのだ。
まるで人が先天的に有しているもののように感じてしまう。
当たり前にあらずんば、人にあらず。
しかし当たり前でさえあれば、人であり続けることができる。そんな感覚になる。
今、あらゆる場面において「当たり前」が使われている。特に、発言力のある政治家やインフルエンサー。関暁夫氏もその一人だろう。
あらゆる者があらゆる意見に「当たり前」をくっつけて提供し、多くの人々がその魔力に誘惑されている。
そんな社会で良いのか。たとえどんなに完璧で美しい意見があったとしても、それが「当たり前」として扱われる社会は完璧で美しいのか。
互いに「当たり前」を主張する社会に、現代社会はなろうとしているのではないか。
互いが互いを「民主主義の崩壊だ」と主張し、自身と異なる意見をもつ者に対して「この国の人間ではない」などと揶揄する。
このような社会において、たとえどのような選択をしようと行きつく先は同じだ。
意見の性質が同じであっても、「当たり前」に包み込むことによって、対話が対立に成り下がってしまうように思う。
大切なことは、「当たり前」という主張を隅々まで疑うこと。
そして、自身にとっての「当たり前」を疑い続けることであると考えている。
あたりまえ体操って、いまでも結構面白いよね。
ジャカルタでは流行るだけあるわー。
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