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20240310 「LIGHTHOUSE」

正直なところ、見ていて困惑した番組だった。

かつて日陰ものとして若い時代を過ごしてきた星野源と若林。彼らふたりは、ここ10年ほどで日本を代表するクリエイターの立ち位置までのぼりつめた。彼らのような「成功者」が、成功者だからこそ持ちうる悩みについて吐露している姿はあまり見たことがない。その点では新鮮なコンテンツだった。

自分は今20代で、どちらかというと阿佐ヶ谷で過ごしていたころの彼らと似たような境遇にいる。似ているといっても、彼らほどの辛酸をなめているわけではない。現状にも将来にもぼんやり不安や不満をかかえているが、そこそこ幸せだ。

ただ、もしも自分が将来「失敗」したら当然つらいだろうし、かといって万に一つ彼らのような大成功を収めたとしても、その先には星野源のいう「大人になってもストレスが一向に減らない」未来が待っているのではないかという不安。この番組を見て、人生のネタバレをされたような感覚になった。

いや、どこに行こうがそこにはその場所のしんどさがあるだけで、結局のところ100%満ち足りた環境なんて存在しないのはわかってる。未来には未来のしんどさがあるんだろうけど、今はそれをあえてあまり見ないようにして、わざとぼんやりさせておきたい部分があった。そこにはイヤなことから目をそむけたい現実逃避的なニュアンスもあるけれど、今をがんばるためのモチベーションとしてとっておきたかったという理由もある。




個人的には若林も星野源も好き。若林のエッセイはぜんぶ持っているし、ANNも聞いていた時期がある。星野源はアルバムも著書も持っているし、新曲が出たら絶対にチェックする。
なんだけど、彼らのかかえる悩みとか苦しみそれ自体をコンテンツにする番組構造とはすこし距離をとりたいと思った。

その理由は、あの場で吐露される悩みに対して「わかる」と言わざるをえないクローズドな空間が演出されていたように感じたからだと思う。共感・同調しなければ仲間はずれにされてしまう感覚というか。番組のテロップとか演出とかがあまりにもよく見るバラエティ番組っぽすぎて、警戒してしまう。「なんかいい話」に持っていこうとしている感があって。

マジョリティから外れた「日陰もの」出身である星野・若林がこぼすグチやしんどさに共感できなければ、そこにすら自分の居場所をえられずにひとりぼっちになってしまうのではないか、と勝手に思った。

2人ともまあ、優しいし、相手の話を尊重してしっかり聞くということができている。できているがゆえに、「でも、俺はこう思う」とか「それはちがうんじゃない?」みたいな、さらにツッコんだ話にまではいかなかったように見えた。

いや、そもそも「相手の悩みに寄りそう」という趣旨であるはずの番組だから、構造上しかたないというのもあるんだけど。まず人には人のしんどさがあるので、それを他人がどうこう言うのは前提としてまちがっているというのもあるんだけど。

個人的なスタンスとして、映画でもテレビでも本でもなんでも、なにかコンテンツに対して自分の全体重をあずけて心酔するというようなことはしたくないというのがある。なにかを見たときに感動したり、心が動かされたりするというのはよくあることだけど、同時にそれに対して「自分のすべてを明け渡してたまるか」という勝手な抵抗心も生まれるからだ。人がつくったものに対して当然リスペクトはしているが、自分は自分だし、そのとき感じたことを自分以外のなにかにあずけたくない。
コンテンツから受けとったことを勝手に自己と同一化させて、それを自分が経験したことのようにしてしまうのは失礼で不遜なことのようにも思う。

若林と星野源がいうことに安易に同調したくない、という逆ばり精神に近いものが自分の中にある。彼らのいうことが本当だったのかどうかは、未来の自分が答えあわせしてくれることにしようと思った。少なくとも現時点では保留ということにしておいて。

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