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米津玄師「毎日」を聴いた

・米津玄師の新曲「毎日」がリリースされた。この曲は、昨年リリースされたシングル曲「LADY」の続編?姉妹作?に当たるものらしく、「ジョージア」のCMソングの担当も引き継いでいる。米津本人が手がけたジャケットもカラーリングが青→赤となっており、どことなくこの2作に関連性があるようにも見えてくる。


・個人的に、この「毎日」を聴いてまっさきに思い出したのは、BUMP OF CHICKENの「ギルド」という曲だった。「毎日」と「ギルド」の2作から見出せる共通点として、変わり映えのしない日常であったり、そこから抜け出せないループ感・閉塞感などの点をあげられると思う。

「それが全て 気が狂うほど まともな日常」
「夜と朝をなぞるだけの まともな日常」

BUMP OF CHICKEN「ギルド」


・一見すると歌われている内容やテーマ性は似通った両作であるように思えるものの、サウンド面に目を向けると、その相違点が大きく浮かび上がってくる。「ギルド」では、炭鉱での単純労働を想起させるような掘削音が延々とリピートしつづけ、藤原基央が感情を失ったように歌う様子からも、「うつ気味で、灰色な世界観」をイメージさせられる。しかし、一転して「毎日」では、かなりカラフルで、弾けたような情景が浮かんでくる音が鳴っている。聴いているだけで踊り出したくなるような曲だ。また、米津玄師のキャリアの中でも比較的ハイトーン気味で、はっちゃけたように歌われている。


・米津玄師の文脈でこの曲を語るとするならば、「LADY」でも歌われたような、「くり返しの毎日」がテーマのひとつとなっているように思われる。

倦怠感って、自分の今のモードと近しいところがあって。それなりに長く……自分の名前でやり始めてからは11年、Vocaloidを含めたら15年弱くらい音楽をやり続けてきた中で、やっぱり同じことの繰り返しになってくるんですね。曲を作って、インタビューを受けて、発表して、ある程度曲がたまってきたらアルバムを作って、ライブをする。やっていけばいくうちに、同じことの繰り返しになる。最初は新たな挑戦もあったし、今まで見たことのないものが周りにあふれていたけれども、それもだんだん固定化されていって、“いい具合の距離感”が固まってくる。それは安穏な生活ではあるけれども、刺激的ではない。そういうある種の倦怠感というのが、最近の自分の中に1つ、大きなものとしてあって。

米津玄師「LADY」インタビュー https://natalie.mu/music/pp/yonezukenshi22

「新しいことをやる」というのも、それもまたルーティン化していくんですよね。最近はピエロのように、落語家になってみたり、車に轢かれてみたり、いろんなことをやってきたんですけど、それもまた「新しいことをやる」というルーティンの1つになってしまっているんではないか、と。そういうふうに自分の活動を客観的に見ていると「果たして刺激的とは何だろう?」と、どんどん倦怠感を抱えていくようになっていって。

 米津玄師「LADY」インタビュー https://natalie.mu/music/pp/yonezukenshi22


・彼はキャリア初期の段階から「同じことのくり返しはつまらない」「変わり続けなければならない」というようなことを色んなところで語っていて、それは楽曲のスタイルにおいても思想の面においても有言実行していたことが見てとれる。しかし、そのように「変わり続ける」「新しいことをやる」ということ自体がある種のルーティーンになってしまう袋小路にハマった感覚をここ数年でよく語っている。


・もう一度この曲のサウンド面に着目してみると合点がいきやすい。イントロとアウトロ以外のパートでは、まるで「退屈」から脱出しようとするかのように、刺激的で、性急な展開の連続だ。「鼻じろむ月曜 はみ出す火曜 熱出す水曜 絡まる木曜」というフレーズでは、それぞれの曜日ごとになにかしらの事件・トラブルに巻き込まれている。なにも起きない平和な日常を送っているわけではない。仕事や日々のタスクに追われつづける現代人の姿を描き出しているようにも思える。しかし、そのような刺激的な生活自体が「何ひとつも変わらない」同じことのくりかえしになってしまうことが示唆されている。


・「歌唱法」にも注目してみる。「毎日」という曲は、この一曲だけでこれまでの米津玄師の「歌唱法」を総覧することができると思う。たとえば、がなり声。「KICK BACK」は発表された当時、それまでの米津のイメージを裏切るような「がなり声」が強く押し出された曲としてセンセーショナルな印象を与えた。しかし、ここ近年ではその歌唱法が多用されることが珍しくなくなり、もはや「米津印」のひとつとして認知され、新鮮さがなくなりつつある。そして、この「毎日」でも例にもれずがなり声がつかわれている。


・がなり声だけでなく、2番の「意味がない?くだらない?それはもうダサい?無駄で仕方ない?グダグダグダグダグダ」では、急ぎ足な譜割りと、パソコン上でエディットしたような単音ぶつ切り感からボーカロイドを想起させるようなフレーズに仕上がっている。また、曲中さまざまな局面でのぞかせる多種多様なボイスサンプルの手数の多さも、いわゆる「米津らしさ」のひとつであるはずだ。


・このように、あの手この手であたらしい刺激や変化を加えつづけ、飽きさせないような仕掛けや工夫をふんだんにとり入れてはみるものの、最終的には「この日々をまだ愛せるだろうか」と、最初のフレーズに戻ってきてしまい、すべてがそこに収束してしまうような抜け出せなさやループ性が感じられる曲となっている。


・この「毎日」は、いわゆる「さわやかな朝らしい」イメージがあるが、「LADY」がリリースされた当初は前作の「KICK BACK」のギャップも相まって同様に「新機軸」として新鮮だった。しかし、現在となっては「LADY」「さよーならまたいつか!」などの流れもあり、「さわやかな朝らしさ」はそこまで違和感がないものとなっている。


・ふたたび「ギルド」の話に戻るが、「ギルド」では「自分の殻に閉じこもっていること」などが原因となって「夜と朝をなぞるだけ」の灰色な日常をくり返してしまうことが示唆されていた。しかし、この「毎日」では、むしろ逆だ。殻破りで、新しいことしかしていない。それでも「同じことのくり返し」になってしまうのであれば、絶望はより色濃くなる。それを踏まえた上で、目の前の日常とどう向き合っていくか。


・また、かつて菅田将暉のラジオに出演した際に米津本人がオススメ?していたThe Cureの「Friday I'm In Love」と比較してみてもおもしろい。この曲もいわゆる「1週間ソング」である。「月、火、水、木、金、土、日」とそれぞれの曜日での気分の浮き沈みが歌われているが、決まって「金曜日には(あなたに)恋をする」とくり返される。そのあたりからは、憂鬱な平日というものに対して「週末」であったり「あなた」が光明のような存在となっている。


・しかし、この「毎日」では、「週末」も「あなた」の存在も、もはや突破口や打開策の類ではない。「あとの金土日 言うまでもないほどに以下同文」「日々共に生き尽くすには まだ永遠も半ばを過ぎるのに」と歌われており、たしかに日常を過ごす中でスパイスや刺激を与えてくれるものの一つではあるものの、根本から解決してくれるわけではない。その場しのぎの応急処置のようにも思える。


「毎日毎日毎日毎日
僕は僕なりに頑張ってきたのに
毎日毎日毎日毎日
何一つも変わらないものを
頑張ったとしても変わらないものを
この日々を
まだ愛せるだろうか」

米津玄師「毎日」

・サウンドやMVのイメージから推察すると、この最初と最後のパートはそれぞれ1日の始まりと終わり、朝と夜のまどろみの中にあるように思える。遠くから電車の音が聞こえてきて朝を迎え、あわただしい日中のタスクをこなし、息つく暇もなく家に帰ると、ベッドの中でふたたび同じ自問自答をくりかえす。


・とくにこの部分の歌詞は、言語表現が巧みな米津玄師にしてはあまりにも直截的な表現だったのでおどろいた。比喩やメタファーをつかっているわけでも、流麗な言葉づかいをしているわけでもない、そのまんまの意味。調理していない生野菜の素材だけがごろんと置かれているような感じがして、それがより彼の切実さとか切迫感があらわれているようだった。




・個人的な話になるけど、BUMP OF CHIKENの曲の中でも「ギルド」はかなりのお気に入りで、10代のころはとくに何度もくりかえして聴いていた。数年前に自分のApple Musicの再生回数ランキングを確認してみると、この曲が1位だったことがある。今になって考えてみると、この曲で歌われていたムードであったり心象風景というがそれほど当時の自分にフィットしていたのだと思う。


・けれど、自分が20代になり、社会人になっていく過程の中で、しだいに「ギルド」を聴かなくなっていった。それは、べつにこの曲が嫌いになったわけでもない。BUMPを嫌いになったわけでもない。その理由を探してみるならば、自分の心境の変化、好みの変化、時代の変化があげられる。「ギルド」がリリースされたのは2004年。それからちょうど20年経った現在は、うだうだ言って自分の殻にこもっていられるような立場でも時代でもいられなくなったんだと思った。それはとくにこの「毎日」を聴いてから気づいたことだった。

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