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「悪は存在しない」を観た


・「ラスト5分間に衝撃の展開が待っている」ということを、事前に鑑賞した人たちが口を揃えて言っていた。そういった文言は映画の宣伝フレーズとしてはもはやありきたりすぎて逆に面白くなさそうに感じてしまうのだけど、実際にこの映画を見てみると、たしかにこれは「衝撃のラスト」としか言いようがないと思った。映画を見る前だったり、映画を見ている途中でもその「衝撃のラスト」はどんなものかなと自分なりに想像してみたのだけど、結果的にはどの予想も裏切られた。こうなるのかと思って頭を抱えるようなラストだった。


・この映画でストーリーが動き出すポイントをひとつ上げるとすると、それは例の「説明会」のシーンだろう。巧と高橋、黛など、主要登場人物たちが出揃うだけでなく、その場で繰り広げられるセリフの応酬は緊張感があってサスペンスフルだ。ここはスリリングで、自分ならばこの場に居合わせたくないと思えるシーンなのだけど、その一方で自分は安心を感じていた。なぜならば、「ああこの映画はこういう話か」と理解できたからだ。「善と悪」「都市と自然」みたいなテーマが一発で頭に浮かんだし、今後この対立関係がどのような決着を遂げるのかが物語の焦点になるのだろうと思ったからだ。


・説明会のシーン以前のこの映画というのは、なにかずっと不穏な感じだけがしていて怖かった。とくに「自然」の中にいるときのパートだ。冒頭、木々を下からカメラでとらえたカットが長回しされたかと思えば、突然チェーンソーの轟音が耳に飛びこんでくる。また、おかワサビのシーンでは「見られている側」だと思っていた巧たちがカメラの目の前まで近づいてきたことにはギョッとして驚かされた。カットのつながりも不安定なことが多く、映像が切り替わるよりすこしはやく音だけが鳴ったり、やや唐突にシーン転換がなされたり。とにかく予測不能で次になにが起こるかわからなかった。そのため、一見退屈で冗長ともとれる長回しのシーンでも、何か起こらないか、何か情報が隠されていないかと見ているこちらも研ぎ澄ませていなければならない緊張感があった。


・これらのパートでは、なにか自分の解釈や理解の及ばない、「わからない」ものとしての自然がそこにあるように感じられた。「自然」は人間に対して恩恵を与えることもあるが、災害をもたらすこともある。自らなにかを語ったり、説明したりすることもない。沈黙で、遠大なものとしての自然。恩恵だの災害だのはそこに人間が勝手に解釈を見出しているだけで、自然はただ自然としてそこにあるだけ。ときに自然は人間に対して牙を剥くこともあるが、なにか悪意をともなっているわけではない。まさしく「悪は存在しない」といえる。


・自分の捉え方がまちがっているのかもしれないが、説明会が始まるまでは「何についての映画」なのかもわからなかった。ひたすら不安定で予測不能な自然のシーンがつづいたため、どういう見方をしたらいいかわからなかった。説明会パート以降の、高橋と黛が巻き込まれた水挽町民との対立や、芸能事務所サイドとのビジネスにおける煩雑さというのは、それはそれとして緊張感があってストレスを感じるのだけど、まだ「わかる」というか、頭で理解できるのだ。そのため、区長がいうところの水の「高いところ」にいる人々に対する苛立ちを感じながらも、一方で自分は安心していた。この物語を見る上での立脚点を得られていたからだ。


・しかし、得てしてこのような予想は裏切られる。前述したような「善と悪」「都市と自然」などの二項対立に当てはめられる物語だったら、まだ呑みこみやすくてわかりやすかったと思う。後半パートの、高橋と黛らの事情が明らかにされる展開によって、タイトルどおり「たしかにこれは悪は存在しないのかもな」という短絡的な考えがよぎるのだけど、ラストでそれら全てが振り落とされるというか。結局これは何だったんだ?という思いに支配されて困惑する。なにか自分の知っている物差しに当てはめようとして考えるのだけど、最終的には「物語」としては回収できないところに着地してしまったように思える。


・ふりかえって考えてみると、巧が「あの行動」をとった理由というのは、作中でいくつか仄めかされていた。娘である花との微妙な距離感。開拓3世としての立ち場。そしてグランピング場の建設計画を持ちこんできた高橋たち。移動の車中で交わした「行き場を失った鹿たちがどこへ行くのか」についての一連のやりとりが、巧が高橋に対する断絶を感じた決定打だったのかもしれない。それら全てが複合的につみ重なってあの行動をとったのかもしれない。いずれにしても、その明確な理由というのは、(少なくとも作中では)明かされることがない。


・この映画では、前述した自然のシーンに代表されるように、突然「予測不能」なできごとやシーンのつなぎが起きる。しかし、ここでつけ加えておくと、予測不能なできごとが起きはするものの、事後的にその理由や仕組みというのが必ず説明されるようになっていた。たとえば、子どもたちの動きが停止していたシーン。カメラが右に流れると、だるまさんが転んだで遊んでいたことがわかる。また、高橋と黛の車中で気まずい瞬間が訪れたと思えば、突然笑い出したシーン。しばらく間があってから、マッチングアプリの通知がスマホの画面に現れていたことがわかる。他にも例を挙げればキリがないほど、このようなシーンの連続で映画は構成されている。大枠でとらえると、高橋と黛があのようなずさんな計画を説明会に持ち込んだ背景が後半のパートで明らかにされたことも、それらに該当するだろう。


・しかし、これに唯一該当しないといっていいのがラストの巧のあの行動だ。観客に衝撃が走ったあと、同じように何らかの「説明」がなされるのだろうと期待してあの長回しを見続けるのだけど、結局のところなにもわからずに物語が終わる。巧が花を抱えて森に姿を消したのは、巧という人間も「理解できないもの」としての自然の中に溶けていったということかもしれない。あるいは、物事のすべてに対して因果関係であったり理由を見出そうとする人間独自の行いを拒絶しようとしたのかもしれない。


・「え?これで終わりじゃないよね?」という淡い願いとは裏腹に、映画は短いエンドクレジットを迎え、観客の目の前に「悪は存在しない」という挑発的なタイトルが改めて提示される。劇場内に灯りがつき、現実に戻り、帰路につく過程で「本当に悪は存在しないのだろうか」と考えない方がむずかしい。たしかに自然の中に「悪」というものは存在しない。人間そのものも大枠でとらえれば自然の一部といえる。しかし、本当に人間の中に悪は存在しないのだろうか。そして巧のとったあの行動は悪ではないのか。そもそも悪とは何なのか。


・良い言い方をすればいわゆる「オープンエンド」であり、悪い言い方をすれば「すべてを放り出した結末」とも解釈できる。だけど、ふりかえって考えてみると、すべてがあの結末に向かって伏線が張り巡らされるように構成されていたので、ある意味で計算づくな映画だったのかなとも思う。緻密に積み上げたピラミッドをラストで一気に崩してしまうカタルシスというか。そもそも最初からそれが目的だったのかもしれない。見終わったあとも頭の中でずっと何だったのか考えてしまい、心に残る映画だった。

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