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「異人たち」を観た

・地元のシネコンのレイトショーで鑑賞。事前に原作小説と大林宣彦版の映画は予習しており、予告編の動画もチェックしていた。それらの情報から、少なからずホラー描写があるんだろうなと身構えていたところ、客席に自分以外の人がいなかったのでかなり恐怖を感じてビビっていた。田舎のレイトショーとはいえ、その劇場自体はコナンやブルーロック目当ての人たちで賑わっていたので、「異人たち」に割り当てられた一番奥のスクリーンが異様にひと気がなく感じられて薄気味悪かった。


・大人になった今でこそ慣れはしたものの、子どもの頃から映画館ってなんか怖いな、とずっと思っている。そもそも「暗闇」がまず薄気味悪いし、そのうえ、密閉された空間で大画面と爆音をもってして強制的に視覚と聴覚をジャックされてしまうことが恐ろしいのかもしれない。最近の映画だと、オッペンハイマーがそれを強烈に知らしめてくる作品だった。「映画館」というのは、本来的には「怖い」ところではないかと改めて思った。


・「ひとりで観るのは怖すぎるので、だれか他に来てくれ!!!」と待ちかねていたのだけど、結局だれも来ることがなく、自分ひとりのための貸切上映が始まった。肝を冷やしていたところ、物語序盤で孤独に耐えかねたハリーがアダムの部屋を訪れるシーンがあった。このとき自分が感じていた恐怖や孤独感など、ハリーのそれと比べれば取るに足らないものであったはずだが、このシーンでは前のめりになって彼に感情移入してしまった。ひとりは怖いし、そういう時は誰でもいいから、藁をもすがって頼りたくなる。


・ひと気のないマンションやホテルの薄気味悪さというのは、前述したような映画館の怖さと似ているなとも思った。この映画では、両面張りの鏡に自分の姿が延々と反射されるエレベーター内部でのシーンが何度も印象的に描かれる。ここでは、閉所的な恐怖感とか、この世に自分しかいないのではないかという孤独感がかなり伝わってきた。


・原作と大林版には「間宮」という人物が登場するのだけど、彼の存在というのは、主人公に対して社会とか生身の人間特有の圧を与えてくるものだった。否が応でも「現実」を知らしめてくるというか。アンドリュー・ヘイ版では間宮にあたる人物が完全に排除されていて、この脚色には最初驚いたものの、かえってこの物語からただよう孤独感を増す効果を与えていたように思う。今作に登場する人物というのは、アダムと両親、ハリーの4人だけだ。しかも、彼らのうちの大半が「幽霊」的な存在だ。そのため、アダムがこの物語をとおして経験したできごとというのは、すべて夢か錯覚の類だったのではないか?という匂わせがなされる。この映画では「間宮」がいないことによって、「社会」との接点を見失い、どこまでが現実でどこからが夢だったのかがわからないように設定されていると感じた。


・これはつまり、「だれかと心から通じ合えた」と思っていたことのすべてが錯覚だったというか、なかったこととしてリセットされてしまう恐怖とリンクしているなと思った。一瞬だれかとわかり合えたと思っても、次の瞬間には誤解されていたり、裏切られることも少なくない。人と関わって生きていくということは、本来的にそういうものだということを思い出させられた。「わかり合えた」「わかり合えない」を繰り返していくしかないというか。だれかと完全にわかり合えることなどないのだと。


・この映画では、前述したとおりホラーというかショッキングなシーンが数回出てくるのだけど、それが単なる「ホラー」であるだけでなく、「恐怖」が「孤独」と結びついているのが印象的で、とても効果的だと思った。パニック系の映画によくある「何者かに襲われる恐怖」ではなく、自分は一生ひとりなのではないか、誰にも理解されることなく死んでしまうのではないかといった類の恐怖だったように思う。これは、なにもアダムの境遇に由来するものではなく、少なくない人が経験することではないかとも思った。


・とくに、子どものころのアダムが「母さん!」と叫ぶシーンが、震え上がるほど恐ろしかった。両親を失った出来事はもうかなり昔のことだし、その悲しみはとうに克服したと思っていたはずが、ふとした時にフラッシュバックして息が止まるほど怖くなる。今となっては「もう大人だから」こどものように泣くことも、だれかに頼ることも許されないと感じてしまう逃げ場のなさが余計につらい。


・原作や大林版と比較したときのもっとも大きな脚色というのは、アダムとハリーのセクシュアリティが「ゲイ」になっていたことだろう。ここで自分のパーソナリティを紹介しておくと、自分はゲイではないし、幼くして両親を失ったわけでもない。そのため、彼の苦しみに対して軽々しく「わかる」と言うことは憚られる。アダムはゲイであるがゆえに、パートナーや家庭を持つことに困難を抱えている。それだけでなく、ストレートの友人は「実家の協力を得て」郊外に移り住んでおり、ロンドンにとり残された自分の孤独が増していくという説明があった。正直、ここには面食らった。自分の想像ではまかなえなかったマイノリティの抱える苦しみが描かれていたからだ。


・その点、同じセクシュアリティであるハリーとであれば、アダムもなにか共有できるものがあるのだろうと思って見ていくのだけど、彼らのうちでも世代間で断絶があることがわかる。「ゲイ」「クィア」という言葉から受けとる印象が違うという会話が印象的だった。また、自分のセクシュアリティが実家でどのように受け止められているかについても、それぞれ異なっており、そのしんどさにもグラデーションがあるのだと。


・それだけでなく、カミングアウトしたことに端を発して、アダムは両親とも傷つけあうことになる。とくに、母親の取り乱し方は見ているこちらも怖かった。原作と大林版では、冷酷な社会というものがあったときに、それとは対照的に「両親」というのは自分のことを全肯定して甘やかしてくれる存在として描かれていた。そのため、そのギャップも際立っていたように感じられた。


・終盤の展開で明らかにされるのが、積極的な性格のハリーですら、アダムには打ち明けられない秘密を抱えていたこと、そして、アダムは自分の抑圧的な性格がかえって人を傷つけていたということだった。オチの描かれ方というのは、その後アダムは現実に「戻れた」のかどうかとか、ハリーとの関係はどうなったのかがうやむやにされたまま、結局のところ「閉じた」エンディングだったように見える。「死」すらほのめかされている。しかしこの描き方に自分は誠実さを感じたというか、励まされた。


・星々の距離はそれぞれ何光年と離れているが、その星自体は必ず存在している。「All Of Us Strangers」のタイトルどおり、それぞれが異人。人は孤独から逃れることはできない。自分の苦しみは親にも、友人にも、パートナーにも理解されずに1人で抱えていくしかないのかもしれないが、そういった「抱えていること」自体はひとりではないし、そのことを通じてアダムとハリーのようにつながることもできるのだという。なにか安易な結末や答えを用意しているのではなく、冷たさや厳しさも残るが、それがかえって誠実で信じるに足ると思えるエンディングだった。観てよかったと思える映画だった。


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