なぜ私個人が人類滅亡を望むのか再考した

昨日の深夜勢いで書いたことを再考してみた。

前提として私は普遍的に評価されるものに価値を置いており、コンテンツ主義である。唯美主義者である。
コミュニティは、何かしらのコンテンツ(キャラクターというかタレントとしてのヒトやモノ)を中心に成り立っている。私自身は純粋にコンテンツを楽しみ進出させ普遍化させることを目的としているが、実際のコミュニティの真の目的は友愛であり、コンテンツの天下統一は軽視されるようになり組織内の狭い世界で完結しニッチとなる。
そのうえ、コンテンツはいくら進出しようとも完全な普遍化はせずニッチであるため、普遍的な価値をもたない。どこまで行っても特別にはなれない。
また普遍化の如何に関わらず、簡単に揺らぐ他己評価の価値は軽く、コンテンツを軸に考えると友愛から無条件に肯定する仲間の評価は無意味であるため友愛もまた無意味である。

私は友愛や博愛を信じないが、家族愛は信じる。
博愛主義や世界主義は私たち一人ひとりを平等に扱うため、逆説的には万人に価値が無いのと同様であり、私の考える本物の愛ではない。
家族愛は中心とするコンテンツを必要としない。全員が価値のあるコンテンツであり、無条件に評価されるのはコンテンツである素の自分そのものであるからだ。

しかし家族愛にも限界はある。一人ひとりが家族の一員である以前に一人の個人であり、隠された一面や理想と外れる面も持ち合わせているのが実際であり、無条件に評価することは困難である。

しかしながら仮想の人物ならどうだろう。
だからこそ、空想の家族が不老不死の体で実在して幸せに暮らす世界ならいいと願ってしまう。
しかし、そのままだと価値のない万人のうちの一人ひとりに成り下がり、特別な存在にはなれない。マクロ視点でみればたかが狭い世界の小さな脅威にさらされても抵抗などできない。幸福が揺らいでしまう。
他人がいなければ邪魔されることもない。支配もされない。価値のない人間になることもない。
他人はみんな滅んで、彼ら数人だけが老いもせず殖えもしない体で永久に幸せに暮らせる世界になればいいと願ってしまう。

こんな捻くれたことを考えてしまうのは飽くなき承認欲求が原因だろう。評価は欲しいけど作ったものそのものではなくタレントみたいに「その人だから」という理由で盲目に評価されるのは不本意である。無条件の愛がほしいけどそれは叶わない。ならせめて自分が見返りも求めることなく本当に愛しているものが幸せに暮らせたらいい。他人がいなければ承認欲求に苦しむこともない。しかし自分が彼らの団欒の中で上手くやっていく自信もない。肩身が狭くあり続ける。腐女子が男と男の間ではなく傍観者としてありたいように、完全な美しい幸福の図を作りたいからそこには私自身も要らない。


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