27京都・街の湧水、水神信仰2

93福長神社「神水」


福長神社の御神水

 井戸水そのものを神とあがめる神社をまた見つけた。上京区室町通武者小路下ル福長町にある福長神社。水そのものを神様として祀(まつ)るだけあって、福長神社のご神水はまろやかで口当たりが良くうまかった。5月初旬の時期、京都市内で最高気温が20度ぐらいの時期、水道水の水温はだいたい摂氏12度、13度ぐらいだが、ご神水は16度ほどあった。

使われていない手押しのくみ上げポンプが乗る古井戸

 手水舎は鳥居をくぐってすぐ左手にある。古井戸のわきに水を満面にためた水盤と柄杓(ひしゃく)があった。古井戸のそばに、錆(さ)びて使われていない手押しのくみ上げポンプ (ガチャポン)が備えてあった。井戸わきに水盤に流れる蛇口とホースの付いた蛇口があり、水盤に流れる蛇口をひねると、かなりの水量が孟宗竹の筧(かけい)から勢いよく流れた。モーターでくみ上げているようだ。

鳥居わきにある手水舎

 烏丸通りを挟んで東側は御苑。水脈的には御苑わきの梨木神社の染井、御苑内の白雲神社や宗像神社の水とほぼ同じ。今は使われていない御苑内の名泉とされる縣井、染殿井も福長神社のご神水と同じかと思うと、やたら貴重に思えた。
 福長神社は地下鉄今出川駅の6番出入り口から烏丸通りに出て、丸太町方面に少し歩くと近畿予備校がある。そのわきの道を西に50㍍進むと左手に神社がある。

福長神社の由緒書き

 神社のいわれ書きによると、福長神社は福井(さくい)神と綱長井(つながい)神を祀った。福井神と綱長井神はともに平安時代、御所に祀られていた屋敷内の井戸の神さま。福井神は「栄井神(さくいのかみ)」ともいわれ繁栄の井水を意味し、綱長井神はくみ上げる綱の長い、つまり深い井戸とされ、両方の井戸神を祀ることで永遠に水が枯れないことを祈ったという。

福長稲荷の小祠

 後に稲荷神を併せて祀り、福長稲荷ともいわれた。福長町の名は社名に由来する。水そのものを神として祀った小祠は「鉄輪の井」や満願寺の「閼伽井」などがある。大きな神社では賀茂社も同じ。

烏丸通りから西に50㍍ほど入ったところにある福長神社

 現在の御所は南北朝時代、西に約1・7㌔離れた千本通り沿いにあった御所が遷された。元の社は御所が千本通り沿いにあったころ、大宮通りと猪熊通りの間にあったとされている。井戸は秀吉が造営した聚楽第の敷地内になってしまったことから、聚楽第が廃されたあと現在の地に移されたという。江戸時代、洛中の大半が焼失したという1788年の「天明の大火」の後に小さな祠(ほこら)になってしまったという。

94波切不動「不動水」


波切不動の古井戸

 東寺(教王護国寺)の波切不動で湧水が完全に止まったのは、1964(昭和39)年10月の東海道新幹線開通の直後から。幹線の高架橋の橋脚建設工事に伴い水脈が切断され、徐々に湧水量が少なくなったという。

波切不動

 波切不動は石段を三段降りると石畳の踊り場があり、そのわきに自然石を積み上げた大きな洞穴‘どうけつ)がある。洞穴はすり鉢状の祠(ほこら)になっていて、祠の下に不動明王が祀られ、その下に小さな井戸がある。不動明王は鉄格子が設けられた穴の中にあって見えない。不動明王の前に湧水場所がある。現在、湧水はないが、水くみ用の木桶5個が並べてあった。

波切不動の石碑
波切不動のいわれと阿刀家の説明書き

 波切不動の真向かいに住み、毎朝境内を清掃して水を取り換える写真家の男性が詳しく説明してくれた。「ここで生まれ、ここで育った。子どものころから水が湧き出していた。多くの人が水をくみに来ていた。新幹線の工事で水脈が変わったと聞いた。阿刀家の子孫の方は月に2回、様子を見に来る」と話した。
 波切不動は空海が唐から持ち帰った香木に自ら不動明王を彫り込んだ像といわれている。空海が唐からの帰路、海が荒れて船が難破しそうになった。空海がこの不動明王を船首に据えると船は波を切って進み、空海は無事に帰国できたといわれている。

波切不動の紋

 空海を信奉する人、真言宗の信者たちは、「四国のお遍路、高野山、東寺に詣でて、波切不動を参拝しないとお遍路のご利益を得られない」と言われていることを固く信じている。
 同じ敷地に井戸が別に一つある。こちらの井戸は釣瓶(つるべ)があって水をくみ上げていた。
 「波切不動は鎌倉時代に造られ、当時のまま残されている。伏見稲荷大社を拝むように伏見稲荷を向いて洞穴が掘られている」。波切不動前の石畳の切れ目が斜めになって、伏見稲荷の方向を向いていた。
 波切不動と伏見稲荷大社は密接な関係にある。東寺の現在の金堂(国宝、安土桃山時代の再建)も講堂も伏見稲荷大社のある稲荷山から切り出した材で造られたといわれている。例年、5月上旬に行われる伏見稲荷の神輿巡行では御旅所から神輿が東寺東門の前に来て、東寺の長者らが出迎える習わしがある。

石上布留社

 波切不動のわきに「石上布留(いそのかみふる)社」がある。石上(いそのかみ)といえば、奈良県桜井市にある「石上神宮」。東寺執行家(しぎょうけ)、政所を務め、寺の事務や金銭管理をしていた阿刀(あとう)家がここから勧請(かんじょう)したとみられる。社殿は修復されたが、姿形や社殿の規模などは創建当時の鎌倉時代のままだという。
 波切不動も「石上布留社」も宗教法人ではなく、阿刀家の個人所有。だから、固定資産税などの軽減措置はない。かつて長い参道があり境内敷地はもっと広かった。固定資産税の支払いに追われ、境内地を切り売りして税金を払った、このため境内地が現在のように狭くなってしまったという。

兒水不動の井戸(下)。わきに水をくみ上げる手押しポンプがある

 西に1㌔ほど離れた六孫王神社そばにある「兒水不動」も「波切不動」とほぼ同じ造り。小さな不動明王を祀(まつ)っている。兒は児の旧字体。兒水で「ちごすい」とか「ちごのみず」と呼んでいる。水が出ていた龍頭の前に井戸があり、木蓋(ふた)がしてあった。井水は涸(か)れているという。
 鎌倉時代、暗殺された源実朝をともらうため妻・本覚尼が建立した遍照心院(現在の大通寺)にあった兒水不動明王堂の井戸だったという。

兒水不動
新幹線の高架橋(左)と在来線(右)に挟まれた旧壬生川通り沿いにある兒水不動の明王堂

 大通寺は境内地が新幹線の工事区域になったため転居。兒水不動は波切不動と同じように水脈が切断されて水が涸(か)れてしまったという。

95壷井地蔵尊「壷井」


円筒形の壷井

 「壷井」」があるのは、中京区佐井通太子道東入西ノ京北壷井町。西大通りから太子道に入り、200㍍ほど先の佐井通りを右折して通り沿いの角にある。コンクリート塀で囲ってあり、大きなサクラが目印。近所の主婦が井戸周りを清掃し、井戸そばにある数体の地蔵尊に水を供えて花を活けていた。

壷井の入り口

 入り口から石段を4段降りると踊り場があり、石段の左下に井戸があった。深さ1㍍ほどの円筒形をした浅井戸で素掘り。底に土砂や落ち葉がたまっていた。円筒の直径は1㍍弱。
 清掃をしていた主婦に話を聴いた。「ここに住んで30年になりますが、既に水は出ていなかった。江戸時代、ある女性がお地蔵さんが泣く夢を見て、朝、井戸をのぞくと壷に納められたお地蔵さんが投げ込まれていて拾い上げた。その地蔵尊がこれです」と伝承を披露し、井戸のそばにある地蔵尊を指差した。
 明治新政府の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で、京都市内でも多くの野仏が捨てられた。お地蔵さんが投げ込まれたという伝承は江戸時代の話。推測でしかないが、処刑された人を弔う地蔵尊は罪人の処刑後、霊を慰めるため名水の井戸に投げられたかもしれない。
 壷井のある場所はサクラのある角地を含めて10平方㍍程度と狭い。地主がここだけを壷井地蔵尊を祀る場所にしたという。所有地に旧跡、遺跡がある地主は金銭的負担が大変だ。宗教法人にして管理しても、寄付やお賽銭(さいせん)がなければ維持が難しく、身銭を切るしかない、個人所有で管理した場合、固定資産税がかかる。

壷井がある角地。右手の車の先は太子道

 京都市は1995(平成7)年の阪神淡路大震災後、2004(平成16)年に「災害時協力井戸」制度を設けた。登録制で「災害時協力の井戸」になると小学校学区内などの住民に井戸水が解放される。 
 井戸を掘るには資金がいる。電源喪失でくみ上げ用モーターが稼働できない場合に備えた井水をくみ上げる手押しポンプ(ガシャポン)を設置するにも資金が必要。井戸水の水質検査にもカネがかかる。登録を前提に井戸を設置してもこれらの資金が行政からは一切手当てされず、個人負担となる。これでは行政としてあまりに虫が良すぎはしないか。幾分かの負担も必要ではないかと思った。

壷井の内部

 壷井は見た限り浅井戸。湧水だったに違いない。水が豊富な時期は井戸から水があふれていたかもしれない。渇水期は木桶でくみ上げていたと思われる。地下水位が低下して湧水が止まった。いつごろから湧水が出なくなったか不明だが、くみ上げ用の手押しポンプ(ガチャポン)がないことから湧水が続いた。下水道工事で水脈が切断されたといわれることから、恐らく第二次世界大戦後の1950年代までは水が出ていたと推測できる。
 「壺井」は奈良時代の僧、行基が野原に湧く水を発見し、その水と薬を一緒に飲むと疫病に効いたことから霊験あらたかな井戸水として知れ渡ったという。
 平安時代後期、西京は衰微し左右の獄舎(牢屋)が残った。右側の牢獄は右京一条二坊十二町にあったという。JR円町駅近くにある西大路通り円町交差点の西北側とみられている。
 国内をほぼ統一した秀吉は安土桃山時代の1592(文禄元)年、京の都を取り囲む土塁「御土居(おどい)」を築造。円町付近には江戸時代初期から平安時代の右獄をおなじように御土居の西に「西土手刑場」が置かれた。1877(明治10)年、西土手刑場跡から多くの白骨が見つかった。罪人が市中引き回しの後に斬首されたことや遺体の解剖が行われた記録もあるという。

壷に入れて井戸に投げ込まれていたというお地蔵さん
壷井のいわれ書き

 刑場の西にあったのが「壷井」。市中引き回しをして斬首の刑場に向かう罪人に末期の水を飲ませたとされている。太子道のいわれは聖徳太子が太秦の広隆寺まで通った道で広隆寺への参詣道として江戸時代、通りには参詣者を相手にした茶店が建ち並んでいた。参詣者は名水といわれた「壷井」の水でノドを潤したとみられる。(つづく)(一照)

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