15京都・街の湧水、薬師・弘法の水

50因幡薬師(平等寺)の井戸水


 因幡(いなば)薬師本堂右手に手水場があり、水盤の底から水が湧(わ)き上がっていた。水は地下約70㍍からくみ上げているという地下水。水温は年間通じて16度前後。厳冬期、手に触れるとやや温かく感じる。

因幡薬師の手水場(2023年2月)

 円形の水盤に柄杓(ひしゃく)が備えられているが、あくまでも手洗いのお清め用。一般的に飲用可能なら手水場に蛇口も設けられているが、蛇口はないので飲めないということだ。水盤に手を入れる人もいるので、水盤の生水は飲まない方がいい。

2022年4月下旬の手水場、テッセンが咲いていた

地下深くから取水


水盤からあふれる井戸水

 地下70㍍ほどまでボーリングしてくみ上げた水なら生水で飲めそうな感じがする。少なくとも煮沸すれば、もう十分ではないのか。だったら、井戸水をくめる蛇口を付けた方が古井戸、井戸水ファンにとってはありがたいことだと思った。しかし、住職は「生水は絶対にダメだ。煮沸してもダメ」ときつく言った。

因幡薬師

 寺伝や寺のホームページなどによると真言宗の寺で正式名は「平等寺」。通称、因幡薬師と呼ばれ、癌(ガン)封じの薬師様で知られる。安産・子育て祈願でも信仰が厚い。

松原通り沿いにある参道の石柱

 平安時代中期の997年(長徳3)年、敏達(びたつ)天皇の子孫で貴族の橘行平が因幡国(鳥取県)の任を終えての帰途、夢のお告げで海中から木像の大きな薬師如来を引き揚げて祀(まつ)り、現在地にあった自分の屋敷を直して1003(長保5)年に「薬師堂」を創建。1171(承安元)年に高倉天皇が「平等寺」と命名した。
 歴代の天皇も祈祷を受けたという。堂は何度も火災に遭い消失。本尊の薬師如来立像は焼失を免れた。建物は1886(明治19)年に再建された。

51蛸薬師の龍神水

 蛸(たこ)薬師の門を入った右手に手水場がある。龍口から水盤に水がこぼれていた。もちろん井戸の地下水。「錦水」として人気のある錦天満宮の井戸に近いので、同じ水脈と推定される。

蛸薬師の手水場

  尼僧の住職に「飲めますか」とやぼなことを聞いてしまった。ことば短に「もちろん」と言われた。柄杓(ひしゃく)に水を受けて飲んだ。なめらかな、うまい水だった。

水盤に流れ込む龍神水

豊富な湧水

 京都でも多くの観光客が訪れる寺町通りには名水の井戸が何カ所か残っている。寺町通りと並行する新京極通り沿いにある錦天満宮は既に取り上げたので、公平に蛸薬師を取り上げた。住所は京都市中京区新京極通蛸薬師下ル東側町。

「薬師の泉」ともいわれる龍神水

  京の台所といわれる錦市場。一帯は水が豊富な場所で、ちょっと掘るだけで水が湧き出したという。この湧水があって鮮魚などを扱う市場ができた。市場の東端につらなる錦天満宮、蛸薬師の井戸は豊富な湧水を裏付ける。

薬師の泉

 蛸薬師の井戸水は板書の説明によると、「弁天さまの御神水・薬師の泉」。「その昔、病に苦しむ人々が、龍神水にて体や家のまわりを清めるとたちまちのうちに病が消えうせたと云(い)ういい伝えがございました。 いつしか弁天さまの御神水と呼ばれて親しまれるようになり、人々が家に持ち帰るようになった」と書かれていた。龍神水で体と清めると病が治るという水の伝承は他にもある。

「薬師の泉」のいわれ書き

 蛸薬師のいわれ書きによると、本尊は最澄が彫ったといわれる石像の薬師如来。蛸薬師堂は正式には「浄瑠璃山林秀院永福寺」という。かつて二条室町にあり、近くに池があったことから「水上(みなかみ)薬師」とか「澤(たく)薬師」と呼ばれた。蛸は「澤」の音読みがなまってタコになったといわれている。

叡山に埋もれた石像の伝承


新京極通りに面した蛸薬師

 寺伝や寺のホームページによると平安時代後期、比叡山・根本中堂に祀(まつ)る薬師如来を信仰し、月参りしていた室町の里人に「比叡山に埋められている薬師如来を持って帰って」と夢告があった。夢告の通り石像を掘り起こして持ち帰り、堂を建てて薬師如来を祀り永福寺と名付けたのが起原という。

「なでタコ」などが置かれた蛸薬師堂

 お堂の前や境内のあちこちに木製の「なでタコ」などのタコがある。ここではタコは仏縁を結び、心身の患部を治癒するありがたい存在なのだ。

52石像寺(釘抜地蔵)・弘法加持水の井


釘抜地蔵の手水舎には井戸水をくみ上げるバケツ(右)を常備

 釘抜(くぎぬき)地蔵=石像寺(しゃくぞうじ)=の手水舎には円筒状の井筒の上に水をくみ上げるひも状の釣瓶(つるべ)があった。水がたまった水盤わきに水の入ったバケツが置かれ、柄杓(ひしゃく)もあった。

釘抜地蔵の手水舎
水がたまった手水舎の井戸。深さ3、4㍍ぐらい

 水盤の水はあくまでも手洗い用。井戸水は飲むようになっていない。寺によると、「行事のある時だけ、備え付けのバケツで井戸水をくみ上げる」という。井戸は湧出しているという。

空海が掘ったという加持水用の井戸

 これとは別に社務所の裏側、墓地の一角に井戸がある。空海(弘法大師)が掘り、加持用の水に使ったという「弘法加持水の井戸」。井戸水はいまも涌き続ける。かつては生水を飲めたという。「水を飲んだうえ患部に塗ると霊験がある」とのいわれがある。

加持水井に入る階段のわきに27体の地蔵が並ぶ

 弘法加持水は階段を下りたところある井戸から湧く水。井戸きわに落ちると危ないので、転落防止の横棒柵が設けられている。階段に沿って、地表には顔が良く分からない風化した石造りのお地蔵27体が並んでいる。

自然石を円筒形に組み上げた加持水の井

 柵の中にスマホを入れてカメラで井戸の中をのぞいた。井戸は円筒形で土壁を押さえつけるように石組みが築かれていた。水がたまっている。寺によると、井戸は比較的浅いという。
 寺は千本通り沿いで西陣の一角にある。1㌔ほど東に「西陣の聖天様」といわれる雨宝院の染殿井がある。水脈がほぼ同じなら、もう少しボーリングすれば、飲用できないこともないと思った。

釘抜地蔵の入り口

 寺伝などによると、釘抜地蔵は家隆(かりゅう)山光明遍照院石像寺が正式名。当初は真言宗だったが、浄土宗知恩院の末寺となった。釘抜地蔵尊が本尊。通称「釘抜地蔵」とか、「釘」を「苦」に変えて、「苦抜き地蔵」とも呼ばれている。

釘抜地蔵堂

 平安時代初期の819(弘仁10)年、空海自らが石像の地蔵尊を彫り、「もろもろの苦を抜き取り」苦しみからの救済を願って「苦抜き地蔵」と名付けたという。鎌倉時代に俊乗坊重源(ちょうげん)が中興して浄土宗に改宗。鎌倉時代初期の公家で歌人・藤原家隆が入寺したことから山号が「家隆山」となった。

釘抜地蔵の由緒書き

 寺は室町時代に衰退するが、江戸時代前期、徳川第4代将軍家綱のころ、霊元天皇の命で洛陽四十八願所霊場の1つになって復興。しかし、1730(享保15)年、西陣の大火事、通称「西陣焼け」で焼失。後に北野天満宮社の神宮寺を移築して寺が再興されたという。

地蔵堂の壁面に奉納された5寸釘と釘抜の絵馬

 お堂の壁面に釘と釘抜を納めた絵馬が無数に掲げられている。いつ訪れても、釘抜地蔵堂の周りを回ってお参りする人が絶えない。心身の苦が消えたお礼に5寸釘と釘抜きを付けた絵馬が奉納された。

堂本印象が奉納した大きな釘抜

 本堂前にある巨大なブロンズの釘抜きは東京五輪開催の1964(昭和39)年に日本画家の堂本印象が母の病気回復祈願のために奉納したという。
(つづく)(一照)
 

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