23京都・街の湧水、大寺の古井戸2

81金閣寺「銀河泉」


豊富な水が流れ出す「銀河泉」
「銀河泉」の石組み
銀河泉の下には小さな水たまりがある。水は澄んで濁りもなくきれい

 足利幕府第3代将軍・義満がお茶の水に使ったという金閣寺の「銀河泉(ぎんがせん)」は、チョロチョとしたたり落ちていた。水はわずかに出ているが飲用できないという。水が落ちるところは小さな水たまりになっているが、水は澄んできれいだった。煮沸(しゃふつ)すれば飲めないこともないと思った。浅い場所からの湧き水だけに水質検査の基準を満たさないのかもしれない。

銀河泉の右隣にある「巖下水」
巖下水の水たまり。底に泥がたまっていた

 右隣に義満が手洗いに使ったという「巖(巌)下水(がんかすい)」がある。手洗いの水場はごく小さな水たまりだった。底に泥がたまっていて、とても飲めそうになかった。
 銀河泉と巖下水の水源は「五山送り火」の「左大文字」で知られる衣笠山の一部・大文字山の森がはぐくみ、地下に浸み込んだ水が湧出する。

水量豊かな「龍門の滝」

  その右隣に「龍門の滝」があった。落差2㍍30㌢。滝の上にある「安民沢(あんみんたく)という古い池から流れて来る水を滝にした。小さな滝だが、渇水期でもかなりの水量があり、山からの流れ込む水が多いようだ。

滝の下に「鯉魚石」が置かれていた

 「鯉が滝を登りきると龍になる」という中国の故事・登龍門にちなんで滝の流れが落ちる場所に、「鯉魚石(りぎょせき)」が置いてある。「鯉魚石」は、いかにも鯉が滝に登ろうとするかのような恰好の長方形の石を斜めにしてあった。

西園寺氏が造ったとされる「安民沢」

 「安民沢」には大文字山からの山水が流れ込む。土砂混じりの山水が直接、金閣のある「鏡湖池(きょうこち)」に流入しないよう沈砂池の役割を果たしているという。
 いわゆる金閣寺の正式名は鹿苑寺(ろくおんじ)で、臨済宗相国寺派の塔頭(たっちゅう)寺院。義満によって、衣笠山(きぬがさやま)の麓(ふもと)に1397(応永元)年から造られた山荘、北山殿が始まり。もとは平安時代に権勢をふるった貴族・藤原氏の流れをくむ鎌倉時代の公卿(くぎょう)・西園寺公経(きんつね)の西園寺があったところだった。その後、公経の子孫の時に義満が河内の所領と交換にその地を譲り受け、金閣を中心とした北山殿を設けた。

舎利殿の金閣

 足利氏は尊氏から最後の将軍となった義昭まで15代も続いた。室町幕府が建武の親政の1334年から始まるとすると、織田信長が義昭を京から河内国(大阪府)に追放して1573(元亀4)年に滅ぶまで室町幕府は239年間も続いた。
 室町時代というと南北朝時代、京の都で1467年から10年間続いた応仁の乱、関東管領の内紛と反乱など動乱続きの時代と映る。
 だが、稲作のほか養蚕や茶の栽培など農業の生産性向上と同時に陶器、鋳物(いもの)、鍛冶(かじ)、絹織物などの技術の発達を背景に手工業も
生産性が上がり、各地で市が立ち物流と商業が発達。農民が食うや食わずの状態で使われた荘園制度が崩れて農民が「惣(そう)」をつくり、自らの手で農地を管理するようになった。日宋貿易の利益があった足利家が財を投じて文化が花開いた時代で、織田信長、豊臣秀吉の織豊時代、安土桃山の文化につながる土台が築かれた時代だった。

「鏡湖池」の中に建つ金閣

 室町時代は鎌倉幕府と北条氏が滅び、後醍醐天皇の代の1333年春から天皇中心の政治が始まった時から始まるという説をとる。武家政治から公家政治へと逆戻りした「建武の新政」。足利尊氏は武士の反乱をバックに後醍醐天皇から離れて挙兵。尊氏が後ろ盾となって1336年夏に光明天皇が即位し、新政は約3年で崩壊した。
 後醍醐天皇はこのため吉野に逃げこもって旗揚げした。尊氏が京都に新たな天皇を擁立し、2つの朝廷ができた。京都の北朝、吉野の南朝が争いを繰り広げる南北朝時代となった。
 尊氏は北朝から征夷大将軍に任命され、室町幕府を開き、初代将軍に就いた。尊氏の孫に当たる第3代将軍・義満が朝廷を北朝に一本化して、1392年に南北朝が統一された。足利氏は権力を握り、将軍の補佐役として管領(かんれい)を置き、京の都を支配した。地方では守護大名が武士をまとめて地方勢力を築いた。
 文化では、茶の湯が流行した。猿楽や田楽を観阿弥(かんあみ)・世阿弥(ぜあみ)の親子が能として大成させた。蓄財を糧に義満が建てた金閣は、公家文化と武家文化が融合し、「北山文化」と呼ばれる。
 この反動か、15世紀後半には、「わび」「さび」で表現される簡素な文化が生まれた。水墨画が流行し、狩野派が誕生。民衆の間では狂言がもてはやされた。第8代将軍・義政が建てた銀閣は、書院造りを取り入れ、「東山文化」と呼ばれる。
 金閣寺は、漆地に金箔を張った3層(3階建て)の建物。初層は寝殿造りで後に義満像が安置された。2層は武家様式、3層は仏殿風。2層と3層に金箔が張られ、屋根に鳳凰(ほうおう)がある。

名石が集められた鏡湖池に姿を映す金閣

 金閣は応仁の乱では西軍の陣地になりながら金閣だけ戦火を免れた。しかし、1950(昭和25)年)7月に放火で全焼。国宝の義満像も焼けた。義満はここを拠点に政治をかじ取り、51歳で亡くなるまで舎利殿に住んでいた。舎利殿は全焼から5年後に再建された。

安民沢の水が流れ込む鏡湖池。景石がたくさんある

 鹿苑寺の境内約13万2000平方㍍のうち約9万2400平方㍍が鏡湖池を中心とした「鹿苑寺庭園」。金閣が建つ鏡湖池は広々とした池泉回遊式庭園。池には各地の守護大名が地元の奇岩名石を競って寄贈した。鏡湖池は別名「七宝の池」とも呼ばれ、金や銀、瑠璃(るり)、水晶などの景石が配置されている。日本の代表的な景石が金閣に集まったといわれる。
 庭園より東南側にかつて七重塔があったことが近年の発掘調査で分かった。1404年(応永11年)に高さ110㍍ともいわれる大塔の造営を始めた。しかし、1416年(応永23年)に落雷で未完のまま焼失したとされている。

82慈照寺(銀閣)「お茶の井」

 足利幕府第8代将軍・義政が茶の湯に使ったという慈照寺(銀閣)の「お茶の井(相君泉、そうくんせん)」は今も湧水が続いている。茶の家元の行事には今もこの水が使われているという。

山の湧き水が出続ける「お茶の井」

 東山36峰の如意ケ嶽(通称・大文字山)の前にある銀閣寺山(山部山)の斜面にあり、自然の岩盤を利用して滝組みのように見せ、湧水が自然に流下するようにした石組み。

「お茶の井」の水たまりは元祖「蹲踞」。水たまりには硬貨が投げ込まれていた

 この石組は、自然の岩盤を利用して滝組みに見せている。西芳寺の龍淵水に似せており、後の蹲踞(つくばい)のもとになったという。一番奥にある石組みが地中からの湧水の場所。こうした蹲踞に似た石組みの湧水は北野天満宮の足付け神事の池や城南宮の庭にある湧水場所にもあった。

苔寺の石組みを真似たとされる「お茶の井」の石組み

 銀閣寺山は頂上の尾根筋こそ落葉広葉樹のコナラ林だが中腹はカシ類の常緑広葉樹とスギがうっそうと茂って水を涵養している。京都に社寺、特に寺は明治新政府の上知令(上地令)で寺有地を没収された。銀閣寺も同じで、没収された寺有地は国有地となった。

漱蘚亭跡とされる石組み

 お茶の井の右隣には崩れたような石組みがある。「漱蘚亭跡(そうせんていあと)と呼ばれている。昭和時代初めに発掘され、1931(昭和6)年、お茶の井と共に復元された。
 義政は桂川右岸にある苔(こけ)寺(西芳寺)が好みで、慈照寺境内のあちこちに苔がむしている。お茶の井も漱蘚亭も、苔寺を模して作庭されたといわれ、特に漱蘚亭は苔寺の「竜淵水」の石組みを真似したとされている。
 

小さな滝の洗月泉の水は錦鏡池に注ぐ

「お茶の井」に登る山道沿いに「洗月泉」と呼ばれる小さな滝がある。この滝の水も山からの湧き水だという。
 京都盆地の東端を南北に貫く東山。その緑濃い山々の麓には、古くから多くの寺社が営まれてきた。慈照寺もまたその一つで臨済宗相国寺派の塔頭(たっちゅう)寺院。

銀閣の前にある錦鏡池

 慈照寺の創建は室町時代中期、第8代将軍義政が、晩年の隠居所として造営した東山山荘が始まり。庭園には、銀閣と呼ばれる楼閣用建造物がある。鹿苑寺の華やかさとの対比から、「わび」「さび」を表現した東山文化の代表だ。
 かつて、慈照寺の場所には浄土寺という天台宗寺院があったが、応仁の乱で焼け落ちてしまった。義政は応仁の乱が収束した後の1482(文明14)年(1482年)、跡地に東山山荘の造営を始めた。しかし、造営資金や材料の調達が難しく、数多くの守護大名や寺院に半ば強制的に木石を献納させたという。

慈照寺の銀閣

 東山山荘の造営は長期間に及び、義政は銀閣が完成する前の1490(延徳2)年に死去してしまった。東山山荘は亡くなった義政の法号から慈照寺と名付けられ、遺言で臨済宗の禅寺となった。
 その後の戦乱で多くの建物が焼失した。江戸時代初期の1615(慶長20)年、安土桃山時代の武将で晩年、徳川家康に従った宮城豊盛が建物の再建と庭園の改修を行った。現在の見られる慈照寺の境内と建物はこの改修で大きく変更されたという。

83三十三間堂「夜泣き泉」


 「夜泣き泉」は三十三間堂の正面にあった。孟宗竹で編んだ蓋(ふた)をかぶせた古井戸があり、隣から水がチョロチョロと出ていた。触ってみると冷たかった。寺に聞くと、やはり水道水だという。手水舎の中に何体か風化したお地蔵さんがあった。

お地蔵さんが祀られている「夜泣き泉」の手水舎
手水舎には風化したお地蔵さんが並ぶ

 「泉を飲む、飲まないのかかわらず、このお地蔵さんにお願いすると夜泣きが治る」と説明された。何で水道水かと聞いてみた。「何年か前から水が出なくなった」との説明だった。いつごろからかの記録はないという。井戸が掘られた時代、井戸の深さ、井戸内部の形状なども記録になく分からないといわれた。

「夜泣き泉」の2代目される手水場の古井戸

 夜泣き泉の井戸はかつて蓮華王院の東にあったとされ、現在の井戸は2代目らしい。あくまで推測だが、蓮華王院の東にあったとされる井戸は三十三間堂の創建当初、平安時代に掘られた深さ2~3㍍の浅井戸だったと思う。
とにかく記録がないというので推測でしかない。

井桁(いげた)の石に「夜泣泉」の彫り物

 命をつなぐ水の出る井戸こそ、どんな仏像、建造物よりも大切ではないのか。これこそ国宝級ではないのか。きちんと記録に残すべきではなかったのかと思った。水なんてそこら辺りを適当に掘れば、その井戸から水が湧き出るとでも思われたのかもしれない。

小規模な池泉回遊式庭園ながら景石を配した庭

 2代目の現在の井戸が設けられた時代は不明。昭和時代に入って浅井戸の底にたまった水をポンプアップしていたのではないかと推察した。善意で推し量ったとしても、規模は小さいながら立派な池泉回遊式の庭を設けるなら、その造営資金のごく一部を夜泣き泉復元のボーリング費用に充てることはできなかったのかと残念に思った。
 京都新聞社発行の文庫本「京都・伝説散歩」(昭和59年刊行)によると、「1165(永万元)年、後白河法皇が蓮華王院にある地蔵大菩薩像に朝夕お参りを続けたところ、地蔵尊から蓮華王院の東にある霊泉の水を子どもの守仁親王に与えるよう告げられた。法皇が親王にその霊泉を与えると、親王の夜泣きが止まった。その後、人々からこの地蔵尊は「夜泣き地蔵」、霊泉は「夜泣きの泉」と呼ばれるようになった」という。

井戸水に見せかけた水道水の手水場では語り継がれる伝承が泣く

 寺の説明によると、泉の水が落ちる音が夜な夜な振動して夜泣きのように聞こえたので「夜泣泉」と呼ばれたという。井戸の隣に地蔵尊を安置したところ、水の落ちる振動がやみ、地蔵尊に祈願すると夜泣きが治るといわれるようになった。井戸の場所が変わったためか、いつごろか不明だが夜泣泉の水は枯れているという。

三十三間堂の正面

 三十三間堂は「蓮華王院(れんげおういん)本堂」が正式名。天台宗の古刹で、妙法院に属する境外仏堂。1164(長寛2)年に後白河上皇が離宮として建てた法住寺殿の一角に平清盛に命じて創建した。1183(寿永2)年の木曾義仲の焼討ちなどで焼失。現在の三十三間堂は鎌倉時代の1266(文永3)年に建築された。
 三十三間堂は、南北の間口が120㍍の木造建造物。奥行22㍍で内陣の柱と柱の間が三十三カ所ある。観音菩薩が三十三化身に変化することから三十三間になったといわれている。
 堂内には鎌倉時代の仏師で運慶の長男・湛慶(たんけい)作の本尊・千手観音坐像のほか、顔がすべて異なる木造千手観音立像1001体が安置され、建物を含めて国宝。1992年の法要以来26年振りの2018年に全体が勢ぞろいした。最前列に国宝の風神像、雷神像と二十八部衆像が安置されている。(つづく)(一照)

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