14京都・街の湧水、御苑東の寺町通沿い

47護浄院・清三宝荒神の「無垢の井」


鴨沂高校グラウンドに面した清荒神の北口
清荒神尊の社殿

  京都御苑の東沿い、寺町通りに面した京都府立鴨沂鴨沂(おうき)高校に接して護浄院清荒神(きよしこうじん)がある。場所は京都市上京区荒神口通寺町東入ル荒神町。西門から入ると、ちょっと変わった主幹が3本あるウツクシマツらしいアカマツがあり、左手に荒神尊の社殿があった。荒神尊の北側は道路を挟んで鴨沂高校グラウンドがある。

「無垢の井」の手水舎
水盤に注ぐ「無垢の井」の水

けがれなく、清らかな水

 荒神尊社殿の前に手水舎があった。古井戸は、けがれがなく、清らかという意味の「無垢(むく)から、「無垢の井」と名付けられている。ボーリングした井戸水が竹筒の先からしたたり落ちていた。近くの梨木神社の「染井」と同じ水脈なら飲用できると思って飲んだ。やわらかくて、うまい水だった。

手水舎の古井戸(右)。水盤に刻まれた文字は「清荒神」
なめらかで口あたりの良い「無垢の井」の水

 寺伝によると奈良時代の772(宝亀3)年、天智天皇の孫にあたる光仁天皇の子ども、開成(かいじょう)皇子が彫ったという荒神を大阪府箕面市にある勝尾寺で祀(まつ)ったのが始まり。

清荒神のいわれ書き

慶長年間、現在地に

 1600(慶長5)年、現在地に遷座。江戸時代の1697(元禄10)年、御所を護ろうと東山天皇が護浄院と名付けた。1778(天明8)年の大火で焼失。寛政年間(1789-1801年)に再建された。明治政府の神仏分離政策で、御所や公家宅にあった仏像の多くが護浄院に移されたという。

清荒神の西口

 荒神尊は火の神、竈(かまど)神。火伏(ひぶせ)の霊験(れいげん)があるとされる。一般的に竈に火をくべることから火災の発生を心配してか「怖い神」としてあがめられ、火伏だけでなく「災難除け」として信仰されている。京は疫病だけなく、たびたび大火があっただけに、京都市北西にある火伏の神・愛宕山(標高924㍍)の愛宕神社を含めて、荒神信仰が厚い。

48清浄華院の華水

  浄土宗総本山の1つ、清浄華院(しょうじょうけいん)の手水舎は西門を入って右手にある。2011(平成23)年の法然800年遠忌(おんき)を記念して2013(平成25)年に新しく井戸をボーリングした手水舎。

清浄華院の手水舎

水温は年間通して一定

 厳冬期の2月27日、「華水」と呼ばれる井戸水は温かった。水温は年間通して16度前後あるという。

水盤からあふれる華水

  円形の水盤の中央から水が湧き出し、水盤の水が下にこぼれ落ちていた。左に2カ所の蛇口があり、ひねると同じ華水が出るようになっている。水をくみ上げるポンプも備わっていた。

水盤の真ん中に湧き上がる華水

 「比較的新しい井戸です。手洗いだけなく、もちろん飲むことができます」と中堅の僧侶が教えてくれた。

清浄華院

  京都御苑にある平安時代前期の公家、藤原良房の屋敷にあった「染殿井」跡、梨木神社の「染井」近く。同じような水脈なら、うまいのも当然だと思った。寺はいつも開放されているのに、水くみの人はほとんど見かけない。

清浄華院の東門

 寺伝などによると、清浄華院は一般的に寺名を縮めて浄華院(じょうけいん)と呼ばれる。平安時代の860(貞観2)年、清和天皇の勅願で、比叡山・天台宗の慈覚大師・円仁(第3代天台座主)が御所・禁裏内の道場として創建した。

清浄華院のいわれ書き

新しい説法

 平安時代末期の1175(承安5)年、法然は修行していた比叡山を降り、東山・吉水(現在の丸山公園の上)に草庵を結んだ。「救いの道は唯一、念仏の称名」という説法は従来の難解な仏教と違って簡潔なうえ新鮮さがあり、後白河法皇、高倉天皇、後鳥羽上皇は法然を戒師として受戒した。

だれでも飲める華水の手水舎

 後白河天皇が宮中の清浄華院を法然に下賜(かし)したことで浄土宗に改宗した。清浄華院では慈覚大師を創立開山、法然上人を改宗開山としている。明治政府の神仏分離政策で、現人神・天皇のいる宮中から出て現在地に移った。

49蘆山寺の雲水井


蘆山寺の手水舎

 蘆山寺(ろざんじ)=正式な寺名は「天台圓浄宗大本山廬山天台講寺=の手水舎に古井戸があった。水が出ている。てっきり井戸水と思ったら、水道水だった。住職は「井戸の水を出したら、飲む人がいるから井戸水は使わないように、との厳しい行政指導があったという。仕方なく、費用を出して水道水を引いた。もったいないことです」と話した。
 

井戸の蓋を開けると石組みの円筒形だった

 古井戸の孟宗竹を編んだ蓋(ふた)を開けて良いと言われたので、蓋を開けて中をのぞいて写真を撮った。円筒形をして、土壁の崩れをふせぐ石組みがあり、底が見える浅井戸だった。
 

手水舎の古井戸は円筒形の浅井戸。底が見える

 一帯は鴨川の西岸(右岸)に近く、鴨川の伏流水が豊富な場所だった。かつて3㍍ぐらい掘り下げれば水がわいたという。今は井戸水の湧出はなく、涸(か)れていた。いつごろ、湧出がなくなったのか不明。鴨川の川底が掘り下げられて底が下がったことや、周辺の宅地・都市開発で水位がかなり低下したこと、地下水の取水過多などが影響しているとみられている。

寺の裏にある慶光天皇陵
「雲水井」の周りにある生垣

鎌倉時代の古井戸

 これとは別の古井戸が寺の北側、慶光天皇陵のそばにある生垣で囲んだ中にあった。寺の裏側、墓地の方にあり、ツバキなどの生垣に囲まれているので見つけにくい。「雲水井(くもみずのい)」といい、吉田山南麓(なんろく)にある古寺「東北院」の古井戸と同じ名称。
 生垣の途切れたところに石段があり、一番下の11段まで降りると井戸にたまった水をくめるようになっていた。石段の入り口に鎌倉時代の石仏がある。石仏は顔かどうか判別しないほど風化している。

「雲水井」に降りる石段

 東北院は平安時代中期に権勢をふるった藤原道長の長女で一条天皇の皇后だった彰子が立て寺。かつて蘆山寺のある地に寺があった。彰子には紫式部や泉式部が仕え、和泉式部はこの地に住んだと伝えられている。紫式部が彰子に付けた当時、東北院に住んだかどうかは分からない。東北院には弁財天があり、東北院の移転する先々で弁財天のわきから井戸水が湧出したといわれる。

石段を降りたところに湧出の「雲水」があった

 井戸の地表の口径は2㍍~2・5㍍、深さは約3㍍。底まで石組みが施されて円筒形をしている。地中から浸み出したり、湧きだした水がたまる「閼伽(あか)井」で古くからの井戸造りの手法。いつごろから水がなくなったのかは不明。
 階段を最下段まで降りた。底が近くにあったが、手は届かなかった。底には雨で流れ込んだ土砂や枯れ葉がたまり、水は全くなかった。井戸は鎌倉時代に掘られたという。

石組み壁が築かれた「雲水井」

自然石の石組みの壁が施された井戸の中
「雲水井」の底は土砂や枯れ葉がたまり、水はなかった

 ちなみに慶光天皇とは明治天皇の直系の祖にあたる閑院宮典仁親王のこと。1884(明治17)年、慶光天皇の諡(おくりな)が贈られたが、歴代天皇には加えられていない。

蘆山寺沿革の説明書き

 蘆山寺は京都御苑東側の寺町通り沿い、住所だと上京区寺町通広小路上ル1丁目北ノ辺町にある。寺伝などによると、938(天慶元)年に天台座主を務めた良源(元三大師)が船岡山の南麓(なんろく)に設けた與願金剛院が始まり。

蘆山寺
寺町通りに面した蘆山寺の西門

天正年間に現在地

 1245(寛元3)年、出雲路に蘆山寺が開かれたが、室町時代の大火で堂宇(どうう)が焼失した。天下人となった豊臣秀吉が都の整備で寺町を設けたのを機に16世紀後半の天正年間にこの地に移された。

紫式部にちなんだ「源氏の庭」

紫式部ゆかりの寺

 「源氏物語」などを書いた紫式部邸の跡と推定されている。紫式部の曽祖父、藤原兼輔の屋敷があった。屋敷が鴨川の西岸に接していたことから「堤邸」と呼ばれた。紫式部は人生の大半をこの屋敷で暮らし、結婚して一女をもうけ、1031(長元4)年に59歳で死去したという。

流水をかたどった苔と白い砂利が美しい「源氏の庭」

 蘆山寺の庭は「源氏の庭」と呼ばれる。流水をかたどった苔(こけ)と白い砂利を敷き詰めた庭で、夏から秋にかけてキキョウが咲く。庭の一角に筆塚など紫式部ゆかりの碑がある。庭の東側裏手が墓地になっており、秀吉が都の防御にために築いた東側「お土居」の堀跡がある。(つづく)(一照)

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