16京都・街の湧水、黒谷・吉田山界隈

53金戒光明寺の井戸水


金戒光明寺の手水舎

 黒谷(くろだに)・金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)の手水舎は、本堂に向かって左手前にある。水盤など水のあるところに多くのオモチャのアヒルの子どもや花が浮かべられている。水は井戸水をポンプアップし、少しだけ出ている。

井戸(左)からくみ上げた水がチョロチョロ出る手水舎
花いっぱいの水盤


 墓地の入り口近く、頭髪が伸びすぎて螺髪(らほつ)がもっこりしている五劫思惟(ごこうしゆい)阿弥陀仏座像の前に古井戸の井桁(いげた)があるほか、墓地から池を経て御影堂に登る階段の途中にも古井戸の井桁があった。ともに井桁があるだけで水は出ていない。

墓地の五劫思惟像の前にある井桁
階段の途中にある井桁

 これとは別に特別公開される「紫雲の庭」の隅に「黄金水の井戸」があるというが、井戸の周囲には立ち入ることができない。また境内の西に、1589(天正17)年に創建された塔頭「栄摂院(えいしょういん)」がある。庭の奥に「明星井(めいせいい)」という井戸があり、今も水が湧出しているという。
 寺伝や寺のホームページなどによると、金戒光明寺は、京都市左京区黒谷町にある浄土宗大本山の寺。比叡山西塔の黒谷にちなんで、ここも通称「黒谷さん」と呼ばれる。京都市内に4カ所ある浄土宗本山(金戒光明寺、知恩院、百万遍知恩寺、清浄華院)の一つ。

金戒光明寺の御影堂

 法然が1175(承安5)年に比叡山の黒谷を下って、この地に立ち寄った。大きな石に腰掛けると、石から紫の雲が立ち上った。石のそばでうたたねをすると紫雲がたなびく夢を見たことで浄土宗開宗の草庵を結んだのが寺の起源とされている。
 古寺なのでさまざま歴史を重ねてきた。室町時代、後小松天皇は法然が最初に浄土宗の布教を行ったとして「浄土真宗最初門」の扁額を贈った。山門に掲げられている。

まるで要塞のような寺の山門

 山の急な南西斜面を利用して堂宇(どうう)がある。斜面ぎわに高い石垣が二重にあり、まるで山城。要塞(ようさい)のような構えは知恩院も同じ。展望が良く、京の市中が広く見渡せる。
 徳川幕府を開いた家康は三河(愛知県)の浄土宗門徒だった。知恩院と金戒光明寺の改修は江戸時代初め、徳川幕府が京の市中を見張り、いざという時の戦さに供えて徳川の城郭となるように改修したという。
 会津藩主・松平容保(かたもり)が幕末の1862(文久2)年に京都守護職に就任。寺は京都守護職会津藩の本陣となり、藩兵1,000人が常駐した。会津藩士だけでは治安に手が足りず、新選組の組長・近藤勇が容保に謁見(えっけん)して、新選組は守護職預かりとなった。
 幕末の戊申戦争では鳥羽・伏見の戦いで多くの会津藩兵が戦死した。墓地の最も高く、人目につきにくいところに会津藩殉難者の墓地がある。1863(慶応3)年の王政復古で、薩長藩閥が京を支配し、京都守護職は廃止となった。本陣の設置から廃止までの6年間で会津藩兵の戦死者は鳥羽・伏見の戦いの戦死者を中心に237人にもなった。
 弔ったのは寺に出入りしていた、使い走りの男だった。男は後に侠客(きょうきゃく)・会津小鉄と呼ばれた。寺は明治政府の威圧を恐れてか、墓参の人らが行かない墓地最上段の目立たない場所に墓地を与えた。一介の侠客に弔われたことや悲惨だった会津戦争などを含めて会津藩の幕末はやたら物悲しい。

54真如堂の井戸水


真如堂の手水舎、右手後ろは三重塔

 天台宗・真如堂(真正極楽寺)の北東の総門から本堂に向かう参道を入って右手に手水舎がある。後ろに三重塔があり、手水舎の左わきに花の木の老木がある。一幅の絵になる光景だ。

わずかな量だが、井戸水が出続ける手水舎

 水は井戸水で浅井戸の水をポンプアップしているという。寺では飲用を薦めていないが、井戸水というので飲んでみた。やわらかく、口当たりの良い水だった。ただ水をくんでためるほどの水量はなく、ペットボトルに入れるとしても時間がかかる。

水盤にたまる井戸水。竹筒の先から少量の水が出ている

 社伝や寺のホームページなどによると、平安時代、天台宗を興した最澄に師事し、後に第三世天台座主を務めた慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)が創建した。

真如堂
吉田山に向いた総門

 本尊の阿弥陀如来立像は、円仁が彫ったといわれる木造で、衆生済度(しゅじょうさいど)、特に女人済度の阿弥陀如来とされている。また、陰陽師(おんみょうじ)の安倍晴明(あべのせいめい)も寺とかかわりがあり、清明が無病息災・長寿を加持した「五行之印紋(決定往生の秘印)」を本堂で授与している。

55吉田山・宗忠神社の神水


宗忠神社・神井のいわれ書き

  真如堂の総門から出て、真向かいにある吉田山を南東から登ると黒住教の宗忠神社。階段を登りきった左手に神水がある。かつてはだれでも水を飲めたという。しかし、水質検査で保健所の指導が厳しくなり、飲めなくなった。毎朝、神前に供する水だけポンプアップし、くみ上げているという。

宗忠神社の神井

  参道の階段を上り切った左手にある手水舎の水は水道水だった。

吉田山で唯一、現役の古井戸

  宗忠神社は天台宗の真如堂(真正極楽寺)の真向かい、東北の方角にあたる吉田山神楽岡(左京区吉田下大路町)にある。真如堂総門から歩いて数分と近くだ。
 宗忠神社は江戸時代後期、黒住教の高弟、赤木忠春が、新しい神道として黒住教を起こした教祖・黒住宗忠(1780~1850)を祀る神社として神楽岡に創建。御神水の井戸はその時、忠春の発案で掘ったとされる。三尺(約90㌢)掘ったもののなかなか水が出なかったが、忠春の祈りで一夜にして清水がわき出たと伝わる

宗忠神社の社殿

 吉田山には吉田神道の吉田神社、吉田神社より上にある境内の斎場所大元宮、竹中稲荷神社などがある。いずれも手水舎は水道水か、手水場の水がないところもある。黒谷下の岡崎神社も手水舎は水道水だった。

吉田神社社殿前の古井戸の井桁

  吉田山で井戸水が出ているというのは宗忠神社の神水だけ。吉田神社の社殿前に石組み井桁の古井戸があった。これを生かせば、古井戸の水が出る。吉田神社には古井戸の水がふさわしいと思った。
  吉田神社は平安時代の859(貞観元)年に奈良・春日大社の神を平安京の鎮守神として勧請(かんじょう)したのが始まり。室町時代に吉田兼倶(よしだかねとも)が、神道や仏教、儒教などをまとめた吉田神道を興した。

八角形の大元宮

 山の上の方に斎場所大元宮(さいじょうしょだいげんぐう)を造営して延喜式神明帳に載るすべての式内古社の神々を合祀した。大元宮は珍しい八角形の社殿だ。(つづく)(一照)


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