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夏が終わらない

「あのね、あそこの会社は、プログラマーが外注なんだよ」と切り出してみる。「あ、そうだったんですか」という電話の向こうの部下の声からは、まだ感情が読み取れない。「だからさ、なるべく修正指示は、まとめて1回で出してあげて。細かく出してしまうと、その都度、プログラマーの人件費がかかってしまうから。今回さ、保守料金の範囲でやってもらっているから、なるべく経費がかからないようにしてあげてほしいんだ」と、なるべく明るい声で少し具体的に説明してみると、「わかりました!」と、今度はさっきより部下の声が明るくなった。それを聞いてほっとする。

メールだけ見ていると、部下と協力会社のやりとりは、冷え切った夫婦のやりとりのように見える。単発で修正指示を出すウチの部下に対して、「再度、指示書の形にして送ってください」とだけ返す、協力会社の担当者。悪い人じゃないんだが。というか、メールだけじゃなくて一本電話で話をすれば、もっとスムーズにコミュニケーションが取れるんだが。最近の若い世代は、どうもメールに頼りすぎる、と40代後半の僕は思ってしまう。

今回、僕が電話でフォローを入れているのも、メールだとどうしても「注意」している感じになって委縮してしまうからだ。真面目でプライドの高い部下に、メールだけで何かを伝えるのは、あまり良くない。感情が見えないのだ。そうなると、ニンゲンというのはネガティブに捉えてしまうものだ。


「今日は、雲の形が面白いですね」と、ラジオで見事な演奏を披露していたジャズピアニストがコメントしていた。即興性の高いジャズ音楽。彼は、その雲の形にインスピレーションを受けながら、ジャズピアノを演奏していたのか。僕は、運転しながらそれを聞いていて、同じように不思議な形の入道雲に見とれていたから、そのピアニストのコメントに何だかグッときてしまった。車は、靖国神社の横を通っていた。すると、観光バスの右折待ちでしばらく停止する。窓を開けてみると、鬱蒼とした樹々の間から力強いセミの声が漏れ聞こえてきた。まだ夏なのだ。日本の戦争の記憶も掘り起こす、もの哀しさを伴う日本の夏なのだ。

部下との電話のやりとりの間も、青い空の向こうに、アルプスの山々のような入道雲がそびえ立っていた。本当はバスで帰社するつもりだったが、そのまま僕は、住宅街の裏路地を歩いて帰る事にした。この町は海が近いから、都心よりも風が抜けて幾分か涼しい。裏路地では、建設途中のマンションの一階で職人さんたちがアイスを食べて休んでいた。昔ながらのタバコ屋さんが、店の入り口のドアを大きく開けており、その向こうでお爺さんがランニング姿で野球らしきものをテレビで見ている。

そういえば、今年は船橋の裏路地も歩いた。なんだか分からない行列に並ぶ人たちを見かけた。あとは、夜の門前仲町も歩いた。それから、、、思い出せないけれど、熱中症アラートをかいくぐるように、夏を感じたくて、僕は歩いた。

それでも、今日の入道雲をみて、セミの声をきいて、やっと何か夏らしい気持ちになった気がする。ただ暑いだけではない、日本の夏というもの。コロナが明けて、ようやくお祭りや花火大会が戻ってきたけど、まだ本調子じゃない、日本の夏。坊主頭じゃない高校球児の甲子園。夏、夏、夏。なんというか、日本の夏を僕は探そうとしている気がするし、或いは変わろうとしている夏の姿をこの目に止めようと必死になっているような気もする。夏ってなんだったっけ。

8月が過ぎても、まだ暑い日がつづく。9月に入っても真夏日が続くかもしれない。でもそこに本当に夏はあるのだろうか。雲が不気味な光を放っているようにみえた。

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