本日は十三夜

思ったわけです。

なんか今日、やけに月が綺麗だなぁ と。

今日はかなり落ち込んで帰っていたので、ちょっと上を向いて歩こう的な、そんな感傷的な個人の心理状態のためかと思っていました。

が、ちゃんと月が綺麗なのには理由がありました。

本日は「十三夜」なのだそうです。

思い返してみると、まったく同じ現象が、中秋の名月、すなわち「十五夜」でもありました。

その日もなんとなく空を見て「なんか今日やけに月が綺麗だな〜」と思って帰宅する。

すると、ニュースやTwitterで『今日は〇〇夜、名月の日です』とやっている。

それで初めて、なるほどだから今日は月が綺麗なのか〜、と、私は納得したわけです。

でも、よくよく考えてみれば、これは非常に不思議な現象です。

たしかに満月や新月など月の満ち欠けそのものは、大昔から変わらない、一般的な事実・共通の認識です。

しかし、今回の私のように、名月の夜「〇〇夜」を、2000年代の現代において、なんら知識を持たない一個人が、このようにピンポイントで体感できるというのは、非常に不思議な話です。

「月が綺麗ですね」という感覚の夜が、平安?ぐらいの大昔を生きた人々にも、2022年を生きる一個人である「私」にも、ぴったりと一致している。

これってめちゃくちゃ不思議じゃないですか?

しかも本日、十三夜は、ちょっと欠けた不完全な月が特徴の日でもあります。

きりの悪い今夜の月を、それでも十五夜に次ぐ名月として、醍醐天皇あたりの時代から「今日は月が綺麗だな〜」と沢山の人が見上げてきたわけです。

考えてみれば「十五夜」「十三夜」という名前の発生自体、そもそも不思議です。

「〇〇夜」という名称が生まれるには、「今日は月が特別綺麗な日だ」という共通認識が発生するには、それはそれは沢山の人が「今日は月が綺麗だなぁ〜」と同じように感じなければなりません。

それぐらい沢山の人が、大昔から(いにしえのときから?)同じように「今日は月が綺麗だなぁ」と感じているというのは、それはとても不思議なことです。

時代を超えた大勢の人の感覚と、今の自分の感覚が、月を通して繋がっている。

なんとも不思議かつ、安心することでもありますね。

もちろん、土用丑の日みたいに、特定の個人によって「今日はこれを楽しむ日!」と決められてしまって、それでなんとなく、商業的にその風習が続いているだけかもしれません。

が、

そう思う人も一度、今夜の月を見上げてみてください。

本日の月は名月の名にふさしい綺麗な月でしょうか。

それとも普通の、晴れた日の月でしょうか。

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